無関心を関心に—境界線を越えた平和な世界を目指すNPOメディア

Articles記事

沖縄慰霊の日、「ちむぐりさ」という言葉

6月12日、辺野古での基地建設工事が再開された。昨年春、絶えず行き交うダンプの列と、土砂に埋まっていく海を見ながら、「沖縄の海じゃないみたいね」と案内下さった方がつぶやいた。それを聞き、亡くなられた翁長雄志前沖縄県知事の言葉が思い出された。「総理の言う『日本を取り戻す』の中に、沖縄は入っていますか」

2018年、米軍ヘリの墜落、部品の落下が続いた際、国会では「それで何人死んだんだ」と心ない言葉が投げつけられた。

誰かが亡くなられてからでは遅すぎる。沖縄と、東京。断絶しているのは意図的に作られた壁なのか、それとも無関心という溝なのだろうか。沖縄を訪れる度に、改めて思う。

そして今日、沖縄慰霊の日。

あまりに多くの人々を巻き込み、そして命を奪っていった、組織的戦闘が終わった日とされている。

※ 慰霊の日ってどんな日? 沖縄県民なら誰もが知っているメモリアルデーには紆余曲折の歴史があった (2018.6.23 琉球新報)

以前出会った沖縄出身の大学生が「東京に来て、6月23日が何の日かあまり知られていなくて驚いた」と話していた。私自身も大学生のときに、「沖縄慰霊の日」とすぐ答えられていたかと振り返ると、恥ずかしながら自信がない。この言葉が、今の状況を象徴しているように思う。

当時は戦火で、今は「関心を寄せない」ということで、沖縄を追い詰めていないだろうか。

沖縄ご出身の方に、「ちむぐりさ」という言葉を教えて頂いたことがある。「肝苦りさ」と書く。肝が苦しい、と。単純にかわいそう、たいへんね、という意味ではなく、「あなたが悲しいと、私も悲しい」という共感の言葉なんだ、と。今欠けているのは、この「ちむぐりさ」という感覚なのかもしれない。

(2020.6.23/写真・文 安田菜津紀)
※本記事はCOMEMOの記事を一部加筆修正し、転載したものです。


あわせて読みたい

◾️僕たちは「誰かを見下ろす笑い」のままでいいのか 沖縄から社会問題を語る、せやろがいおじさんインタビュー [2020.6.22/安田菜津紀]

◾️「ちむぐりさ」あなたが悲しいと、私も悲しい ー15歳で見つめた沖縄から学んだことー[2020.4.13/安田菜津紀]

◾️【取材レポート】なんでおそらからおちてくるの?米軍落下物事故から考える [2020.5.26/佐藤慧]

Dialogue for Peopleの取材や情報発信などの活動は、皆さまからのご寄付によって成り立っています。取材先の方々の「声」を伝えることを通じ、よりよい未来に向けて、共に歩むメディアを目指して。ご支援・ご協力をよろしくお願いします。

この記事をシェアする