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ガザから引き離されて(後編)―強いられる不条理、生き抜くための連帯

※この記事は、壮絶な体験や死別、離別に関する内容が含まれています。
「ここにいても何も楽しむことができない」――。イスラエルの軍事侵攻により、パレスチナ自治区ガザ地区からエジプトへの避難を強いられたある女性は、そんな感情を吐露した。
「私だけ生き残ってしまった、私だけ避難してしまった、と常に考えてしまうから」
こうした「罪悪感」や自責の念は、ときに「サバイバーズ・ギルト」と呼ばれるが、同様の思いを語る人は少なくなかった。
エジプトに身を寄せるガザからの避難民が、不安定な生活を強いられている現状については、下記の前編記事で触れている。
ガザ地区の封鎖下の環境は、「天井のない監獄」と評されることがあるが、基本的権利のない状態に置かれたエジプトでの生活もまた「監獄のようだ」と、取材に協力してくれた男性は語る。しかしその不条理の根本は、占領と封鎖、民族浄化を続けるイスラエルが生み出しているものにほかならない。
すべてを変えた軍事侵攻
先の見えない暮らしの中で、人々はどのように日々をつないでいるのか。
「ガザでは仕事もし、多くの人々に囲まれて幸せに暮らしていました。しかし、あの軍事侵攻が、すべてを変えてしまいました」
フィダー・ファドルさんは、エジプトの首都カイロ郊外、集合住宅がひしめく一角で生活している。幼い娘3人との避難生活は、困難に次ぐ困難の日々だった。

自宅で取材に応じてくれたフィダーさん。(安田菜津紀撮影)
ガザの自宅が爆撃を受けた際、フィダーさんは辛うじて瓦礫の下から救出されたものの、頭を強く打ち、頭蓋骨にヒビが入る重傷を負った。目の中に破片や砂、ガラスが入り込み、出血も止まらなかった。ガザ地区内の病院では、麻酔も医療物資も乏しく、刻一刻と視力が失われていく中、身ひとつで――つまり娘たちを残したまま――エジプトへ出るほかに道はなかった。
エジプトでは計3回の大がかりな手術を受けたものの、片眼の視力は奪われた。眼球の形を維持するため、今も高額な薬と定期的な通院が欠かせず、片頭痛にも悩まされている。
「何より辛かったのは、娘たちと離れ離れになったことです。エジプトの病院で、自分よりもさらに凄惨な怪我を負った人々を毎日目の当たりにする中、私の精神状態は限界に達していました」
娘たちの身にもしものことがあったらと、不安は募るばかりだった。
「私は、『子どもたちをここに呼んでほしい、さもなければガザに私を帰して、彼女たちと一緒に死なせてほしい』と訴え、病院で8日間のハンガーストライキを行いました。水さえも拒否し、点滴だけで過ごした私の命がけの訴えに、ようやく関係者が動いてくれたのです」
娘たちがガザ南端の街、ラファを通過してフィダーさんの元にやってきたのは、検問所がイスラエル軍によって「制圧」され、閉鎖されるわずか数日前のことだった。
「死を覚悟していた私は、病院で娘たちと再会したとき、魂が戻るような心地がしました。けれども娘たちは、私の変わり果てた姿を見て、『お母さん、まだ生きていたの?』『どうしてお目めがそんな風になっているの?』と、泣きながら問いかけてきました」

手術を繰り返していた頃のフィダーさん(右)。(安田菜津紀撮影)
子どもたちの未来のために生きている
今は親族や支援団体からのわずかな援助で、家賃や光熱費、医療費を賄っている。
「ガザにいた頃は自立して生活をしていた私が、今は他人の助けを借りなければ子どもたちを養えないことに、ときおり強い羞恥心を感じることもあります。しかし立ち止まっている暇はありません。娘たちはガザでのトラウマを抱え、今でも飛行機や雷の音を聞くたびに、爆撃だと思い込んで私の膝に震えながら飛び込んできます。特に一番下の娘は、人生のほとんどを戦争の中で過ごしてきました」
フィダーさんの父は、軍事侵攻直後に爆撃で殺害された。最期の電話で父は「娘たちを頼む、もう会えない気がする」と言い残していたという。
「葬儀にさえ出られなかった悲しみは消えませんが、父が愛したこの子たちを守ることが私の使命です」
娘たちは、パレスチナ自治政府が運営するオンライン授業を受けている。長女は黙々とスマートフォンに向かい、試験の準備に勤しんでいた。
「私は今、子どもたちの未来のために生きています。停電や不安定なネット環境に悩まされながらも、長女は『お母さんのように人を助けたい』と、医者になる夢を抱き、勉強に励んでいます」
次女が近所の体操教室で習いたての踊りを披露しはじめると、フィダーさんの顔がほんの少しほころんだ。
「長年かけて築いたすべてが瓦礫になってしまいましたが、命だけは残りました。たとえ家の跡地にテントを張って暮らすことになっても、いつか必ず平和になった故郷に帰ることを夢見ています」

