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「犠牲者に近づこうとする行為」から考える慰霊のかたち 〜大熊未来塾レポート〜

福島県大熊町から中継を繋ぎ、様々な世代の参加者が集まって大熊町の未来について考える「大熊未来塾」。2022年3月6日に開催された回に参加したD4Pインターンが、感じたことをレポートします。

「若い人たちと一緒に、今の社会や、これからのことについて語り合いたい」という木村紀夫さんの思いから、2020年の春に始まった大熊未来塾。東京電力福島第一原子力発電所が立地する大熊町の現状をオンラインで伝え、全国からの参加者とともに、様々な切り口からその未来を考えてきました。

2022年3月6日に開催された第8回目のテーマは、「行動という慰霊」。沖縄で40年以上にわたり戦没者の遺骨を探し続ける具志堅隆松さんをゲストに迎え、大熊町と沖縄を繋いでの配信となりました。東日本大震災によって、今もなお2千名以上の方が行方不明となっている東北と、日本で唯一の地上戦が行われ、数多くの戦没者が土の中に眠る沖縄。ふたつの土地を重ね合わせながら、「死者を悼む」とはどういうことかを考えたイベントのレポートです。

具志堅さんは今年の1月に福島を訪れ、東日本大震災の津波で行方不明になった木村さんの次女・汐凪(ゆうな)さんの遺骨捜索に加わりました。その時には、10年9ヵ月の時を経て、汐凪さんのものと思われる大腿骨が発見されています。発見へと至る経緯や、遺骨捜索のこれからについてもお話しいただきました。

2022年の1月に行われた遺骨捜索の詳しい様子はこちらの取材レポートをご覧ください。

少しずつ動き始めた大熊町の今

冒頭では、大熊町の現在の状況について、木村さんが地図や写真を見せながら参加者に説明しました。原発事故による放射性物質の影響で、長らく「帰還困難区域」に指定されていた大熊町沿岸部。2019年には赤い斜線部分の指定が解除され、復興の拠点となっています。また、人口の6〜7割が暮らしていた黄色い部分も、この春から指定が解除され、再び生活の地となりました。

「10年前の震災直後からすると、ここにきて本当に大きな変化があり、大熊町も動き始めたところですね」と木村さん。

ただ、人が生活できるようになったからと言って、実際に人が戻ってくるかと言えば見通しは厳しいものがありそうです。

「10年ほかの地域で生活をして、特に働き盛りであったり、お子さんを抱えていたりする世代の人たちが実際にここに帰ってくるかと言うと、とても難しい状況に置かれているなと思います」

改めて「10年以上もの間帰ることが許されない」という状況を作り出した原発事故が、その地域コミュニティ、住民一人ひとりの人生に計り知れない影響を与え続けていることを感じました。

また木村さんは、「中間貯蔵施設」の現状についても話しました。原発を取り囲むようなグレーの部分は、原発事故で汚染された土壌をフレコンバッグなどに入れ、一時的に保管する場所です。容積にして東京ドーム12個分に及ぶ福島県内からの土壌の搬入は、この3月でほぼ完了し、今後は地下に埋められることになります。

この中間貯蔵施設のエリアには、木村さんのご自宅も、汐凪さんの遺骨が発見された場所も含まれています。5年前、はじめて汐凪さんの遺骨が見つかったのですが、それはまだほんの一部分に過ぎず、津波の浸水域に限定しても、手作業で探すには一生かかっても終わらないような広さでした。可能性が高いエリアを絞り込んでも、どこから探せば良いのか途方に暮れる状況だったそうです。しかし今年の1月に具志堅さんが福島を訪れて、5年ぶりに遺骨が見つかったことで、新たな展望が見えてきました。

「最初に見つかった場所と同じところに居るんだとわかった、それが一番の収穫でした。今後は津波浸水域全体というよりも、ここを重点的に捜索していきたいと思っています」

1件のメッセージから繋がった福島と沖縄

続いて、木村さんと具志堅さんが出会うことになった経緯をお話しいただきました。木村さんが沖縄の遺骨問題について知った最初のきっかけは、昨年(2021年)の3月に出演した安田菜津紀のラジオ番組で、リスナーの方から届いた1件のメッセージだったそうです。

