「大腿骨……」――その言葉を聞いても、木村紀夫さんの表情は緩まなかった。目の前の遺骨にこびりついた黒い土を、必死に指で削ぎ落していく。しかし次の瞬間、安堵のため息とともに具志堅隆松さんの漏らした「見つかったぁ……」という声に、木村さんの表情も溶けていく。思わずこぼれる笑い声。「もっとこの辺りを探せば出てくるかもしれないね」と言いながら、木村さんは愛おしそうに遺骨を撫でた。何度も、何度も。約10年9カ月前に失われた命の温もりを、そっと手繰り寄せるように。
Contents 目次
ここで伝え続けなさいというメッセージ
見つかった遺骨は、2011年3月11日、東日本大震災の津波によって犠牲となった、木村さんの次女、汐凪(ゆうな)さんのものとみられている。木村さん一家の暮らしていた福島県大熊町には、東京電力福島第一原子力発電所の1号機から4号機までが立地している。地震発生当時、小学1年生だった汐凪さんは、小学校での授業を終え、隣の児童館で遊んでいた。木村さんの父、王太朗(わたろう)さんが児童館へ駆け付けたが、いったん海の側の自宅に引き返すという王太朗さんの車に汐凪さんも乗り込み、そのまま行方不明となった。翌12日には、原発事故により大熊町の人々は「全町避難」を余儀なくされ、木村さんも捜索を断念せざるを得なくなった。その後王太朗さんと妻の深雪さんが遺体となって発見されたが、汐凪さんの遺体は見つからなかった。
それから数年、木村さんは限られた一時帰宅の時間を使って汐凪さんを探し続けた。16年11月、中間貯蔵施設予定地の現地調査を行う環境省に依頼し、重機での捜索を開始。それから1ヵ月もしない内に、泥だらけのマフラーから、小さな、小さな、汐凪さんの首の骨が見つかった。その後の捜索でも顎や歯など、頭部付近の小さな骨は見つかったが、大きな骨、特に下半身の骨は一切見つかっていなかった。
「遺骨が出てきたことで、また違う思いも出てきたんです」と木村さんは語る。遺骨が出てこなかったら、海へ流されてしまったと諦めもついたかもしれない。けれどこうして小さな遺骨が出てくることで、「津波で亡くなったのか、(避難により捜索を断念し)置き去りにしてしまったことで亡くなったのか、わからなくなってしまった」のだという。実は震災の翌日、地元の消防団が行方不明者の捜索をしていたところ、誰かの「声」を聴いているというのだ。状況から考えて、それは王太朗さんだった可能性が高い。もしかしたら、汐凪さんは生きていたのに、自分は置き去りにしてしまったのではないか――そんな自責の念が木村さんを苦しめていた。
けれど同時に、汐凪さんの遺骨が出てこないのは、何かの“メッセージ”ではないかと感じることもあるという。原発の存在、それを許容・推進する構造、ひとりの死を大切に悼まない社会、そしてそんな現状に無自覚でいた自分……そうした多くの問いかけを、「ここで伝え続けなさいって、汐凪に言われてるのかもしれない」と、幾度もの四季をめぐりながら、木村さんは感じるようになっていった。
ひとりの人間を大切にできない社会
木村さんと一緒に具志堅隆松さんのもとを訪れたのは、2021年4月のことだった。具志堅さんは、これまで40年近くにも渡り、沖縄各地で戦争犠牲者の遺骨を探し続けている。「ガマ(※)を掘る人」――地元の言葉で「ガマフヤー」と呼ばれる、遺骨収集ボランティアだ。
(※)ガマ
沖縄本島南部に多く見られる鍾乳洞。主に琉球石灰岩が浸食されてできた自然の洞窟のことで、戦時中には住民たちの避難所や、軍の戦闘陣地、野戦病院などにも利用された。石灰岩のかけらは遺骨に見えるものも多く、素人目には見分けることが難しい。
2016年に施行された「戦没者遺骨収集推進法」では、その第三条(国の責務)にて、「国は、戦没者の遺骨収集の推進に関する施策を総合的に策定し、及び確実に実施する責務を有する」と明示されているが、具志堅さんの遺骨収集に同行させて頂いた数時間だけでも、いくつもの戦没者の遺骨が見つかった。未だ数多くの遺骨が、壕の暗闇や、植物の根の張る土中に埋まっているのだ。特に激戦地となった本島南部では、「どこを掘っても遺骨が出てくる」という。
