For a better world, beyond any borders.境界線を越えた、平和な世界を目指して

Top>News>【取材報告】ルーツを巡る旅、刻まれなかった女性たちの歴史

News

取材レポート

2022.10.12

【取材報告】ルーツを巡る旅、刻まれなかった女性たちの歴史

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

田中 えり Eri Tanaka

田中 えりEri Tanaka

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

田中 えり Eri Tanaka

田中 えりEri Tanaka

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

田中 えり Eri Tanaka

田中 えりEri Tanaka

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

田中 えり Eri Tanaka

田中 えりEri Tanaka

2022.10.12

取材レポート #差別 #女性・ジェンダー #朝鮮半島 #安田菜津紀

「ここは今、こうして道路になっていますが、あなたのハルモニ(おばあさん)が暮らしていた頃は小川でした。もしかするとそこでハルモニは、市場の帰りに手を洗ったり、ザリガニをとって遊んでいたかもしれませんよ」

釜山駅から車で20分ほど走った峨嵋洞(アミドン)の街は、小高い丘の上に向かって急坂が続き、その周りの斜面に小さな家々が連なっていた。大通りを指差しながら、釜慶近代研究所の所長、キム・ハングンさんは、かつて広がっていたであろう街並みを、情景が浮かぶ言葉を選びながら活き活きと語ってくれた。ハングンさんは、この地域の歴史を長年研究してきたひとりだ。彼の導きで、私は祖母、金玉子(キム・オッチャ)の手がかりを探していた。
 

丘の頂に続く峨嵋洞の坂

釜山に残る手がかりを求めて

これまで記してきたように、私が中学2年生の時に亡くなった父は、家族の歩みの一切を語らなかった人だった。父が在日コリアン2世だと知ったのは、死後に戸籍を見てからのことだった。なぜ父は、自分の出自を語らなかったのか。父の家族はどんな人たちだったのか。もう、死者に尋ねることはできない。それを言い訳にして、私は長らく、家族のルーツに向き合うことを避けてきた。

もうひとつの「遺書」、外国人登録原票
https://d4p.world/news/8032/

幼い頃の父と私

この2年ほど、「外国人登録原票」をはじめとした親族の古い書類を引き出せることを知り、少しずつ、そんな家族の歩みと向き合いなおしてきた。

2020年に交付された原票によると、祖母は今の私よりも若く、32歳でこの世を去っていた。1938年、11歳の時に、本籍のある釜山から山口県下関市に渡って来たようだ。記録されている13年間のうちに、京都や大阪、名古屋など、13カ所もの住所を転々とした後、最後の住所は神戸となっていた。早くに亡くなっていることもあり、書類から読み取れる情報は、これがほぼ全てだった。

記録が残る釜山の住所地に行きさえすれば、何かが分かるかもしれない――そんな一縷の望みを抱き、2022年9月、海を渡った。
 

祖母の外国人登録原票に残る写真

貧困、そして朝鮮戦争

以前は小川だったという道路の周辺は、建設途中の巨大な集合住宅がそびえ立つ足元に、古くからの家々がひしめきあう、新旧の入り乱れた場所だった。一度小道に入り込むと、人がようやくすれ違えるほどの細い裏路地が、くねくねと迷路のように張り巡らされ、誰かの案内なしにはすぐに迷子になってしまいそうな、入り組んだ構造になっていた。

「この坂道には、かつて市場が並んでいて、野菜や果物を売る人々が並んでいたそうです。そのさらに上には、商人たちがサッと腹を満たせるようなうどん屋が並んでいて、今でも“うどん通り”と呼ばれていますよ」

「市場に通っていたのなら、幼いあなたのハルモニも、この細道を駆け上がっていたかもしれませんね」

ハングンさんの語りは不思議だった。膨大な知識にも裏打ちされたその言葉は、フィールドに出ると体温を帯び、会ったこともない幼い祖母が、目の前を颯爽と駆け抜けていくのが「見えてくる」ような、そんな感覚を覚えることさえあった。

