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【エッセイ】悲しみは雪解けのように

東日本大震災8年の節目、そんな言葉をよく耳にする季節になった。8年というのは人生においてそれなりに長い年月かもしれない。しかしこと、ひとつのできごとと向かい合う内面の時間の流れ方という意味では、それは客観的に定規を当てて測れるものではない。

2019年2月に撮影した陸前高田市の被災地。大規模な工事が続いている。

「復興とは何か?」という問いを、あの日以来考え続けている。なぜ「復旧」ではいけないのか。「復旧」という言葉が、何か壊れたもの、失われたものを「元通りにする」という意味ならば、確かに全てを元通りにできるのであれば、それに越したことはないかもしれない。しかし、そこには既に「二度と取り戻すことのできないもの」がある。亡くなった人間は生き返らない。その不在を強調する心の空白は、何か他のもので埋めることのできるものなのだろうか。山が削られ、土が盛られ、傷ひとつないアスファルトの道路が荒野に伸びる。新築の家々や、真新しい商業施設。その様子だけを切り取ると、街は豊かに、力強く前に進んでいるように映るかもしれない。しかし、何かを失ったという「虚無」は、目に見えず、耳にも聞こえない。「復興」というものが、明日もまた生きていこうと思える希望を日々に与えるものであるならば、そこに欠かせないのは、その「虚無」を埋める代替品ではなく、その「虚無」を抱えながら生きていくことを支える「温もり」を、社会全体で創り上げていくことではないだろうか。

あの日、僕の想像を遥かに超える大津波が沿岸各地の街々を呑み込んだ。当時陸前高田市に暮らしていた母は、それから1か月後、川の上流9キロの地点で、瓦礫と泥土の下から見つかった。母との死別はもちろん辛い出来事だったが、それよりも辛かったのは、日々嘆き、衰弱する父の背中を見ることだった。父自身、復興の力になりたくとも、そのトラウマで腕が震えて仕事にならない。全国各地から届く「頑張って」という声から逃れるように、親族の住む県外へと居を移し、心を閉ざすように静かに暮らした。「何を食べてもおいしくないし、映画を見ても心が動かない」と父は言った。あまりにも大きな悲しみに晒されたとき、きっと人は本能的にその心を閉ざすのだろう。外界の刺激に固く門を閉ざした心は、たしかに悲しみによる痛みを緩和させるが、反対に人生の喜びすら感じにくくさせてしまう。なぜこんな無感動なまま生きているのだろう。ある日突然命が奪われてしまうのだとしたら、生きていることに意味などないのではないか。最愛の人を失った父の心には、そんな思いが渦巻いていたかもしれない。震災発生から4年後のある朝、父は眠りから覚めることなく彼岸へと旅立った。その顔は、生前の苦しみなどなかったかのような、安らかな寝顔のような表情を浮かべていた。

悲しみに沈む父の姿を写真に収めた。しかしそれは父の悲嘆から溢れる母への想いを感じることでもあった。

死の意味を考える。それは生の意味を考えることでもある。母の死、そしてそれに続く父の他界は、人の生きる意味を深く考えさせられる出来事だった。父が旅立った日、不思議なことがあった。その日僕は父の元に駆け付けるや、その死後の雑務に追われ悲しむどころではなかった。その夕刻、連絡をしそびれていた母方の祖母から電話があった。「お父さんからの伝言がある」というのだ。どういうことかというと、現在認知症で寝たきりとなり、ケアハウスでお世話になっている祖父が、突如明晰な意識を取り戻し、こう言ったというのだ。「今敏通さん(父)がやってきて、挨拶をしていったぞ。淳子(母)と向こうで仲良くやっているけれど、時々様子を見に来るからよろしくなって言うとる」と。夢枕に立つ、という話はよく聞くし、僕もこれまで近しい人との死別では似たようなことを経験したこともあった。しかしそれは夢とも現(うつつ)とも見分けのつかない曖昧なものだ。祖父はその後、また意識が朦朧となり眠りについてしまったらしい。もし本当に、父が祖父の元を訪れたのだとしたら、それは僕にとってはとても納得のいく話だった。父は生前、結婚したことで母は故郷から岩手に移り住むこととなり、そのせいで命を落とさせてしまったのではないかと深く後悔していた。とりわけ、その両親である祖父母に対して。そんな父が、僕の元ではなく、急ぎ祖父の元に駆け付けて挨拶をしていったというのは、律儀で真面目な父らしい「夢枕」だったのではないかと思うのだ。もちろん、これを客観的に証明する手立てはない。しかしそれを聞いた瞬間、僕の心の裡には、ここではないどこかで、父と母が仲良く連れ立って微笑んでいる光景がはっきりと感じられたのだ。同時に、父の晩年の悲しみ、心の痛みは、母に対する愛の深さそのものだったのだと思うと、その涙に沈んだ数年間が無意味なものではなかったのだと受け入れることができた。

命の意味を考える時間が増え、見える世界が変わってきた。日常のどこにでも命の奇跡があり、死と生は連綿と続いている。

そういった死別を通して、僕の心はだんだんとその頑なな扉を開け始め、世界はまた温もりと色彩を取り戻し始めた。生きていること、生かされていることの奇跡を思い、心の秒針がまた時を刻み始めたのだ。著書、『しあわせの牛乳』でお世話になった、なかほら牧場の牧場長、中洞正さんにこのような言葉を頂いたことがある。

「ここはもの凄い豪雪地帯だからね。毎年本当に多くの雪が降る。それは過酷な環境のように思えるけれど、実は雪っていうのは“大地のふとん”でもあるんだよ。たとえば、雨が降っても大地に水分が供給されるけど、そのほとんどは表面を流れるだけで地下深くまで染み込まない。ところがね、雪は違うんだ。雪って、表面と、地面に接している側と、どっちから溶けるか知ってる?大地と触れている側から、地熱で少しずつ溶けていくんだよ。太陽の光なんか届かないのに、じわじわ、じわじわ、大地に水分を染み渡らせる。冬は、命のない季節ではなくて、実は目に見えないところで、命を育んでいる季節なんだよ」

きっと人間の心も同じようなものではないだろうか。悲しみ、悲嘆に暮れる日々は、愛おしいものを感じ、命の奇跡を染み渡らせるための大切な時間なのかもしれない。心の秒針の進む速度は、人によって異なるものだ。8年経った今、温かな春を感じることのできる人もいれば、まだまだ長い冬の中で、大切な人への想いを慈しみ、悲しんでいる人もいるだろう。いつかまた、その心に陽光の差すときまで、周囲の人々、社会が、その悲しみを温かく見守ることのできる世界になれば、それこそが「復興」への第一歩となるのではないか。

瓦礫の消えた被災地に、突如として芽吹いたシロツメクサ。まるで多くの命が失われた「虚無」に新たな命を染み渡らせているかのようだった。

東日本大震災に限らず、亡くなられた全ての人々の冥福を祈るとともに、その死別と日々向き合う人々の心の安寧を願って。

(2019.3.11/写真・文 佐藤慧)


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