ところが2020年4月、防衛省は、辺野古の新基地建設のための埋め立て工事に必要な土砂を、そうした戦没者遺骨の眠る沖縄本島南部でも採取する計画を発表した。具志堅さんは署名集めやハンガーストライキなど、こうした事態を全国に伝えるための活動を続けているが、未だ社会全体で問題意識が共有されているとは言い難いのが現状だ。
国や政府、大きな社会システムの歯車を回す中で、「置き去りにされる命」があるかもしれない――そうした沖縄の構図は、「帰還困難区域」内で汐凪さんの遺骨を探し続ける木村さんの思いに、どこか通じるものがあるのではないか。木村さんと具志堅さんが出会うことで、「死者を悼む」という、目には見えない、けれどこの社会の土台として欠かせない大切なものが見えてくるように思い、木村さんと共に具志堅さんのもとを訪れたのだ。
カシャ……カシャ……と、日本軍の壕の内部に、具志堅さんのネジリ鎌の音が響く。ヘッドライトを消せば、わずかな光も届かない暗闇だ。表土を少しずつ削り、遺骨らしき小さなカケラを見つけては、丹念に泥をぬぐい、確かめていく。未だ土の中に眠る多くの遺骨、声を発することのできない死者に代わり、声を上げ、遺骨収集を続ける具志堅さん。その姿は、木村さんにはどう映っただろうか。
そんな遺骨収集からの帰り道、終始無言だった木村さんが、自身の続ける遺骨捜索についてどう思うか、具志堅さんに尋ねたことがあった。木村さんはかねてから、「帰還困難区域」内でひとり捜索を続けるのは、自分のエゴではないかと悩んでいたのだ。ひとりのエゴのために、多くの人に迷惑をかけているのではないかと感じていた。
その言葉に具志堅さんは、力強くこう返した。
「それは遠慮することじゃないですよ。当然の権利です。確かに中には、“ひとりの意見でもって全体の利益を損なうな!”という発言をする人もいるかもしれませんが、ひとりの人間を大切にできないのに、みんなを大切にできるわけない、と私は思います。もし必要でしたら、一緒に声をあげますよ。東日本大震災の行方不明者の捜索は、いつか行こうと思っていたんです」
遺族だけの問題ではない
そして2022年元日、具志堅さんは、汐凪さんの遺骨捜索を手伝うために、福島へとやってきた。沖縄との気温差は15度近い。「こんなに寒いところがあるなんて……」と体を震わせるが、その手には、沖縄から持ってきた愛用のスコップとネジリ鎌があった。
すでに陽も落ちているこの日は、捜索の現場に入ることもできないため、いわき市湯本にある『原子力災害考証館 furusato』へと足を運ぶことにした。原子力災害について学び、考えていくためのアーカイブの中に、汐凪さんの捜索に関する資料や写真、遺品も展示されているのだ。
福島に来る以前から具志堅さんは、「それはどのような場所なのか」「周囲の水の流れはどうなっているのか」と、捜索に関する具体的な情報を何度も木村さんに尋ねていた。考証館の展示からも何かヒントを得られないかと、具志堅さんの眼差しは鋭さを増していく。
そんな具志堅さんに説明を行いながら、木村さんが呟いた。「沖縄の現状を知ると、こうして来て頂くことに申し訳ないという気持ちもあるんです。そっちのほうが大事じゃないかって……」。
すると具志堅さんはこう答えた。「原発事故という足枷があって捜索が進まないという現状がある以上、これは国の問題だし、遺族だけの問題ではないんですよ」。
ひとつの町がなくなるということ
早朝のJR常磐線大野駅周辺は、ひんやりとした静かな空気に包まれていた。大熊町のおよそ6割の地域には、未だ「避難指示」が出されており、「帰還困難区域」となっている。その内の2割弱におよぶ「特定復興再生拠点区域」に指定されている地域は、住民の帰還に向け、優先して除染作業が行われてきており、昨年12月には、駅前商店街を含む多くの土地で立ち入り制限が緩和された。今年2022年春には、「避難指示」も解除される見通しだ。
