インタビュー中、幾度となく上空を米軍機が飛び交い、窓が揺れ、机が震えるほどの轟音に、会話がその都度かき消されそうになる。叫ぶように話さなければ、すぐ隣の人にも声が届かないことさえあった。現在85歳になる石川元平さんは、それでも明瞭に、時に怒りを込めて語った。「なぜここに基地があるのか。戦争があったからにほかならないですよ」。沖縄県宜野湾市、普天間基地からほど近い場所で、石川元平(いしかわ・げんぺい)さんは「復帰」からの50年の歳月を噛みしめるように振り返った。
子どもたちの目に映るのはフェンスと星条旗
石川さんは戦後に代用教員として学校に勤めた後、那覇にある教職員会(当時)に加わり、1960年、初代会長であり、後に復帰前の琉球政府で初の公選主席となる屋良朝苗(やら・ちょうびょう)氏の秘書となった。
教職員会は復帰運動の中心的役割を担っており、石川さんが屋良氏の秘書となった年、沖縄祖国復帰協議会(復帰協)が結成される。米国の圧政を前に、「平和憲法下へ帰ろう」という機運は高まっていた。激動の時代の真っ只中を生きてきた石川さんの目に、50年目を迎える沖縄はどう映るのだろうか。そして今、教育はどう、変わろうとしているのだろうか。
1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効で日本は主権を回復したが、その日付は、沖縄にとっては「琉球列島米国民政府」の統治下に留め置かれた「屈辱の日」として記憶されている。「“日本の共産化”を防ぐために、沖縄には占領軍がいた方がいい――そうやって冷戦体制が敷かれるお膳立てをされた日でもあります。アメリカは民主主義、自由の国だと喧伝していましたが、実質は軍事占領下でした。子どもたちの目に映るのは、フェンスと星条旗です」。
教職員会は「植民地教育ではなく、日本国民としての教育の実施」を求める運動を展開し、1958年1月、立法院で可決した教育基本法、教育委員会法、学校教育法、社会教育法に、琉球政府の当間重剛主席が署名するに至った。
その後、佐藤栄作首相(当時)が沖縄を訪れた1965年当時は、ベトナム戦争の影響により軍事拠点化への危機感が増していた。「空爆を繰り返す米軍に対する反戦平和運動が起きるなど、大きな転換を迎える時期でもありました。次第に、復帰協関係の現場で盛んに掲げられていた日の丸も姿を消していきました」。
琉球政府は、いわゆる「教公二法」と呼ばれる、教育公務員法と同特例法の制定を進めようとしていた。これが法制化されれば、米国の圧政に反対の声をあげ、復帰を求める運動に加わる政治行為などが、教員に対し禁じられることになる。「法案は要するに、沖縄の復帰運動の中心になっている教職員の手足を縛ろうということが狙いでした」。
法案の採決が予定されていた1967年2月24日、教職員や労働団体など2万5千人から3万人が立法院をとり囲んだ。「警官隊が周囲を固めていましたが、それをごぼう抜きにして立法院を占拠し、廃案協定を勝ち取ったんです」。
「返還」の合意、そして深い失望
翌年、これまで米国の高等弁務官による任命制だった琉球政府主席の公選実施が発表された。早期復帰を訴える革新統一候補の屋良氏に対し、当時の那覇市長だった西銘順治氏(にしめ・じゅんじ)を擁立した保守側陣営は、「革新候補が当選すれば戦前のイモとハダシの生活に戻る」と訴えていた。
「この時、日米による工作があったことが分かっています。米側の高等弁務官は、公平な立場で静観しておくといいながら、日米安保にも反対する屋良に危機感を覚えていたようです。屋良は『軍事にかかわる一切のものは必要ない』、としていましたから」。石川さんが指摘する通り、日米両政府が水面下で西銘陣営を支援したことが、後に公開された米国側の公文書で明らかになっている。
11月10日、投票率は90%をこえ、両政府の思惑という「逆風」が吹く中でも、屋良氏が当選を果たす。しかし、そんな歓喜に沸いたのもつかの間だった。1969年、佐藤栄作首相とニクソン米大統領は共同声明を発表。米軍基地を残したままの「返還」が合意され、深い失望が広がった。
さらに、復帰を間近に迎えた1971年10月、日本政府は臨時国会で、基地の固定化を前提とする沖縄返還協定と復帰措置関連法案を「琉球政府には全く相談もなく、意見を聴取もせずに進めようとしていた」と石川さんは振り返る。
危機的状況を前に、琉球政府として復帰に際して求めることを綴った「復帰措置に関する建議書」を作成する。携わった者たちが、寝る間も惜しんで作り上げた建議書にはこう、綴られている。
「沖縄県民の人権はもとより、財産権等の諸権利は、本土では到底想像もできないほど軽視され、無視されてきました」
(建議書「具体的要求」より)
「従来の沖縄は余りにも国家権力や基地権力の犠牲となり手段となって利用されすぎてきました。復帰という歴史の一大転換期にあたって、このような地位からも沖縄は脱却していかねばなりません」
(建議書「はじめに」より)
ところが11月17日、怒号が飛び交う中、国会の質疑は打ち切られ、協定は強行採決される。建議書を携え東京へと向っていた屋良氏が、羽田空港に降り立つわずか3分前のことだった。
「戦後初めての“県民投票的意義”を持つ主席公選で示してきたのは、即時無条件全面返還だったはずでした。あの屋良建議書は、県民の意思を吸い上げ、集約したものでした。それにも関わらず、沖縄は破れた草履のような扱いを受けたんです」と、石川さんは一際憤りを込めて語った。
