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2022.2.28

【エッセイ】東北から、ウクライナの今を思う

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

田中 えり Eri Tanaka

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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佐藤 慧 Kei Sato

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田中 えり Eri Tanaka

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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佐藤 慧 Kei Sato

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田中 えり Eri Tanaka

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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佐藤 慧 Kei Sato

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田中 えり Eri Tanaka

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2022.2.28

エッセイ #戦争・紛争 #東北 #ウクライナ #安田菜津紀

「あんたたち、世界中いろんなところに行ってるんだって? 外国のこと、教えてちょうだいよ」

東日本大震災の直後、私は陸前高田市内の避難所を巡り、物資を届ける活動を続けていました。お年寄りが身を寄せていた集落の公民館は、小さなストーブを大勢で囲み、少しでも寒さを紛らわそうとみな手をさすり、真っ白な息を吹きかけその場をしのいでいました。底冷えする廊下を抜け外へと出ようとしたとき、一人のおばあさんに呼び止められ、この言葉をかけられたのです。窓の外の風景はまだ瓦礫だらけ、避難所内も日々の食べ物を全員に行きわたらせることに精いっぱいの時でした。そんな非常時になぜ海外のことを尋ねてきたのか、言葉を返せずにいる私におばあさんはこう続けました。

「今まではどこかで起きた戦争とか災害なんて、どこか他人事だった。でも自分が家を流されてみて初めて、少しだけそんな人の気持ちが分かった気がするから」

その時は物資の運搬などに追われ、おばあさんと深くお話をすることができませんでした。けれどもあの時のおばあさんの言葉が、心の片隅に残り続けました。

2011年3月、陸前高田市街地

私は被災地の取材と並んで、シリアから逃れてきた人々の取材も続けてきました。シリアで戦争が始まったのは2011年3月、東日本大震災の発災とほぼ同時期でした。時を経るごとにその戦禍は広く、深くなり、人口の半数が家を追われ、人々は今でも国内外で不安定な生活を余儀なくされています。

2019年1月、シリア・ラッカ

“中東”というと一年中暑いイメージを持つ方もいるかもしれませんが、特にシリアやその周辺国は、冬になると急激に気温が下がり、地域によっては雪に見舞われることもあります。おまけに最も寒い時期が雨季と重なり、避難生活を送る人々を更に厳しい環境に追いやっていくのです。

2019年1月、シリア北東部、国内避難民キャンプ

ある時、お世話になってきた陸前高田市内の仮設住宅の方々が、そんなシリアの人々、子どもたちが無事に冬越えできるようにと、住人同士で呼びかけあい、物資を集めてくれたことがありました。呼びかけ人になってくれたおばあさんの一人はすでに80歳近くで、なんと避難生活が3度目、という方でした。第二次大戦中の空襲、1960年のチリ地震津波、そして2011年の東日本大震災……。けれども彼女は穏やかにこう語ります。

「私はそれでも、国を追われるってことはなかったからね。きっとシリアから他の国に逃げた子たちの方が大変よ」

当時の仮設住宅の自治会長さんは、実感を込めて語ります。

「自分たちは世界中からの支援で、ここまで立ち上がってきました。だから今度は“恩返し”ではなく、“恩送り”をしたいんです」。

東京電力福島第一原発事故は甚大な人災ですが、こと津波被害だけを見れば、街を襲ったのは自然災害でした(ただ、指定の避難所などが被災していることを考えると、人災の側面もあったことは決して見過ごしてはならないことです)。単純に並列して語ることができない面もあるでしょう。震災直後に避難所で出会ったおばあさんは、仮設住宅で出会った方々は、シリアの熾烈な戦禍を直接目の当たりにはしていません。けれどもある日突然、故郷の姿が一変してしまい、当たり前のように日々を共に過ごしていた人々の命が奪われていく痛みを知っています。そんな想像力を少しずつ外へと広げた先に、寒空の下でテントやプレハブで過ごさざるをえないシリアの子どもたちの姿があったのです。

2011年12月、米崎小学校の校庭に作られた仮設住宅で

今年(2022年)2月26日から、久しぶりに陸前高田市を訪問しています。高齢者から中学生まで、出会う人とはみな、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻の話題で持ちきりでした。

「ニュースでね、“死にたくない”って話してた子どもの顔見て、もういたたまれなくて……」と語るおばあさんもいれば、「もちろん私が経験したことは戦争ではないけどね、それでも逃げる人たちの様子を見てると、11年前を思い出して胸がざわつくのよ。どんなに大変な思いをしてるか……」と声を詰まらせながら話してくれた女性もいた。

ウクライナから多くの人が、寒空の下で、近隣諸国へと国境を越え避難を余儀なくされています。日本でも、ウクライナからの難民を受け入れようと声をあげる支援団体や議員がいます。しかし残念ながら、このような動きに対して「日本も大変な時にそんな余裕はない」という声が、必ずあがります。

ロシアの侵攻直前、ウクライナの首都キーウ滞在中のジャーナリストの知人は、ビデオ通話を通じ、ごく普通の生活が続いている様子を伝えてくれました。難民とならざるをえない人々は元々、それぞれに日常を送っていた人たちです。単に「重荷」ととらえ、「どこまでの受入れが可能か」という議論さえ閉ざすような言葉に、私は賛同しません。

2011年12月、米崎小学校仮設住宅の中庭で

東日本大震災直後に義援金や物資を送ってくれた国、地域の中には、経済的な意味だけで測れば、日本よりもずっと厳しい状況のところもたくさんありました。ウクライナからも多くの支援が送られています。もちろん、そうした「恩があるから」アクションをする、という単純な利害関係に落とし込みたいわけではありません。不当な侵攻に「NO」ということも、支援を持ち寄ることにも、「大義」はいりません。

ただ、仮設住宅で出会った方々に教えて頂いたのは、私たちも世界から何かしらの支えを受けながら生きていること、そして人の持ち得る想像力と行動力には、まだまだ可能性があるのだということでした。あの時頂いた言葉を改めて心に刻み、必要な声をあげていきたいと思います。

(2022.2.28/写真・文 安田菜津紀)


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