けれど、残りの「帰還困難区域」内への出入りは未だに厳しく制限されており、汐凪さんの遺骨が眠っていると見られる場所は、そうした区域の中でも沿岸寄りの、未だ瓦礫の残る辺りになる。中でも原発の敷地周辺の土地は、「中間貯蔵施設」として、福島県内での除染の際に生じた土壌などを保管する区域に指定されている。国は、中間貯蔵開始後30年以内に、福島県外で最終処分を完了するために必要な措置を講じるとしているが、最終処分地は未だ決まっていない。
「電気屋さんでレコードを買ったり、たくさん思い出のある場所なんだけどね」と、木村さんが解体作業の進む駅前商店街を歩きながらぽつりと話す。皮肉なことに、「帰還困難区域」だったからこそ、こうして未だに震災当時の面影を残しているといえるこの場所は、立ち入り制限の緩和と共に、急速に姿を変えている。「徐々に変わっていくというならね、それはそれでしょうがないとも思えるのですが、こういう形で突然町の姿が変わっていくというのは、あまりにも寂し過ぎるというか……」。
色々な思いが交錯するのだろうか。無言で通りを眺めていた具志堅さんが、「原子力発電所の放射能が漏れて広がったせいで、ひとつの町がなくなるということですよね」と、怒りとも、寂しさともとれる静かな口調で呟いた。
その後「帰還困難区域」に続く検問へと車を進め、許可証を提示し中に入っていく。年始ということもあり、普段は頻繁に行き交うダンプカーや重機の音も聞こえない。
汐凪さんが津波の直前までいたとされる児童館、そしてその目の前にある小学校は、まるで時が止まったかのように、窓ガラスの奥には当時のままの光景が広がっている。2011年3月11日は金曜日だった。日直の生徒が書いたのだろうか、黒板には《三月十四日(月)》という文字が見える。しかしその後誰ひとり登校することなく、今に至る――。
校門の辺りに備え付けられている線量計は、「2.531μSv/毎時」を示していた。数年前から比べると、だいぶ落ち着いているように見える。しかしその線量計は、コンクリートの土台の上、高さ1メートルほどのところで計測しているものだ。木村さんの線量計を校舎の雨どいの先にある地面に近づけると、その数値は「21.54μSv/毎時」に跳ね上がった。その付近に生い茂る雑草の中では、「59.70μSv/毎時」と、場所により極端な濃淡があることがはっきりとわかる。
続いて訪れた公民館、ヒラメ栽培漁業センターの惨状を見ながら、おそらく具志堅さんは、汐凪さんの遺骨がどこに流された可能性があるか、ずっと考えていたのだろう、木村さん宅の跡地に着くやいなや、「現場に行きましょう」と歩きだした。青空にはミサゴが悠々と旋回している。人のいない町の上空を漂うミサゴの英語名が“オスプレイ”なのは、具志堅さんにとっては皮肉な響きだろうか。
近づこうとする姿勢が供養になる
まず向かったのは、木村さんの父、王太朗さんの遺体が見つかった田んぼ周辺だ。誰も立ち入らない土地には、茶色く枯れたススキやセイタカアワダチソウが人の背丈よりも高く生い茂っている。枯草をかき分けながら進む具志堅さんの目は、足元周辺に、何か気になるものはないかと探し続けていた。
その先の窪地が、汐凪さんの遺骨の一部が見つかった場所だ。周辺より1~2メートルほどへこんでおり、津波の通り道となった可能性が高い。表土の様子を確かめるためか、具志堅さんはその窪地に下り、しゃがみこむと、枯草をかき分け指で土を掘り起こし始めた。津波で流されたであろう瓦礫がところどころに顔を出している。丸く削られた石は、海から運ばれてきたものだろうか。
