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「開発という名の暴力」を問う―フィリピン・バタアン原発稼働に抗う声

バタアン半島――その地名から、「死の行進」を思い浮かべる人も多いのではないか。
1942年4月、バタアン半島を占領した日本軍は、米比軍兵士約7万6000人を、捕虜収容所への移送のため最長100数キロ歩かせた。マラリアなどの病気や、日本軍の監視兵による暴行などによる死者、その後の収容所での死者も合わせると、犠牲者は3万人とも言われている。道中のパンティンガン川では、フィリピン第91師団の捕虜400人が殺された(※)。何度も銃剣で刺され、あるいは首を切られ、谷底へと落とされていったという。
(※) 1946年1月11日付の『ニューヨーク・タイムズ』にはフィリピン攻略戦を指揮した本間雅晴中将の戦犯裁判における証言などが記録されており、パンティンガン川での虐殺についても述べられている。
フィリピンにおける日本軍の「加害の歴史」については、追って取材記事を公開します。
そうした日本軍による「加害の歴史」が刻まれている地だが、実は今、「原発の稼働」をめぐって市民が声をあげている。「再稼働」ではない。なぜならその原発は、1984年に完成して以来、「一度も稼働したことがない」からだ。
Contents 目次
バタアン原発、独裁政権の亡霊
2026年、世界は深刻なエネルギー危機の渦中にある。米国およびイスラエルによるイランへの軍事侵攻は、原油・天然ガス供給網を直撃し、エネルギー価格は高騰を続けている。
この世界的エネルギー危機以前から直面している、東南アジア最高水準の電気代と慢性的な電力不足に苦しむ市民に対し、フィリピンのフェルディナンド・マルコスJr.大統領はひとつの「解決策」を提示している。それが、かつて自身の父であるマルコス元大統領が建設し、一度も稼働せぬまま40年放置されてきた「バタアン原子力発電所(BNPP)」の稼働に向けた動きだ。
「安価でクリーンな国産エネルギーへの転換」という甘い言葉で糊塗されているが、それは本当に「夢のエネルギー」なのだろうか。40年前に完成しながら、その稼働が現在まで許されなかったのは、バタアン原発の背後にある欺瞞に、多くの市民が声をあげ続けてきたからだ。
バタアン原発を生み出したのは、1965年から1986年まで、フィリピンで独裁政権を敷いていたフェルディナンド・マルコス政権だ。1972年9月21日、マルコス大統領は布告第1081号を発令し、全土に戒厳令を敷いた。主要な新聞社や放送局は閉鎖され、政権に批判的なジャーナリストは次々と逮捕された。人権は徹底的に無視され、裁判所を通さずとも、軍や警察が「国家の敵」とみなした者を恣意的に拘束できる体制が作られていった。
政府の圧制に抗う市民は「失踪」し、拷問を受けた後に遺体となって発見されるという事態が常態化した。国際人権団体等の推計によれば、戒厳令が敷かれていた72年から81年までの犠牲者数は「拘束者約7万人、拷問被害者3万4,000人、殺害された者3,200人」とされている。
マルコス政権が原発計画を本格的に始動させたのは、70年代の第一次オイルショックの影響を受けてのことだった。当時のフィリピンは、エネルギー需要のほぼ100%を輸入原油に依存しており、原油価格の高騰は経済に致命的な打撃を与えることとなった。
そこでマルコス氏は、「エネルギーの自立」を国家の最重要課題として掲げ、「最先端かつ夢のテクノロジー」の導入に向けて動き出した。76年にバタアン原発の建設を開始し、84年には運転テストを終え、稼働を目前に控えていた。

マニラ湾を望む海岸通りには、独裁政権下で投獄されながらも声をあげ続けたジャーナリスト、マキシモ・V・ソリヴェン氏の彫像が立っている。(佐藤慧撮影)
「巨大な利権集金システム」としての原発
「その計画は欺瞞に満ちていました」
そう語るのは、バタアン州の州都バランガに法律事務所を構える、ダンテ・イリヤ弁護士だ。
「原発の敷地はナティブ山の麓にあります。ナティブ山は死火山ではなく、休火山です。いつ活動を再開し、噴火するかもわかりません」
そうした環境要因もさることながら、当時の腐敗したマルコス政権による原発であったことも、大きな不安要素だったとダンテさんは続ける。