娘の踊りを見守るフィダーさん。(安田菜津紀撮影)
空中投下物資に潰された命
フィダーさんはしばらくの間、同じくガザから避難したアマル・カヌーナさんのアパートに身を寄せていたことがあった。現在はアマルさんたちが立ち上げた、ガザ出身の人々を支えるプロジェクトにも携わっている。
アマルさんは地元ガザで、子どもの教育支援活動などに従事していた。国連のプログラムでカイロに滞在中、ガザへの軍事侵攻が起き、故郷へ戻る道は閉ざされた。自らも深い喪失を抱えながら、避難者の生活再建や心理的ケア、子どもの学習支援を行う組織をカイロで立ち上げた。

医療的なケアが必要な人々を待つフィダーさん(右)とアマルさん。(安田菜津紀撮影)
23年の軍事侵攻以来、それまでにも増してガザ地区への物資搬入は困難なものとなっていった。生活必需品や医薬品などを積んだトラックも、イスラエルにより極度に制限され、爆撃を受けたり、支援団体の職員が殺されたりすることもあった。そんな中、隣国のヨルダンなどが、支援物資をガザ地区内に空中投下していた時期があった。
やむにやまれぬ措置だったが、ときにそれも命を押し潰す事故へとつながった。
「私の姉の息子は、『たくさん食べ物や飲み物を持ってきてあげる』と家族に言って出かけましたが、空からの物資が直撃したことで亡くなりました」
アマルさんのスマートフォンに残る甥の顔には、まだあどけなさが残る。
「私たちには尊厳を持って生きる権利があるはずです。私たちは数字ではなく、一人ひとりに物語があり、夢があるのです」

ギザからカイロの方角を望んで。(安田菜津紀撮影)
希望の糸をつむぐ女性たち
アラー・アル・ハッダードさんもまた、ガザから避難してきた人々同士をつなげようと奔走するひとりだ。
カイロ市内の雑居ビルの部屋を借り、女性たちは毎週、ここに集い、ひと針ひと針、細やかな刺繍作品を仕上げていく。

女性たちが仕上げていく刺繍の作品。(安田菜津紀撮影)
アラーさんは建築家であり、トラウマに苦しむ女性たちのケアにも携わってきた。2024年3月、ガザ南部の境界が閉鎖される直前に、家族でエジプトへと脱出した。
「カイロでの生活は困難の連続で、最初は自分自身の癒やしのために、子どもの頃からの趣味だったパレスチナ刺繍――タトリーズを始めました。刺繍に没頭することで現実の苦しみから離れ、心を整えることができた経験から、私は『Threads of Hope(希望の糸)』というプロジェクトを立ち上げ、同じように避難してきたガザの女性たちのコミュニティを作りました。イスラエルが私たちの伝統を奪おうとする中で、タトリーズはパレスチナの歴史や土地の物語を継承し、アイデンティティを守るための大切な手段なのです」