汐凪さんの遺骨が残されている可能性のある場所は広範囲に渡る。いくつかの遺骨の出てきた周辺の土地や瓦礫は、2016年に一度大がかりな捜索を行っているが、まだ遺骨が残されている可能性、見落としている可能性も少なくない。その窪地の下流もまた、遺骨が流された可能性のある場所だ。そして自衛隊が撤去した現場付近の瓦礫を、「まだ捜索を続けたいから」と、一ヵ所に集めて保管してある場所もある。具志堅さんが捜索活動を行える期間はわずか3日間。どこを探せば、この微かな発見の可能性に最も近づいていけるのか――。具志堅さんは候補地を歩きながら、考えを巡らせていた。
昼休憩を済ませ、具志堅さんが捜索の場所として選んだのは、「汐凪さんの遺骨の出てきた周辺」だった。しかし、すでに探した場所を単に再捜索するわけではない。「遺骨の埋まっていた深さまで、捜索できていなかったのではないだろうか」というのが、具志堅さんの考えだった。10センチ、20センチ掘っても、その周辺では津波によって流されたと見られる瓦礫が出てきた。この瓦礫が出てこなくなるまで、つまり震災前の土に突き当たるまで掘って行けば、そこに遺骨が残されている可能性がある。
具志堅さんが表土を剥がし始めたのは、汐凪さんの遺骨の一部が見つかった場所から、6メートルほど離れた窪地の際だった。10年にわたる歳月の中で、雨などにより遺骨が流された場合、より低い位置に移動している確立が高い。すぐ側には、木村さんが設置したコンクリート片の慰霊碑がある。これまでに何度も、何度も、木村さんも足を運んできた場所だ。この小さな捜索範囲から遺骨の出てくる可能性は限りなく低い。けれど具志堅さんのネジリ鎌は、そこに遺骨があることがわかっているかのように、丁寧に、丁寧に土を掘り起こしていく。
「出てこいよ、出てこいよ……出てくれば家族のもとに帰れるよと、そう念じながら掘るんです」と、具志堅さんは言う。「沖縄で身元不明の方の遺骨を掘るときでも、そのひと鍬(くわ)ひと鍬が、犠牲者に近づくことなんです。だからたとえ見つからなくても、その“近づこうとする姿勢”が、供養になるんだと思っています」。
木村さんも、具志堅さんの横で同じように土を掘り起こし始める。ここ最近は、遺骨の捜索よりも、大熊町の現状を伝えることなど、伝承活動に重きを置いており、汐凪さんの遺骨の捜索を行うのは実に3年ぶりだという。そして作業開始から20分――。
「木村さん!」という具志堅さんの声に、みなが振り返る。「これ、骨かもしれないので、周囲の土をどけてみましょう」。
父と娘が呼び合った結果
木村さんは「まさか」という表情で具志堅さんの手元を見るが、たしかにそこには棒状の、もしかしたら人骨かもしれない何かがわずかに顔を覗かせていた。「ご遺骨だなということは、そのわずかな部分を見た瞬間に確信していました」と、後に具志堅さんは語る。現場に居合わせた誰もが「いくらなんでも20分やそこらで見つからないだろう」と思いつつも、「でも具志堅さんが言うのならもしかしたら」と、固唾を呑んで作業を見守っていた。木村さんも、具志堅さんの言葉に「ひょっとしたら……」と思いながら、丁寧に土を除いていく。そして――。
「大腿骨……」
木村さんの取り上げた遺骨を見て、具志堅さんがそう呟いた。木村さんの表情は緩まない。今、自分の手の中には、この10年9ヵ月探してきた娘の遺骨の一部があるのだ。それを現実として受け止めるには、あまりにも多くの感情が一瞬の内に去来していたのかもしれない。けれど、その奇跡とも思える邂逅へと導いた具志堅さんが、「見つかったぁ……」と、笑顔と共に安堵のため息を吐くと、フッと緊張が解けたのか、木村さんの表情も緩んでいく。「もっとこの辺りを探せば出てくるかもしれないね」と、目に涙を浮かべながらも、その表情は満面の笑みだった。
「よかった……よかった! 汐凪ちゃん、帰れるよ」と、具志堅さんも温かな目で遺骨を見つめる。「いや、すげえ……」。木村さんの言葉にならない思いが、無人の「帰還困難区域」に染み渡っていくようだった。わずか3キロ先では、メルトダウンを起こした原発が殺人的な放射線を放っており、周囲には瓦礫が散らばり、枯草の生い茂る寂しい景色が広がっている。けれど、この父と娘との再会は、その場にいる人間の心を揺さぶらずにはいられなかった。