原発は莫大な初期投資と国家ぐるみの推進・規制を必要とするため、必然的に「中央集権的」になりやすい構造を抱えている。
バタアン原発建設の入札当時、有力な候補はアメリカのゼネラル・エレクトリック社とウェスティングハウス社だった。ゼネラル・エレクトリック社の提案は「2基の原発を約7億ドル」で建設するという、詳細かつ具体的な設計図を伴う提案だった。フィリピンの国家電力公社の専門家たちも、その案を支持していた。
対するウェスティングハウス社の提案は、当初は「2基で約5億ドル」というものだったが、詳細な設計図もなく、最終的に「1基で11億ドル」という法外な価格に跳ね上がった。にもかかわらず、1974年、マルコス大統領は国家電力公社の決定を独断で覆し、はるかに高額で不透明なウェスティングハウス社に特命で契約を与えたのだ。
原発は単なる発電装置ではなく「巨大な利権集金システム」に陥る危険性が常にあると、ダンテ弁護士は警鐘を鳴らす。
「汚職のせいで、建設は本当に欠陥だらけでした。使われたネジや材料の品質にさえ欠陥があったという証言もあります。原発がもたらす本質的な危険性だけでなく、汚職による建設の欠陥が最初からあったのです」
「そうした汚職が指摘されながらも、当時は誰もマルコスに反対の声をあげることができませんでした。彼が原発のプロジェクトを立ち上げると決定した時、政府内でも司法の場でも、反対できなかったのです」

インタビューに応じるダンテ弁護士。(佐藤慧撮影)
独裁をくつがえす民衆
「バタアン原発の建設に反対できたのは民衆だけでした」
ダンテさんは、かつて大規模な市民運動「ウェルガン・バヤン(タガログ語で民衆ストライキを意味する)」を率いたひとりでもある。1985年、原発が立地するバタアン半島の市民たちを中心に、腐敗した独裁政権の推し進める原発稼働に反対する民衆運動が広がっていった。
「マルコス政権時代には、失踪やサルベージング(超法規的殺害)の被害者が大勢いました。独裁政権に反対する市民組織の積極的なリーダーやメンバーは嫌がらせを受け、投獄され、拷問を受けました。私も何度もそうした危機に晒されました」
バタアン原発をめぐる市民運動の歴史を詳細に記録した書籍『NUCLEAR-FREE NATION -The Power of the People VS. Nuclear Power in the Philippines』(編著:Roland G. Simbulan)には、当時の熱気が生々しく記述されている。
(同著P44-P49より抜粋/日本語翻訳:佐藤慧)
1985年6月18日から20日にかけて、バタアン州の公共交通機関の運転手の大半はルートを走るのをやめ、労働者は工場から立ち去り、学生は授業をボイコットし、銀行からフィッシュボール(魚のすり身揚げ)の屋台に至るまで、あらゆる商業施設が閉鎖された。老若男女、貧富の差を問わず、住民たちがバタアン原子力発電所プロジェクトに反対する州全域規模の「ウェルガン・バヤン」、すなわち民衆ストライキに参加したため、3日間連続でバタアン州の機能は完全に停止した。
ストライキの2日目には、ふたつの主要な地点に人間のバリケードが築かれた。(中略)一方、行進やバリケードに直接参加しなかった住民たちも、参加者に食料を提供することで支援した。ビニール袋に包まれた食料が、空腹のストライキ参加者たちへと配られた。
当時の州司令官であったポンシアーノ・アンダヤ大佐は、当初ピラールでの交渉担当者を冷たくあしらい、10分以内に行進を強制排除すると警告した。V-150「コマンドー」装甲車が人間のバリケードに突進し、突破に成功した。それでもストライキ参加者たちは怯むことなく戦車(訳者注:当時市民たちは装甲車を「TANK(戦車)」と呼んでいた)の側面にすがりついた。さらに他の人々が再び人間の壁を作り、陸軍のジープが戦車に続くのを阻止したため、人々に包囲された戦車は孤立した。その後、軍は撤退を余儀なくされ、戦車はバリケードを抜けて町役場の敷地へと退避した。
「この運動は、原発稼働に対する私たちの断固たる反対の意志を示すものでした。そして、このウェルガン・バヤンは、マルコス政権を終焉へと追いやった、1986年のEDSAピープルパワー、エドサ革命の“先駆け”であったとも言えます」
