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取材レポート

2019.6.20

【現地の声】パレスチナに生まれて ―ふたつの支配という日常―

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

田中 えり Eri Tanaka

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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佐藤 慧 Kei Sato

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田中 えり Eri Tanaka

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

田中 えり Eri Tanaka

田中 えりEri Tanaka

2019.6.20

取材レポート #戦争・紛争 #女性・ジェンダー #パレスチナ

パレスチナ人の友人がいる。その友人は、僕の人生とはまったく違う日々を送ってきた。彼女の言う「日常」という言葉と、僕の言う「日常」という言葉は、きっと同じ意味ではないだろう。「平和」という言葉も、違う響きを持っているかもしれない。「国」、「民族」、「家族」、「未来」…そんな言葉のそれぞれが、彼女の人生を通して語られるとき、僕はまるで彼女のことを知らないのだと気づく。でもその「日常」と「日常」の間にある距離は、「あなたのことをもっと知りたい」という気持ちがあれば、少しずつ埋められるものでもあるのではないだろうか。大切な友人の手記から、そんな想像力の種が広がっていくと嬉しい。
※友人の住んでいる保守的な環境、政治的な状況から、本名ではなく仮名で執筆して頂いた。

佐藤慧


パレスチナに生まれて

―ふたつの支配という日常―

女性である私が、パレスチナ人として、アラブ人として、そしてムスリムとして生きるということは、大変な挑戦の連続です。なぜならそれは、ふたつの抑圧のもとで生きるということを意味するからです。ひとつはイスラエルによるパレスチナの占領です。そしてもうひとつは、家父長制という名の支配なのです。私は何年にも渡り、その現実に適応しようともがいてきましたが、決して受け入れることはできませんでした。

私の名前はサマ(仮名)と言います。サマとはアラビア語で空を意味します。パレスチナの一般家庭では、6人、ときにはそれ以上の兄弟姉妹がいるのが普通ですが、私は7人姉妹の次女として育ちました。私たち家族は、数年間ガザ地区(※1)で暮らしていましたが、そこで多くの悲しい出来事を目にしてきました。

海側から見たガザの市街地。海もイスラエル軍に監視されていおり、沖へ出ると発砲される。

2008年、戦禍に晒されるガザ地区での生活(※2)は、まるで大きな監獄に暮らしているようなものでした。2007年にハマス(※3)がガザ地区を占拠した後、イスラエルがガザ地区を完全に封鎖してしまったのです。封鎖された中での生活は、まるでゆっくりと死んでいくようなものでした。人々は、「いずれ状況は良くなるだろう」と願うことしかできませんでした。私たちは、電気も、ときには水すらない中で暮らしていたのです。電気も水も無かった日々のことを私は忘れることができません。

戦争が始まったあの日、私はいつも通り学校で授業を受けていました。そして突然、爆発音が響き渡ったのです。私たちは机の下に潜り込み、避難指示があるまでじっとしていました。みんなとても怯えた表情をしていました。

学校のすぐ近くが空爆されるまで、一体何が起こっているのかわかりませんでした。子どもたちは地域ごとに車で帰宅させられましたが、私と姉、そしていつも一緒に帰る友人の子の家は学校から離れており、帰宅の順番は最後になりました。気が付いたら、私たち3人だけが学校に取り残されていたのです。

ついに私たちが帰宅する順番が来て、車に乗り込みました。恐怖はますます募っていきました。ヘリコプターからの爆撃は止まず、大通りには私たちの車しかいないのです。私たちは死んでしまうのだろうか、と考えずにはいられませんでした。運転手は、「心配するな、無事に家に帰れるから」と言い、コーランの一節を唱え始めました。その後無事家へと到着しましたが、他の姉妹や、父親の帰りを待っている母の姿を見ると、また別の恐怖が湧き上がってきました。

私たちは、「窓を覗いてはいけない」と言われていました。いつ銃弾が飛んでくるか、わからないからです。こうして私たちの家は、電気も水も無い監獄となったのです。日本の人々にとってお米が大切な主食のように、パレスチナの人々はパンを食べます。私たちは家から出ることができないので、パンを買いにいくこともできませんでした。街中には安全な場所などなく、どこもかしこも爆撃に晒されているのです。

度重なる戦争の傷跡が、ガザの街のいたるところに残されている。

それは冬のことでした。パレスチナの冬はとても寒いのです。ですが私たちは、一晩中窓を開けておかなければなりませんでした。爆撃のたびに轟音が響き渡るので、その音でガラスが割れてしまわないように、開け放しておくのです。その凍える夜のことは今でもはっきりと覚えています。私はクローゼットから、着れる限りの服を引っ張り出し、何枚もの毛布にくるまって過ごしました。それでも、恐怖と寒さによる震えを止めることはできませんでした。このような体験は、戦争のほんの一部に過ぎません。

戦争が終わり、私たちはパレスチナ西岸地区へと引っ越すことにしました。ガザ地区を離れる日、私はとても嬉しかったのを覚えています。やっとこの監獄から脱出できるのですから。国境を越え(※4)、私たちはついに、母の親族の暮らす西岸地区の村へとたどり着くことができました。自分の人生を変えることのできる、千載一遇のチャンスが訪れたのです。私はこれから何をするべきか、考え始めました。