「父と娘が、呼び合った結果だと思います」と、具志堅さんは言う。
その後、捜索を終了する1月4日の夕方まで、他に遺骨らしいものは見つからなかった。広大な土地の中で見つかった遺骨は、具志堅さんの言う通り、汐凪さんと木村さんが互いに呼び合った結果なのかもしれない。その状況と骨の大きさから、遺骨は汐凪さんのものに間違いないと見られている。「これだけ大きな骨が出てきたのも、下半身の骨が出てきたのも初めてです。もっとじっくり、探さないといけないね」という木村さんの表情は、どこか明るい。
「不思議ですね。親子が呼び合って遺骨が見つかるなんて、自分ではそんなこと考えないですから。でも、そうやって具志堅さんに言ってもらえると、嬉しいです。ありがたい言葉ですよね」
捜索に参加したみなも、重労働をこなしながらも笑顔が絶えない。雪をあまり見たことのない具志堅さんは、晴れ間に舞い落ちる雪を見上げては、「幻想的だなあ」と感慨深げだ。
「雪の降る中での遺骨捜索なんて、初めてですよ。沖縄に帰ったら、とても寒いところで捜索してたんだぞって、自慢してやろうかと思って。ペンギンも見たし、もしかしたらシロクマも見たかもしれないって」。そんな具志堅さんの冗談にみなが笑う。
「こうやってここで笑いながら時間を過ごせるってことが、いいですね」と、木村さんも微笑む。「たぶんそれを、汐凪は望んでいると思うので……」。
この記憶を次世代へと伝承していくこと
「こうした現実があるんだっていうことを、伝えていきたいですよね」と木村さんは語る。
「犠牲者をこうして10年も取り残してしまうという、そんな世の中が変わって行って欲しいという思いがあります。特に、若い人たちにこうした現実を知って欲しい。きっと知ってもらうだけで、ほんの少しかもしれないけれど、何かが変わっていくのではないでしょうか。できればこの汐凪の遺骨の眠る土地を、そうした社会について考えるための場所として、何百年、何千年と残していけたらいいなと思っています。今回の遺骨の発見は、何かそのための、大きなキッカケをもらったような気がします」
翌5日、具志堅さんは沖縄へと帰路に就いた。「また次の連休に来ますよ」という言葉を残して――。そんな具志堅さんに対し木村さんは、「福島の若者も沖縄に連れていきたいと思っています」と言う。死者を悼むということ、ひとりの人間を大切にしない社会について考えること、国という大きな構造の在り方を問うこと、そして、この記憶を次世代へと伝承していくこと。この交流は、きっと何か、そうした社会全体にとって大切な問いを、これからも投げかけ続けてくれるのではないだろうか。
上空を漂っていたミサゴが、フレコンバッグの向こうの空に、飛んでいった。
(2022.1.17/写真 安田菜津紀 ・ 文 佐藤慧)
(筆者注)周辺から出てきた他の遺骨はDNA鑑定で汐凪さんのものと判明しているため、今回発見された大腿骨に関しては、しばらくDNA鑑定は行わず(結果が出るまで手元を離れてしまうため)、木村さんのそばで保管されるとのことです。
(追記:2022/11/25)その後警察の要請により鑑定に出し、2022年6月に汐凪さんの遺骨であることが判明しました。
◆「震災から11年、福島県双葉郡のいまを知る ~D4P Report vol.3 福島取材報告会」開催のお知らせ◆
D4Pは、2022年7月11日(月)に「震災から11年、福島県双葉郡のいまを知る~D4P Report vol.3 福島取材報告会」を開催します。安田菜津紀の司会・進行のもと、福島県双葉郡に焦点を当て、現地の方々との対話を通じて東日本大震災被災地や原発事故との向き合い方を考えます。秋元菜々美さんにもご登壇していただく予定です。
日時: 2022年7月11日(月) 18:30〜20:30
申込締切日: 7月3日(日) 12:00(正午)
イベント詳細はこちらまで。
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