交通や経済を麻痺させ、人間の鎖で軍を後退させたバタアンの運動は、「独裁は市民の手でくつがえせる」ということを示した。反独裁のうねりはマニラ首都圏をはじめ全国へと拡大し、ウェルガン・バヤンから半年後の1986年2月、大統領選挙の不正をきっかけに軍の一部が反旗を翻すと、数百万人の市民がマニラのエドサ通りを埋め尽くした。
「エドサ革命」である。
圧倒的な民衆を前に軍も発砲を諦め、マルコス一族はハワイへ亡命、コラソン・アキノ新政権が誕生した。
その後新政権下で、バタアン原発の安全性に関する調査委員会(通称プノ委員会)が設立され、1986年から1987年にかけて実施された詳細な調査では、バタアン原発には約4,000箇所の設計および建設上の欠陥があることが指摘されている。
さらに「エドサ革命」と同年4月のチェルノブイリ原発事故が決定打となり、バタアン原発は核燃料が抜き取られ、一度も稼働することなく「モスボール化(凍結)」された。
しかしその「亡霊」は幾度となく呼び戻されることとなる。

『NUCLEAR-FREE NATION -The Power of the People VS. Nuclear Power in the Philippines』(佐藤慧撮影)
東京電力福島第一原発事故の影響
2度目の大きな危機は、2008年から09年にかけて訪れた。グロリア・アロヨ政権下、推進派の急先鋒であるマーク・コファンコ下院議員が再稼働を命じる法案を提出したのだ。当時、世界的な原油価格高騰の煽りを受け、フィリピンの電気代は暴騰していた。「原発を動かせば電気代は劇的に安くなる」――その言葉は、かつての独裁の記憶が薄れつつあった市民の間で抵抗なく受け入れられていった。
「あの時、バタアン原発の稼働はもはや避けられない既定路線のようでした」
そう振り返るのは、「非核バタアン運動(以下NFBM)」のコーディネーターを務めるデレク・カベさんだ。彼女は1985年の「熱狂」を直接は知らない「第2世代」にあたる。
「私たちはダンテさんら“ベテラン”たちから、歴史のバトンを受け継ぎ、再び村々を回って啓発活動を始めました。プノ委員会が指摘した4,000箇所の欠陥は、20年の歳月を経てさらに劣化した金属の塊となっています。それを動かすことがどれほど危険なことか、科学的な視点で訴え続けました」
2011年、この2度目の波を止めたのは、皮肉にも日本で起きた東日本大震災に伴う東京電力福島第一原発の事故だった。原発を運用してきた技術を持つ日本ですらメルトダウンを防げなかった事実は、フィリピンの政治家たちにも衝撃を与えた。
「どれだけ安全に気を配っても、核エネルギーが絶対安全などということはないという、何よりの“生きた証拠”となったのです」
「開発という名の暴力」に抗う「第3世代」
そして2026年現在、マルコスJr.政権は、かつてのような軍事力による鎮圧ではなく、より巧妙な「情報戦」を仕掛けていると、デレクさんは指摘する。
SNSやインフルエンサーを使い、「原発はクリーンで雇用を生む」というナラティブを大量に流し込んでいるのだ。政府は、人々の否定的な態度を「調整」するための広報活動に、多額の予算を投じている。
「今の若者たちにはかつての独裁と市民運動の感覚が希薄です。1985年のウェルガン・バヤンを知らない世代に、SNSを通じて偽りのイメージが刷り込まれているのです」と、デレクさんは危惧する。
だが、そうした権力の都合の良い潮流に呑まれず、自分たち、そしてこれからの世代のために声をあげる「第3世代」がいる。
NFBMユースリーダーで24歳のエリックさんは、現在の状況を「開発という名の暴力」と呼ぶ。
「マニラの豊かな暮らしを支える電力のために、バタアンの住民の命が使い捨てにされる。この構造を変えない限り、燃料が石炭から核に変わったところで、私たちの搾取は終わりません」
エリックさんの故郷、バタアン州リマイは、フィリピン国内でも有数の産業集積地であり、特に石炭火力発電所が密集している。ここで作られた電力の多くは、巨大な電力需要を抱えるマニラ首都圏へと送られている。
中央の豊かな生活のために、地方の環境と住民の日常が搾取されている構造は、原発が稼働していない今でもすでに存在しているのだ。
同じくユースメンバーで22歳のティンさんは、すでに現在進行形で受けている公害の被害を訴える。