そのとき木村さんはラジオで、汐凪さんの遺骨が発見された場所を含めた「中間貯蔵施設」建設計画についての住民説明会に参加した際、その地に行方不明者がいることすら知らなかった、環境省の担当者に感じた呆れと憤りについて話していたところでした。

《そんなの国として当たり前だよ。沖縄の辺野古の埋め立てに遺骨まじりの土砂を使うような国なんだから当たり前だよ》――そのような内容のメッセージが、番組を聴いていた方から寄せられたのです。

遺骨を探すものとして思うところのあった木村さんは、翌月沖縄を訪れました。そこで具志堅さんと出会い、遺骨捜索をめぐる沖縄の現状を知ることになります。

「まったく知らなかった」沖縄のこと

この写真は激戦地となった糸満市の南部で、辺野古の新基地建設に使われる土砂の採掘場予定地です。周辺は既に業者によって立ち入り禁止にされているものの、奥の黒い緑地には縦型のガマ(琉球石灰岩の地層にできた鍾乳洞)、「ドリーネ」があり、周辺からは遺骨が見つかっていることを具志堅さんが教えてくださいました。稜線を越えた先には海が広がっており、激しい地上戦の末に追い詰められた大勢の沖縄住民、日本軍の兵士らがここで亡くなったと言います。

具志堅さんと共に日本軍の構築壕周辺を歩いた木村さんは、「そんな簡単に見つからないだろう」と思っていた遺骨が、わずかな時間で次々と出てくる状況に凄く衝撃を受けたそうです。

「沖縄戦の遺骨がまだ残っているなんてことは、私はまったく知りませんでした。それもこれだけ簡単に出てくるなんて。同時に感じたことは、おそらく沖縄の街というのは、そうした遺骨の上に出来上がっているんだなということです」

具志堅さんは、「沖縄には、本来であれば家族のもとへ帰るべき遺骨がまだあるんですよ。それをないかのごとく対応するんじゃなくて、やっぱり帰してあげることができるのであれば帰してあげようと思ってきました」と話します。

77年前の戦争も、11年前の震災も、年月が経ち新たな街ができたからといって、「もう終わったことだ」と勝手に片付けられるものではないのだと思います。戦争で命を落とし、故郷に帰ることのできなかった人々の遺骨が、新たな軍事基地の下敷きになるというのは、あまりにも死者の尊厳を蔑ろにし、戦争の記憶や平和への願いを踏み躙るものではないでしょうか。

同時に、このような計画が進んでしまう背景には、輝く空と海に囲まれた、「観光地」としての沖縄に目を向けがちな、「社会の無関心」もあるのではないかと思います。

「本当は具志堅さんに来てもらうより先に、こちらから沖縄に若い人たちを連れていって、沖縄の現状を知る機会を作りたいんです」ともおっしゃっていた木村さん。まずは自分が知る、その次に何ができるのかという投げかけもいただきました。

自分の親や子どもを探したいというのは、人間にとってごく普通のこと

木村さんは、帰還困難区域に通って汐凪さん一人の遺骨捜索を続けることは、「自分のエゴなのではないか」という葛藤を抱いていたことも話してくださいました。悩みを打ち明けた木村さんに具志堅さんがかけたのは、「それは人数の問題ではなく、人間の尊厳の問題なんだ」という言葉でした。

自分の話に共感し、「やっていいんだよ」と声をかけてもらうことに、「本当に救われる、ほっとするんだ」と木村さんは言います。具志堅さんの言葉は「より力強く、未来について動く勇気をもらった言葉」だったそうです。

「自分の大切な人を探したいというのは、人間にとってごく普通のこと。復興の中で、そうすることに遠慮を感じる必要は全くないと思います。木村さんが声を上げるのをためらうんだったら、周りがむしろサポートしてあげるべきじゃないかという風にずっと思っていました」