「沖縄戦はどうして防げなかったの?」の問いに
屋良氏は復帰後、知事の任期を経て、1976年退任する。退任挨拶の中で屋良氏は、「勝ち取った復帰であったが、沖縄の望んだ復帰にならなかった」と無念を語っていた。そして1997年4月、心不全で世を去る。
「軍事にかかわるものを認めない。そういう教育者として屋良は亡くなっていった。最後の棺桶に入っている姿を見ても、決して安らいだ顔じゃなかった。私も悔恨の思いをいっぱい聞かされましたよ。『叶わなかった復帰の中身を勝ち取るのは君たちの大切な責務だよ』、と。屋良が最後に僕などに託したことです」
屋良氏の掲げた「志」はいまだ、道半ばにある。
「世界で一番大きい大国についておけば、自分たちも安全だというのが、ずっと政府の立場です。そしてその立場を引き継いでいれば政権の座にはつける。でもそれは、人の道に照らしてどうなのか」
「なぜアメリカが日本の主権の一部を侵すようなことがあっても“特権”に守られるのか。節目、節目にきちっと整理、追求できるのかが問われます。日米安保も政府の態度も容認してきてしまった国民の責任も、非常に重大だと強く思っています。これは沖縄だけの問題とせずに、日本全体の問題とすべきものでしょう」
屋良氏と同様、石川さんが常に気にかけているのは、これからを生きる次世代のことだ。
「沖縄の子どもたちに“沖縄戦はどうして防げなかったの”という質問を受けたりもします。本当は防げたはずなんです」
「米軍の攻撃はある意味ですごく計画的、科学的に分析して徹底的に行われていたと思います。“日本とはこういう国だ”という編集された動画も残っています。日米の戦いというのは、ある意味、“神話と科学の戦い”のようなものでした」
「沖縄戦では、琉球文化の象徴でもある首里城の下に第32軍司令部壕をつくった。あの時、本土決戦を決意して、京都に司令部を構えることができたかといえば、できないはずです。首里が陥落しても白旗をあげずに、南部に撤退して、“友軍”が県民を道連れにしました。6月23日以後も、いわゆる8月15日の後も、スパイ容疑をかけられた島民の虐殺などが続いています」
過去は現在、そして未来への道しるべ
住民たちが手榴弾などで命を絶ったり、家族同士で殺し合った「集団自決」は、日本軍による命令、誘導があったとする凄惨な歴史から、「強制集団死」という表現がより適切ではないかとの指摘もある。ところが、この日本軍関与に関する歴史教科書の記述に、「沖縄戦の実態について、誤解するおそれの表現」といった検定意見がついた。2007年9月、沖縄県宜野湾市で開かれた県民大会には11万人が集い、軍命に関する記述の削除に抗議の声をあげた。
「復帰以前の沖縄の歴史を振り返ること、近現代史を検証すること、これなくしては、今を正しく見られないし、未来に対する我々の意思決定の仕方も誤ってしまうと思います」
その後、検定意見は撤回されなかったものの、出版社の訂正申請を承認する形で、一部教科書では軍の強制性に関する記述が復活した。ただその後も、沖縄の歴史を覆い、歪める動きは続く。
文部科学省は今年3月、2023年度から使用される高校教科書の検定結果を公表した。「日本史B」に代わって新設される「日本史探究」で検定に合格した5社7冊の教科書に、「集団自決」に関する軍の命令に触れたものはなかった。また、「最初の無差別攻撃は、1945年3月10日未明におこなわれた東京大空襲」と、1944年10月10日に沖縄を襲った「10・10空襲」をまるでなかったことにするような記載のものも見受けられる。
「教科書が改変される度に、あの県民集会で主張した“沖縄戦の真実に基づく記述を”ということが実現していないと痛感します」
石川さんは改めて、加害の歴史と正面から向き合う意味を問う。
「国の責任において行われた沖縄戦についてや、沖縄にいた朝鮮の人たちがどうなっていったのかなどの戦後総括がされていない。まるで足を踏まれた人の痛みを忘れたように、先だけ見ようとしている。朝鮮半島や中国に対して行ったことも含め、“復帰50年”が、全国的な検証の機会になっていけばと思います。過去は現在、そして未来への道しるべのはずです」
今、新基地建設が推し進められている辺野古では、海底に軟弱地盤が見つかり、その実現性に疑問の声があがっているが、それでも日々海は埋め立てられ、多額の税金が投入され続けている。あげく、そこに戦没者の遺骨が眠る本島南部の土砂まで投入しようとしている。
「遺骨の問題だけではありません。命が助かったけれども、重軽傷を負った人たちの血が南部の地には染み込んでいます。その土砂は、沖縄以外の兵士の血にも染まったものかもしれません。全国的にそうしたことが言えるわけです。だから、本当は沖縄の基地問題も国民的な命題です。肉親や、自分のおじいを辿っていけば自分につながっていく。そのような問題として見てくれたらと思います」
建議書を携えた屋良氏、そして琉球政府が、強行採決で踏みにじられて50年余り。5月10日には玉城デニー知事が、名護市辺野古移設断念や日米地位協定の改定を求める建議書を岸田首相に手渡した。「辺野古が唯一」といった「結論ありき」の姿勢のままでいいのか。もう一度、この社会の「道しるべ」を見つめ直す時ではないだろうか。
(2022.5.15/写真・文 安田菜津紀)
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