「リマイでは石炭火力発電所による大気汚染の問題が指摘されています。自然を愛する者として、私は次の世代にこんな空気を吸わせたくない。原発が稼働すれば、この『地方へのリスクの押し付け』が、さらに巨大な脅威になると危惧しています」
ティンさんと同世代のNJさんは、「私には世界で何が起きているかについての背景知識は何もありませんでした。日々のルーティンはただ学校と家の往復、それだけでした。そんなある日、原発や環境の問題について知る機会があり、自分でも運動に参加しようと思いました」と語る。

NFBMのメンバー。前列左からエリックさん、デレクさん、後列左からミライさん、ティンさん、NJさん。(佐藤慧撮影)
先送りにされる「最終処分場」問題
マルコスJr.政権は、既存のバタアン原発のような大型炉だけでなく、小型モジュール炉(SMR)の導入にも強い意欲を見せている。2023年には米国と原子力協力協定(123協定)を締結し、離島などへの分散配置を前提とした調査を進めているという。「小型で安全」というイメージが先行するが、実績のない新技術の「実験場」となる懸念や、分散される核廃棄物管理の危うさについては、十分な議論がなされているとはいえない。
現在、世界的なエネルギー価格の高騰が起きている。かねてから大きな課題とされていたフィリピンのエネルギー問題を盾に、「より安価な原発による電気を」という声が、原発推進派により高まっているという。
「彼らは常にそのように主張します。けれどそれは事実なのでしょうか?」と、ダンテ弁護士は疑問を呈する。
「たしかに、稼働中の原発で生産される電気のコストだけを計算すれば、ほかの発電よりも安く見えるでしょう。しかし本来であれば、そこには核廃棄物の処分費用や、原発の廃炉費用も含めなければなりません。そうなればコストは跳ね上がります。そうした言説は誤解を招くミスリーディングなのです」
原発には、その「安全性」や「権力と癒着しやすい構造」のほかに、「放射性廃棄物の処分」という問題がついてまわる。
現在日本は、大きく分けて「ふたつ」の最終処分問題で行き詰まっている。
ひとつは、東京電力福島第一原発の事故により福島県内で生じた除染土壌などの廃棄物だ。現在は福島県内の「中間貯蔵施設」で管理されており、2045年までに県外の「最終処分場」へ移すことが法律で義務付けられているが、その候補地すらいまだ見通しが立っていない。
そしてもうひとつが、全国の原発が通常の稼働によって生み出し続ける「高レベル放射性廃棄物(核のごみ)」である。現在、東京都の絶海にある南鳥島において、最終処分場選定に向けた第一段階の「文献調査」が進められようとしている。しかし、仮に「目に見えない地中深く」へ運んだところで、この高レベル放射性廃棄物の無害化には、長いもので10万年レベルの時間を要する。どちらの廃棄物にせよ、根本的な解決策を持たないまま見切り発車で生み出されたツケであり、未来の世代に与える負荷は途方もなく大きい。
この問題に対して現在、フィリピンの原発推進派の有力議員から、高レベル放射性廃棄物の最終処分場として、南シナ海の「カラヤン諸島」を候補地とする案が公然と語られている。
「安全保障の最前線であり、中国との領土問題の火種である島を『核のゴミ捨て場』にしようとしているのです。日本でもアメリカでも解決していない高レベル放射性廃棄物の問題を、フィリピン政府は密室で進めようとしています」
このカラヤン諸島は、タガログ語で「自由/独立」を意味するという。同諸島を含むスプラトリー(南沙)諸島は、太平洋戦争前夜の1939年に大日本帝国が武力で占領し、「新南群島」と名付けて台湾総督府の管轄下に置いた。旧日本軍はここを軍事拠点化し、戦争の道具として利用してきたという歴史がある。
そして敗戦後の1951年、サンフランシスコ平和条約で、日本はこれらの島々に対するすべての権利を放棄(※)した。しかし同条約では「どこの国に返還するか」が明記されておらず、今日の複雑な領土紛争の火種ともなっている。
(※)サンフランシスコ平和条約(正式名称:日本国との平和条約)
第二章 領域 第二条 (f)
(f) 日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(f) Japan renounces all right, title and claim to the Spratly Islands and to the Paracel Islands.