ゆっくりと、一言一言噛み締めるように紡がれる具志堅さんのお話を聴きながら頭に浮かんできたのは、具志堅さんが暗いガマの中で、遺骨一つひとつに声をかけながら丁寧に作業を続ける様子です。「不条理の側を黙って通り過ぎない」ということを自ら体現し続けてきたからこその力強さが、具志堅さんの言葉には込められていると感じました。

汐凪さんの大腿骨発見へ

オンラインイベントの後半では、2022年1月に行われた汐凪さんの遺骨捜索の様子を、写真を交えながらお話しいただきました。

具志堅さんは東日本大震災の被害を報道で知って以来、ずっと東北の力になりたいと思っていたそうです。「沖縄と同じように、いまだ遺骨の見つからない犠牲者が東北にもいるということで、もし何か役に立つなら、せめて捜索の一員、ボランティアの一助になれたらという思いがずっとありました」と語ります。

今回、木村さんとのご縁が繋がり、ついに東北を訪れることになりました。具志堅さんは元旦から大熊町に入り、これまでの遺骨捜索の状況や、地形、土の状態などを丹念に調べたそうです。そして作業に取り掛かったのは、以前汐凪さんの遺骨が発見された場所から、数メートルほど離れた窪地でした。地面の傾斜などから、恐らくこの辺りに流されたのではないかと目星をつけ、ネジリ鎌を振ること20分。約10年9ヵ月越しに、汐凪さんのものと見られる大腿骨が見つかりました。

Dialogue for People のYouTube で、発見の瞬間を映した動画を見ることができますが、見つかった遺骨の土をぬぐいながら、木村さんと具志堅さんの表情がほどけ、「汐凪ちゃん帰れるよ」と言葉をかける様子は、画面のこちら側で、一緒に「よかった、本当によかった」と呟いてしまうものです。

「あれは本当に奇跡です。お父さんと娘さんがお互いに呼び合っていたので起きた奇跡だと思ってます」と具志堅さん。

木村さんは、そう簡単には見つからないだろうと思っていたところ、20分とかからずに見つかった驚きを話しながら、オンライン配信の画面を通して、発見された窪地を案内してくださいました。

DNA鑑定を行わないという選択——今、何を一番大切にするのか

今回発見された大腿骨は、子どもの骨であるということ、津波により周辺で亡くなった子どもが汐凪さんだけだったという状況証拠から、汐凪さんのものだと見られています。他の人の遺骨なのではないかという声も考えられる中で、木村さんは、あえてDNA鑑定をしていません。

経年劣化した遺骨のDNA鑑定を行うためには、せっかくそのまま残っている大腿骨が傷つけられてしまう可能性もあるそうです。ようやく戻ってきた汐凪さんの遺骨が、再び遠くへ運ばれ、しかも傷つけられてしまうことへの躊躇もお話しいただきました。

ただ、自分の中では100%汐凪さんのものだと確信する一方、警察の人には最終的にはDNA鑑定に出してほしいと言われており、迷う気持ちがあるとも語ります。

この時、それまで静かに話に耳を傾けていた具志堅さんが、半ば割って入るかのように「話してもいいですか」と手を挙げたのが印象的でした。

具志堅さんは、強い口調で理路整然と、現状これは汐凪さんの遺骨でしかありえないのだと、もしほとんどの遺骨が見つかった上で一人分以上の遺骨が出てきたのなら、その時初めてDNA鑑定をすればいいのだとお話しくださいました。

「そうした段階以前の問題としてならば、私は肉親による自分の子どもを大事にしたい、自分の子どもの身体を傷つけることはしたくないという思いが優先されるべきだと思っています」

既存の枠組みが語る合理性によって、一人ひとりの思いが「仕方がないこと」として押し流されてしまわないように、具志堅さんが力を込めたのだと感じました。このイベントで司会を務めたD4Pフォトジャーナリストの佐藤慧も「今現在何を一番大切にするのかという中で、木村さんの思いを大切にするというのもまた、悼むという行為の中の一側面なのではないのか」と述べました。

