ソウルから南へと向かう車窓の風景は、いつしかのどかな田園風景へと変わっていた。瑞々しい緑の揺れる田畑を超え、民家に挟まれた細い坂道を上ると、「ナヌムの家」のひっそりとした入り口にたどり着いた。ここは太平洋戦争末期に、性的犠牲を強いられた日本軍“慰安婦”だったハルモニ(おばあさん)たちが集まって暮らしている生活の場だ。1992年10月に開所し、現在は社会福祉法人として登録されている。思えば最後にここを訪れたのは10年以上前、大学生の頃だった。もう一度この場所を訪れたかったのには、理由があった。
「あいちトリエンナーレ」内の「表現の不自由展・その後」に「平和の少女像」が展示されたことを受け、名古屋市長である河村たかし氏は、「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」と発言し、撤去を求めた。その後、松井一郎大阪市長が記者会見内で「慰安婦はデマ」と発言するなど、“慰安婦”問題そのものに対して否定的な見方をする政治家の言葉が飛び交った。それは10年前に、ナヌムの家で出会ったハルモニたちの言葉と、あまりに乖離したものだった。もう一度この場所を訪れて、ハルモニたちの言葉に直接触れたいと思っていた。
「ナヌムの家」には歴史館があり、様々な資料や証言映像を見ることができる。一つ一つの展示室を巡り資料を読み解きながら、こうして丁寧に事実確認をしていくことの大切さを痛感する。
例えば、「慰安婦募集」の日本語広告が現地の新聞に掲載されたことを挙げて、「女性たちは自分から応募した」と結びつける言説がある。けれども当時の朝鮮国勢調査では、女性の識字率は8%ほどしかない。経済状況の厳しい少女たちが新聞を読む習慣があったことも考えにくく、広告は業者向けだったとみられる。「日本兵たちと出かけていた」、「外出できるなら奴隷ではない」という見方もあるが、外出には許可が必要、仕事を自分の意思で辞めることもできず、暮らす場所を自ら選ぶことができない環境は、人間らしく生きる上での権利を大いに奪われているだろう。「外出」していたことをもって、彼女たちが置かれていた事実上の隷属状態を否定はできないはずだ。
例を挙げればきりがないが、他の点に関しては中央大名誉教授である吉見義明さんのインタビューに詳しい。
強制性については、オランダ政府が1994年出した調査報告書で、オランダ人女性を軍が暴力を用いて連行したことが示されている。中国・山西省の女性たちが起こした裁判では、2007年に原告敗訴となったものの、判決は軍人による暴力的な連行があったことを認めている。
1993年8月、宮沢内閣の河野洋平官房長官が公表した「河野談話」では、慰安所は「当時の軍当局の要請により設営された」とし、慰安所の設置や管理、慰安婦の移送について「旧日本軍が直接あるいは間接に関与した」ことを公式に認めている。つまり、「業者が勝手にやったこと」では片づけられないのだ。そして談話ではそれを踏まえ「心からお詫びと反省の気持ち」を表明している。
こうした地道な積み重ねを、権力を持つ人々、声の大きな人々の過激な言葉が、がらがらと崩してしまうことがある。「表現の不自由展・その後」を巡っての、この問題を否定するような政治家たちの言葉がまさにそれだ。「日本は何度詫びればいいのか」という声を時折耳にする。けれども彼女たちの受けた苦痛を無視した形式上の“謝罪”は「空っぽな言葉」と言わざるをえないはずだ。
これまで名乗り出たハルモニたちの多くはすでに亡くなられていたり、ご存命でもかなりの高齢だ。ナヌムの家で暮らす6人のハルモニも、最年少は92歳、最年長は98歳だ。
ハルモニたちの暮らす棟を訪れると、ちょうど李玉先(イ・オクソン)さんがボランティアのマッサージを受け終えたところだった。今は93歳。25年前の1994年、14人の仲間たちと共に、日本政府に謝罪と補償を求め来日したこともある。
私たちがリビングで待っていると、「チャング」と呼ばれる伝統楽器を手に戻ってきてくれた。かつてはプロの奏者として、音楽で生計を立てたいたのだという。「幼い頃、母が音楽を習わせてくれたんです。その母が亡くなると、父のご飯を作ったり家の手伝いで忙しくなり、経済的にもそんな余裕はなくなってしまったのだけれど」。故郷を語るその目は、どこか遠くを見つめているようだった。
李玉先さんは、慶尚北道・大邱の出身だ。北満州の「慰安所」に閉じ込められたときは、まだ16歳だった。日本人男性に「黙ってついて来い」と言われ、その先に待ち受ける運命など知る由もなく列車に乗せられたのだという。
「当時の朝鮮は、日本が“法律”だったんです。やれと言われれば、やるしかなかった。“お前を連れて行く”と言われれば、ついていくほかありませんでした」。
太平洋戦争の末期に近づくと、「慰安所」の周辺まで銃弾が飛び交うようになった。日本兵たちに置き去りにされた李玉先さんたちに、「こんなところにいたら死んでしまう」と近所の中国人たちが声をかけてくれたことで、何とか命は救われた。けれども過酷な生活は、“終戦”では終わらなかった。