ハングンさんによると、植民地時代、周辺は「谷町」と呼ばれ、祖母が生まれたころは、釜山の「三大貧困地帯」と言われるほど貧しい一帯だったようだ。小川の傍らには火葬場があり、周囲にはいつもその煙や匂いが立ち込めていたそうだ。近隣の丘からは、釜山の街が海までよく見渡せる。植民地時代、釜山に暮らす日本人たちが、「先祖たちが自分たちを見守ってくれるように」と、街中にあった墓地をこの高台に移してきたという。

祖母が日本に渡り、日本が敗戦を迎えた後、朝鮮戦争が勃発し、多くの人々が南へ南へと逃避行を余儀なくされた。暮らす場所のない避難民たちが、日本人墓地にテントを張り、何とかそこで命をつないでいたという。その後、そのまま墓地での暮らしを続け、家を建てるようになった人々の中には、墓の上に暮らしているのが申し訳ないからと、祭祀の際に墓の主の先祖も弔う人もいたようだ。故郷がこうして時代に翻弄されていく様は、日本に暮らしていた祖母の耳にも届いていたのだろうか。
 

街の一角に展示してある、朝鮮戦争当時の写真について説くハングンさん。川の傍らにバラック小屋が並んでいる。

丘から見下ろした釜山の街と、祖母が暮らしていたらしい神戸の住所地近くから見渡す景色は、どこか似ていた。釜山を離れたのが11歳であったことを考えると、彼女の中にはうっすらと、故郷の記憶があったはずだ。晩年、そんな脳裏に刻まれている光景と神戸を、祖母は重ねていたのだろうか。
 

歴史と記録の狭間で

身を寄せ合うように並ぶ平屋と平屋の間に、小さな広場があり、年配の女性たちが何人か談笑していた。声をかけると広場の奥の家から、最も長くこの周辺に暮らしているという80代のハルモニが、穏やかな笑みを浮かべて現れた。

「私は20代でここに嫁いできたから、あなたのハルモニの生きてた頃は分からないね……。でも役所に行ってごらんなさい。きっと見つかるから」

背中を押してくれたハルモニのしわしわの手は、ほんのり温かかった。
 

祖母の住所地近くにあった商店で。店に立つハルモニも、祖母がいた当時のことは分からないという。

私たちはこの日、峨嵋洞の住民センターや地域の役所にも足を運んだ。窓口の人たちは戸惑いながらも、懸命に耳を傾けてくれてはいた。ただ、家族の歩みを理解してもらうには、いささか複雑な説明が必要になる。

在日コリアンの中には、日本側の書類上、「韓国籍」という表記になっていても、韓国側に届け出をしていない場合があるのだそうだ。私の父も、そうしたケースにあたる。父がそれを分かっていたのか、それとも誰かを頼って表記を変更したために、韓国側に自身の登録がないことに気づかなかったのか、今はもう分からない。制度と制度の狭間で、何かしらの手違いがあったのかもしれない。つまり日本国籍を取得する前の父は、歴史と記録の谷間にすとんと落ちるように、事実上の「無国籍」状態だったことになる。

そのうえ祖父は、結婚していたことも、私の父が生まれたことも、韓国側に一切の届け出をしていなかった。

「お孫さんはこちらに住民登録番号はないんですか?」
「お父様はなぜ登録されていないんですか?」
「お祖父さまは金玉子さんと婚姻した形跡がないですよ?」

役所の仕事上、当然持つであろう疑問に対して、通訳を務めてくれた曺美樹(チョウ・ミス)さんが背景を踏まえて丁寧に説明していく。こうした点は、在日コリアンの歴史を知らなければ、伝わりづらいところだろう。結局データと照合しても、この地で暮らしていた1927年生まれの金玉子という人物は、記録上存在しない、という答えしか得られなかった。

がっくりと肩を落とし、私は役所を後にした。実は祖父の登録原票にも、日本に渡る前、釜山の「谷町」で暮らしていた記録が残っている。もしかすると祖母は、祖父の記載に合わせて、同様の住所を記入しただけかもしれない。また、日本の外国人登録原票に残っている名と実際の名が違うケースもあるようだ。そうなると、私の手元にある書類の情報は、何も頼りにならないことになる。

役所の前の広場では、木陰で年配の人々が集い、楽し気に談笑していた。カラフルなその光景と、モノクロの平面でしかない祖母の書類は、あまりに対照的だった。あなたは本当は、誰なのだろう。何に喜びを感じ、何に悲しみ、どんな思いを抱いて短い生涯を閉じたのだろう。激動の時代を確かに生きていたひとりの女性の人生が、「なかったこと」になってしまうと思うと、たまらなく悲しかった。
 