見本を手に、「各地域、各村で受け継がれてきた刺繍がある」と語るアラーさん。(安田菜津紀撮影)
「脱出時、家族は恣意的に引き裂かれるのです」という言葉に、取材中幾度も触れた。
越境のための「調整」にたどりつけたとしても、「男性は通さない」とはねられてしまうことがあるのだ。運よく通過できても、仕事もできない無力感から、鬱になったり、苛立ちを募らせたりする男性も多いという。そしてときに、そうした苛立ちが女性に向かうこともある。孤独や無力感、ストレスなど、様々な重圧にさらされる女性たちが、こうして一時的にでもその環境から離れ、互いに言葉を交わせる時間は貴重なものだった。
プロジェクト参加者のハウラ・マフムードさんは、かつて薬局に勤めながら、グラフィックデザイナーとして、結婚式で配るお菓子を入れるためのギフトボックスや、卒業式で使うデコレーションなどを制作していた。今は姉と、その幼い娘と共に避難生活を送っている。軍事侵攻が始まる以前から片手のための義手を求めてきたが、とりわけ公的支援の乏しい現在の環境では、とても入手できないという。
「ここでは自分を強く保ち、自立して生きていかなければなりません。毎週こうして集まり、制作活動を共にすることは、精神的な大きな支えでもあります」

作品作りに打ち込むハウラさん。(安田菜津紀撮影)
フィダーさんの娘と同様、アラーさんの子どもたちもまた、オンラインでの授業を継続していた。自宅ではときおり、長女が小さな画面に映し出される「宿題」について、アラーさんに尋ねていた。
「けれどもこれだけでは、真の教育とは言えません。友人との交流もできず、社会性を育む機会も失われています」と、アラーさんは子どもたちの将来を危惧する。
「ガザではこれまで何度も戦争を経験してきましたが、今回のものは過去最悪で、私の祖父母が1948年にヤッファを追われた時と同じシナリオが、再び繰り返されているのです」

オンラインで授業や試験を受けるアラーさんの長女。(安田菜津紀撮影)
繰り返されるナクバに加担する日本
「これが祖父母たちが経験したナクバなのだと痛感した」――。そんな思いを語る人は少なくなかった。そもそもガザ地区の人口の約7割が、イスラエル建国の過程で故郷を追われ、難民とならざるをえなかった人々やその子孫といわれている。
カイロで出会ったある家族も、90代の祖母がナクバを経験し、ガザで暮らすようになったという。ところが2023年10月に始まった軍事侵攻によって再び焼け出され、最後には「せめてガザの家で死にたい」と言いながら、テントで亡くなっていった。パレスチナの人々にとって「ナクバ」は過去の事象ではなく、現在進行形で続いている暴力なのだ。
今年(2026年)1月、小野寺五典・安全保障調査会長らがイスラエルを訪問し、ネタニヤフ首相と握手を交わす写真が拡散された。イスラエル首相府の声明では《ネタニヤフ氏は戦争中に日本が支えてくれたことに謝意を表明した》という。
ネタニヤフ首相には、国際刑事裁判所(ICC)から「人道に対する罪」と「戦争犯罪の容疑」で逮捕状が出されている。SNSに「釈明」程度の投稿をする議員もいたが、結局はイスラエル側のナラティブの中で、彼らの行いに「お墨付き」を与えるのに一役買ってしまったと言わざるをえないだろう。
小野寺氏はX(ツイッター)に「イスラエルはミサイル防衛やサイバー、ドローン分野でも世界の先端技術を有しており、今後の日本の安全保障政策を検討する上で役立つ」と投稿したが、その「先端技術」とは、誰の命を「実験台」にしてきたものなのか、ガザやヨルダン川西岸地区で続く、占領と民族浄化の実態を見れば明らかだ。
現在、防衛省がイスラエル製の軍事用ドローンの購入を検討していることに批判が寄せられているが、1月9日、東京新聞が《ガザ攻撃開始後にイスラエル製武器を日本政府が241億円分購入と判明》と報じた。エルビットシステムズをはじめ、イスラエルの軍需産業に、すでに日本政府は深く関わってきたのだ。
「私たちを“支援が必要なかわいそうな存在”、“あわれな人たち”とみてほしくない。ただ尊厳をもって生きたいだけだ」というガザの人々の声に、これまでの取材で何度も触れてきた。
今起きていることは、日本から「支援してあげる」「助けてあげる」という上から目線で語っていい問題では決してない。むしろ日本政府は明白に加担している。それに歯止めをかけていくのは、市民の声や行動だ。

「希望の糸」に参加する女性が、丁寧に刺繍を仕上げていく。(安田菜津紀撮影)
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フォトジャーナリスト安田菜津紀Natsuki Yasuda
1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『国籍と遺書、兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に』(ヘウレーカ)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。
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