李玉先さんの村からは、27人の女性たちが連れて行かれ、戻ってきたのは彼女だけだった。18歳でようやく故郷に帰ってきた安堵もつかの間、娘が帰ってこない親たちから、「なぜおまえだけ帰ってきたのか」と責められ続けた。生まれ育った村にも居場所をなくした李玉先さんは、やむなく20歳で故郷を後にし、俗離(そんに)山で暮らすこととなる。
「その後、結婚もできず、子どもも産めずに今日まで過ごしてきました。一度、お付き合いをした人がいましたが、結局は結ばれませんでした。彼には自分が“慰安婦”だったことは一度も伝えていません。彼が知ったらきっと、気分を悪くしたでしょうね」。
李玉先さんの過去については、家族の中で弟だけが知っている。ただし、直接弟に伝えたことは一度もない。10年前にナヌムの家で暮らし始めたことを機に、初めて弟は「姉もそうだったのか」と気づいたのだ。「家族に直接話なんて、できない」と、壮絶な記憶を、50年近くもの間、心の奥底にしまい、たった一人で50年近くも背負い続けてきたのだ。
転機が訪れたのは、90年代に入ってからだった。ある日テレビを見ていると「慰安婦の体験をした人は名乗り出て下さい」と呼びかける映像が目にとびこんできた。1991年に、金学順(キム・ハクスン)が“元慰安婦”として名乗り出たことをきっかけに、少しずつ呼びかけの輪が広がっていた。「私は日本の協力者でも、お金を稼ぎに行ったのでもない。自分が被害に遭った人間であることを、私も伝えたいと思った」と、当時の心境を語る。
こうして思い返すことさえ深い苦痛を伴う記憶を何度も呼び起こしながら、ハルモニたちは証言を続けた。けれどもそれは、政府側の姿勢にどこまで届いてきただろうか。
2015年12月の「日韓合意」は、韓国が設立する財団に日本側が10億円を拠出するという内容だった(つまりこれも、「国家賠償」ではない)。これが、両国政府の間の「不可逆的な最終合意」とされたのだ。
「本来こうした合意は、被害当事者である私たちのところに話をしてからやるべきことを、朴槿恵政権は勝手に決めてしまったのです」。あまりに突然の出来事に、ハルモニたちは強く反発した。
日韓の間の問題は“慰安婦”問題だけではない。昨年10月、韓国大法院(最高裁)が日本企業に対し、韓国人元徴用工に賠償するよう命じる判決を出した。けれども日本政府は「1965年の日韓請求権協定で解決済」という姿勢を崩さず、両政府の溝は深まった。「当時、徴用工となった人たちは小中学校を出たまま、あるいは学校を卒業せずに連れて行かれたりしています。そういう意味では、私たちと同じです」。未払いの賃金などがあれば、しっかり支払う必要があるはずだと李玉先さんは実感を込めて語る。「泥棒をするな、嘘をつくなと朝鮮半島では厳しくしつけられます。嘘をついてまでお金をとろうとは思わないはずです」。
気になっていたあいちトリエンナーレでの、「平和の少女像」をめぐっての政治家たちの発言についても尋ねてみた。「自分たちが悪いことをしておきながら、像を建てようとするとそれをやめろというのは、正しい行いでしょうか?」、鋭い口調で批判しながらも、李玉先さんは冷静にこう語った。「私たちは安倍政権は悪いとはいうけれど、日本人が悪いという言い方はしません」。権力に惑わされることはなく、共に生きていきましょう、と。政治権力と人々を切り分けて考えているからこそ、日本から訪問した私たちにもこうして、心の内を語って下さったのだろう。
李玉先さんは最後に、チャングの演奏を披露してくれた。とてもご高齢とは思えない、力強く、そして緩急自在の音色に、私は自然と魅了された。どうやって演奏するのか、叩き方を教わりながら、音楽は心の境界をこえるものだと実感する。こうした国境を越えた触れ合いの糸口は、本来いくつも私たちの目の前にあるはずなのだ。触れ合うことなく「韓国人」、「日本人」と大きな主語でくくり、歴史問題をあざわらっては、この溝は埋まらない。今必要なのは「冷静さ」であって、「冷笑」ではないのだ。
ナヌムの家では「従軍慰安婦」という言葉は使っていない。「従軍」という言葉は、まるで自身の意思で付いていったかのような印象を与えてしまうからだ。例え、殴ったり縛ったりして連れて行かれたのではなかったとしても、李玉先さんのように当時10代の少女たちが権力を前に、「来い」という言葉に抗えただろうか。今必要なのは「強制」などの言葉の意味を狭めてとらえるのではなく、視野を広げて過去を振り返ることではないだろうか。歴史を振り返ることは「後ろを向く」ことではない。むしろ繰り返さないための未来を見据えることであるはずだ。
(2019.9.26/写真・文 安田菜津紀)
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