私は大学へ進学することにしましたが、そのためには村を離れなければいけませんでした。そして大学のある街へ向かう道中、私はガザ地区とはまた違った、パレスチナの占領の現実を知り、驚いたのです。数えきれないほどの検問と、パレスチナ人に対する侮辱。ガザ地区の人々は、こういった西岸の様子を知りません。これがパレスチナの現実なのだと、思い知らされました。そして抑圧は、イスラエルによるものだけではありませんでした。女性蔑視という社会的抑圧が、至る所にあったのです。不平等な給与、不平等な機会。職場でも、学校でも、旅先でも…。

親戚や友人の女性たちが、両親や夫、兄弟にどれほど抑圧されてきたかという話を聞くたびに、私は腹立たしくて仕方ありませんでした。名誉殺人(※5)や、家庭内暴力の犠牲者となる女性たち。そしてそれを無視する残酷な社会。

もうこれ以上聞いていられませんでした。そしてこの社会を変えるために、私にも何かできないだろうかと考え始めたのです。「もし世界を変えたいのなら、自分自身を変えることから始めなさい」という有名な格言のように、私は自分を変えることから始めることにしました。まずはお金を稼ぐために、働きに出ることにしました。なぜなら、経済的独立こそが女性の自立のための第一歩だと考えたからです。私は自分の着たい服を着て、活発に外の社会に出ていきました。私には6人の姉妹がいるのですが、彼女らを支援し、何か問題があるときは、いつもみんなで力を合わせて乗り越えてきました。

私はボランティア活動も熱心に行い、NGOなどで国外からやってくる人々とも友達になりました。そんな友人たちと一緒に、私はパレスチナの様々な地方を旅し、それぞれの地域で暮らす人々から、多くのことを学びました。私がその旅から学んだ大切なことのひとつは、パレスチナという国の美しさでした。パレスチナには、とても美しい自然があるのです。ところが、悲劇に翻弄される日々の中では、人々にはその自然を楽しむゆとりなどなかったのです。

ガザ地区の出入りに通らなければいけない長い長い通路。

その後、“政治における女性の地位向上”を考えるセミナーに出席したときのことです。そこで私は、自らの道を切り開いたパレスチナの著名人や、ジャーナリストの話を聞くことができました。それから私は、(そして私の姉妹や友人たちは)、ただ“女性だから”という理由による低賃金に反対し、理解を得られない仕事は止めることにしました。

私たちの社会では、女性は“良き妻”、“良き母”であることを求められ、育てられます。「女は台所にいろ」、というわけです。ですが私は、きちんとした教育が社会に普及すれば、そのような偏見を変えていけると信じています。女性たちは、自分たちの権利や能力を、もっと知り、信じる必要があるのです。私は出会う女性たちに、いつもこのようなことを伝えているのですが、もっともっと女性の権利のために何かできたらと願っています。

その後私は、広島で開催されたカンファレンスに参加する機会を得ることができました。それは私の人生にとっても大きなターニングポイントとなる経験でした。多くの日本人の友人たちと過ごした時間は、まるで夢のようでした。そこで私は、広島の原爆の歴史についても学ぶことができました。それはとても考えさせられるものでした。

日本の人々は、とても熱心に私の話に耳を傾けてくれました。そしてパレスチナについてもっと知りたいと言ってくれました。ですが時々、残念なこともあります。「どこから来たの?」と尋ねられ、私が「パレスチナから来ました」と答えても、多くの日本人はそれがどこにある国なのか知らないのです。いつかまた日本を再訪するまでに、パレスチナのことを知っている日本人が増えていたら嬉しいです。

ガザ地区の中学生たちが、パレスチナと日本の国旗を合わせてデザインした凧をプレゼントしてくれた。毎年3月、東日本大震災の被災者の追悼に凧揚げを行っているという。

(2019.6.20/文 サマ)
(翻訳・写真 佐藤慧)

(※1)ガザ地区…パレスチナ南西端、地中海に面した地区。面積は東京23区の半分程度。1967年、第三次中東戦争によりイスラエルに軍事占領される。2005年にはイスラエル軍が撤退したが、その周囲を封鎖。人やモノの出入りを厳しく制限している。
(※2)2008年のガザ…イスラエル軍とハマスとの間で激しい衝突が発生。その後に続く数度の戦争の発端となった。犠牲者の大多数は一般人だったと言われている。イスラエルの犠牲者13名に対し、ガザの住民の死者は1,413名と、「戦争ではなく一方的な虐殺」であったとの見方もある。
(※3)ハマス…1987年12月、ガザ地区でインティファーダ(パレスチナ人による抵抗運動)が発生した際、同地区のムスリム同胞団の代表シャイク・アフマド・ヤシン(2004年没)を筆頭に、武力闘争によるイスラム国家樹立を目的として立ち上げられた組織。2007年にファタハ(ヤセル・アラファトらによって1950年代に設立された政党、軍事組織)と衝突、ガザ地区を武力制圧した。その後2014年6月、パレスチナ自治政府との統一内閣樹立を宣言したが、ハマスはガザ地区の統治を継続、同内閣は解散に至る。2017年にエジプトの仲介によりパレスチナ自治政府と和解。しかしガザ地区の行政権移行は無期限延期となっている。
(※4)国境を越え…ガザ地区からパレスチナ西岸地区へ行くにはイスラエルを通らなければいけない。
(※5)名誉殺人…婚前性交渉や不貞を行った女性、両親の決めた結婚相手ではない相手と結婚した女性や、強姦の被害者となった女性などを、「名誉を守る」ために同じ一族の男性が殺害すること。


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2019.6.20

取材レポート #戦争・紛争 #女性・ジェンダー #パレスチナ