(※補足)その後木村さんは警察の要請により、ご遺骨を鑑定に出さざるを得なかったということです。2022年7月上旬現在、結果は出ていません。

犠牲者に近づこうとする行為

汐凪さんのものと見られる大腿骨が発見されたことで、木村さんはこれから遺骨捜索を続けていくことに「ワクワクするような気持ち」も湧いてきたと言います。ここ3年ほどは、遺骨捜索がなかなか進まない中で、どうすればこの場所を「伝承の場」として次の世代へ繋いでいけるのかということに思いを巡らせていたそうです。確実に汐凪さんがここにいるとわかったことで、この場所での遺骨捜索そのものを伝承活動の一環にできないかという思いが生まれました。

「お話を聞いてくれる人にとって、当事者意識とか、“自分ごと”になるというのは、なかなか難しいことだと思います。けれど、そういう人たちにここで一緒に捜索をしてもらうということで、何か汐凪という存在に近づいてもらえるのかなと。防災にしても、原発が爆発するような世の中にしても、それを“自分ごと”として、そこに問題意識を持って考えてもらえる機会を作れるんじゃないかなと思いました」と木村さんは語ります。

具志堅さんは、「遺骨を見に来る」のではなく「汐凪ちゃんに会いに来る」という意識で来て欲しいとおっしゃっていました。実際に掘らなくても、ただ見るだけでも、「犠牲者に近づこうとする行為が慰霊だ」という言葉は、「慰霊とは何か」という正解のない問いかけへの一つの答えとして、参加者一人ひとりが大切に受け止めたのではないでしょうか。

止まってしまった時間と、積み重なってゆく想い

「死者を悼む」とはどのような営みなのだろうかと考えた今回の大熊未来塾で、印象に焼きついた2枚の写真があります。

1枚目は、大熊町を訪れた具志堅さんと木村さんが大熊小学校の教室を見つめる写真です。

ここもまた、歴史を伝えていくために残したいと木村さんが考えている場所です。2011年3月11日のままで時間が止まってしまった教室に、やはり東日本大震災によって失われたものは、言葉を尽くしても表せないほど大きいものだということを感じました。多くの方の命、思い出の詰まった街並み、大切な人との時間。悲しみとは「乗り越える」ものではないと改めて思います。

一方で、「死者を悼む」ことは、悲しみだけに溢れている訳ではないのだとも、今回の大熊未来塾を通して感じました。2枚目は、木村さんと具志堅さんが汐凪さんの遺骨捜索現場で笑い合う和やかな一枚です。

もう生きて会えることはなくても、「遺骨を探す」という行為自体が汐凪さんとのやりとりだとおっしゃっていた木村さん。「生き残った人間の思いでしかないけれど」と前置きしつつ、明るく社交的だった汐凪さんは、家族を含めたくさんの人がこの場所へ足を運ぶことを喜ぶのではないかと語ります。

この写真を見ていると、遺骨の捜索を通して木村さんが大切に積み重ねてきた汐凪さんとのやりとりが、じんわりとした温もりとなってこの場所に湛えられているように感じます。私自身、父親を持つ身として、お父さんのこのような笑顔が見られることは、汐凪さんにとっても嬉しいことなのではないかなとも想像しました。

木村さんと汐凪さんが繋ぐご縁の輪が、これからも広がり、沢山の人が汐凪さんのもとを訪れますように。

今回初めて大熊未来塾に参加した私も、きっと汐凪さんに会いに行きます。それまでは、福島のこと、沖縄のこと、今回お話をお聴きして考えたことを身近な人に伝えるところから始めたいと思います。

(2022年7月6日 / 文 Dialogue for Peopleインターン 永橋風香 、 校正 佐藤慧)

永橋風香(ながはし・ふうか)
Dialogue for People インターン。大学では、多様性を前提にした教育のあり方を考える。震災当時は小学校3年生。高校2年生で初めて陸前高田を訪れ、画面越しにはわからなかった震災の爪痕に衝撃を受けた。


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