峨嵋洞の一角で

ルーツとは、ひとつの「導き」

この旅を通して気づいたのは、女性たちの生きた痕跡は置き去りにされがちであるという、社会の構造的な問題だった。多くの人に見ることを勧められた「族譜」と呼ばれる家系図ひとつとっても、あくまでも男性中心のものであり、女性は名前さえ記されていない場合もある。祖母の生きた痕跡を求め、峨嵋洞で聞き込みを続ける最中に出会ったある男性は、「金玉子? 名前で呼ばれても分からないな。女性を名前では呼ばないから」と語った。それはある意味、象徴的な言葉だったのかもしれない。彼女たちは名前ではなく、誰かの「妻」や「母」として呼ばれてきたのだ。

今回の韓国取材では、自分のルーツにまつわることだけではなく、根深い家父長制に苦しめられてきた女性たちの声にも触れてきた。息子に障害があり、「そんな子どもを産む嫁には用はない」と家庭内で切り捨てられてきた女性が、壮絶な人生の一端を語ってくれた。植民地時代に父が「日本兵」として徴兵され、残された母と共に歩んだ苦難の道のりを伝えてくれた老齢の女性たちもいた。それは途切れることなく、現代社会の構造と一本の線でつながっている。

ルーツをたどることは、ひとつの導きだ。大切なきっかけではあるが、あくまでも「きっかけ」に過ぎない。重要なのはそこから得た気づきを礎に、自分が今後、どんな生き方を選択していくのかだろう。ひとりの人間のたどった歩みからは、必ず社会の歴史が垣間見える。
 

峨嵋洞から見渡す釜山の街。どこか神戸の街並みと重なる

私が今すべきことは、脚光を浴びてきた歴史の「編みなおし」ではなく、「なかったこと」にされてきた、名もない女性たちの声を刻みなおし、後世に手渡していくことではないだろうか。取材を通して、今後取り組みたいことが、よりはっきりとつかめたように思う。その意味でも、ルーツを巡る旅はまだまだ、続きそうだ。

(2022.10.12/写真・文 安田菜津紀)

 



あわせて読みたい -安田菜津紀の「ルーツを巡る旅」はこうして始まりました-

「ルーツを巡る旅」のきっかけについては
もうひとつの「遺書」、外国人登録原票[2020.12.13/安田菜津紀]

韓国からお届けした音声配信は
Radio Dialogue 《現地取材報告》韓国~ルーツを巡る旅――祖母の足取りを追って~」(10/5)

現地、韓国・済州島で取材した「4・3事件」については
虐殺とタブー視、それは「遠い過去」なのか ――韓国・済州島の記憶 [2022.9.26/安田菜津紀]

▼祖父母に関する情報を集めています。詳細はこちらの記事にも書いています。

・探しています、祖母の生きた証を
・韓国の親せきを探しています(取材にかかる情報提供のお願い)

D4Pの活動は皆様からのご寄付に支えられています

認定NPO法人Dialogue for Peopleの取材・発信活動は、みなさまからのご寄付に支えられています。コロナ禍で海外渡航のできない状況が続きましたが、この度ようやく長期の取材を再開いたしました。各地で出会う人々の息吹、大きな問題の渦中でかき消されてしまいそうな声…現地での繋がりを大切にしながら、取材先の様子をみなさんとも共有していければと考えています。ご支援・ご協力、どうぞよろしくお願いいたします。
 

Dialogue for Peopleは「認定NPO法人」です。ご寄付は税控除の対象となります。例えば個人の方なら確定申告で、最大で寄付額の約50%が戻ってきます。


認定NPO法人Dialogue for Peopleのメールマガジンに登録しませんか?
新着コンテンツやイベント情報、メルマガ限定の取材ルポなどをお届けしています。
 

こちらのお名前宛でメールをお送りします。

@d4p.world ドメインからのメールを受け取れるようフィルタの設定をご確認ください。



 

2022.10.12

取材レポート #差別 #女性・ジェンダー #朝鮮半島 #安田菜津紀