東京電力福島第一原子力発電所の敷地に建ち並ぶ汚染水貯蔵タンク。(佐藤慧撮影)
エネルギーの選択は「社会の在り方」
バタアン原発のように「モスボール化」された原発はいくつか存在する。オーストリアの「ツヴェンテンドルフ原子力発電所」は、バタアン原発ともよく似た運命をたどった「未稼働原発」だ。1978年に完全に建設が終了し、あとは核燃料を入れるだけという状態だった。しかし、稼働直前に激しい反対運動が起き、政府が国民投票を実施。その結果、わずか1%未満の僅差で反対が賛成を上回り、稼働が永久に凍結された。同年12月には法律で「原子力発電の禁止」が決定されている。
ドイツの「カルカー高速増殖炉」は、1985年に建設が完了したが、1986年のチェルノブイリ原発事故を受けて地元住民や州政府の猛反発に遭い、最終的に1991年にプロジェクトが完全に放棄された。この施設はオランダの投資家が買い取り、「ワンダーランド・カルカー」という遊園地・リゾート施設に改装されている。
台湾第四原発の「龍門」は、バタアン原発と同じく東京電力福島第一原発の事故が大きな影響を与えた。1999年に着工され、長らく反対運動と建設の中断・再開を繰り返していたが、2011年の福島第一原発事故を目の当たりにした台湾市民の間で反原発の世論が沸騰した。数万人規模のデモやハンガーストライキが起き、2014年に当時の馬英九政権が「1号機は封存(モスボール化)、2号機は建設中止」を決定した。
アメリカ、ニューヨーク州の「ショアハム原子力発電所」は、1984年に完成したが、1979年のスリーマイル島原発事故の影響で、万が一の際の「避難計画の非現実性」が指摘されていた。地元住民や州知事が猛反発し、低出力でのテスト稼働しか行われないまま商業稼働を断念した。
こうした現実が示すのは、エネルギーの選択は「社会の在り方」に直結する、誰しもに関係する問題だということではないだろうか。
「中央」と呼ばれる権力性の高い集団が、他を抑圧し搾取するという構造は、「今」を生きる人間のみならず、現存する環境資源を命の土台とする未来世代の権利すら破壊する可能性をはらんでいる。だからこそ、そのひとつひとつの決定に「市民の声」が欠かせないのだということを、このバタアン原発の現状から学べないだろうか。未来を「選択」し、次世代に「繋げる」ために何ができるか、学び、行動する責任が問われている。

「ホーリーウィーク(聖週間)」のフィリピンでは「十字架の道行」が行われていた。(佐藤慧撮影)
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フォトジャーナリスト / ライター佐藤慧Kei Sato
1982年岩手県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の代表。世界を変えるのはシステムではなく人間の精神的な成長であると信じ、紛争、貧困の問題、人間の思想とその可能性を追う。言葉と写真を駆使し、国籍−人種−宗教を超えて、人と人との心の繋がりを探求する。アフリカや中東、東ティモールなどを取材。東日本大震災以降、継続的に被災地の取材も行っている。著書に『しあわせの牛乳』(ポプラ社)、同書で第2回児童文芸ノンフィクション文学賞、『10分後に自分の世界が広がる手紙』〔全3巻〕(東洋館出版社)で第8回児童ペン賞ノンフィクション賞など受賞。
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