※本記事では証言の内容をお伝えするために、差別文言を記載している箇所がありますのでご注意ください。
「せめて、広島から、せめて、福島から、世界中にこの声を届けていきましょう」
広島平和記念資料館の一室で、切明千枝子(きりあけ・ちえこ)さんはゆっくりと、けれどもはっきりとした口調で、証言を聞く参加者たちに語りかけた。15歳で被爆した切明さんは、まもなく93歳を迎えようとしていた。
この日は一般社団法人「大熊未来塾」関係者や、活動に携わるメンバーが広島を訪れ、切明さんの言葉に耳を傾けていた。
大熊未来塾代表である木村紀夫さん一家は、東日本大震災当時、福島県大熊町に暮らしていた。街には東京電力福島第一原子力発電所の1号機から4号機までが立地している。2011年3月11日、津波の襲来により父の王太朗(わたろう)さん、妻の深雪(みゆき)さん、次女の汐凪(ゆうな)さんが安否不明となった。ところが翌12日には、原発事故により、大熊町は「全町避難」を余儀なくされる。その後、王太朗さんと深雪さんは遺体となって発見されたものの、汐凪さんの遺骨の発見は、2016年12月まで叶わなかった。
大熊未来塾は、代表である木村さん自らの経験や、震災前の街の営み・文化などを伝えると共に、複合災害に向き合う地域社会のあり方を考える機会を築くことを活動の軸に掲げている。他地域の伝承活動から学び、バトンを引き継いでいこうと、学生や大熊町の近隣地域で活動する次世代と共に、10月末に広島を訪れた。
大熊未来塾 ~もうひとつの福島再生を考える~
戦争に浮かれていたとしか思えない
切明さんの話は、「あの日」から始まるのではなく、軍都「廣島」の話から始まる。
「広島は今、平和を守ることや、核兵器廃絶を掲げていますが、77年前までは軍国主義の街でした」
切明さんが国民学校2年生の時、日中戦争が起きる。広島城の周辺には陸軍の師団が置かれており、宇品港は中国大陸や、その後の東南アジアの国々侵略のための出発港だった。
「日中戦争の頃は、『万歳、万歳』と兵士たちを送り出すのが日々の私たちの“仕事”でした。その当時、中国の兵隊は、差別用語で“チャンコロ”と呼ばれていました。クラスメイトの男の子たちは、行進している隊列に大きな声で『兵隊さんたち、チャンコロをやっつけて!』『チャンコロ皆殺し』と叫ぶんです」
日本軍がどこかの街を占領したニュースが届く度、教師たちに連れられて日の丸を振りながら街中をパレードした。「戦争に浮かれていたとしか思えない状況でした」と、切明さんは振り返る。
連合軍との戦争が始まったのは、切明さんが国民学校6年生のときだった。
「国連を脱退して、世界の孤児のようになってからも、日本は侵略戦争をやめなかったんです。真珠湾攻撃を伝える臨時ニュースが流れると、大人たちは『アメリカやイギリスなんてやっつけてしまえ』と沸いていましたね」
最初のうちは“華々しく”出兵していった兵士たちだったが、戦況が厳しくなると、次第に街の中から「万歳」の声が消えていった。港近くの造船場で工場長を務めていた切明さんの父は、兵士たちが夜中にこっそり貨車に乗り、港までやってきていたことに気づいていた。
切明さんはその後、高等女学校へ進学したものの、学徒動員で工場に通い詰める日々を送っていた。広島には兵員用の食料などを扱う糧秣支廠(りょうまつししょう)、兵器廠、被服支廠と、陸軍の主要な工場が3つあった。
「兵器廠では爆薬を量って、木べらで木綿の袋に入れる仕事をしていました。夕方になってぞろぞろと弾薬庫から出ていくと、工員さんに『あんたたちあんなところで仕事してたのか』と驚かれたことがありました。『ここは高い塀に囲まれてるだろう、危ない証拠だ。こんなところに子どもを行かせるなんて』と。後になって知ったことですが、反対した学校の先生に向かって、兵器廠の軍人が刀か何かでどんどん床を叩きながら、『こんな緊急事態に何を言うか!お国のために働け!』と言ってきたそうです。戦後になって、『ごめんな』と謝ってきた先生がたった一人だけいましたね。あとの先生は戦時中、軍国主義の塊だったのに、あっという間に“民主主義”を教えはじめて驚きましたが――」
その後、切明さんはタバコ工場で働くことになるが、当初は「タバコなんて戦争の役に立たない」と不満を漏らすクラスメイトもいたという。「タバコ工場なら、真っ先に狙われて爆撃されることはないだろう」と、校長先生があえてここを選んでいたと知ったのは、戦後になってからのことだ。
生き残った人たちにとっても地獄
タバコの粉まみれになりながら働く日々の中で、切明さんは8月6日を迎えることになる。工場は街の中心地から離れていたため、窓ガラスが粉々になりながらも、切明さんたちは一命を取り留めた。凄惨な状況に見舞われたのは、切明さんの下級生たちだった。
当時、空襲の炎が延火しないようにと、家々などを取り壊していく「建物疎開」が行われていた。下級生たちは爆心地から1.2キロほどの地点で、その後片付けに動員されていた。つまり、陰になるものが周囲に何もない状態だったのだ。
学校に戻った切明さんが校舎を片付けているとき、一人、また一人と、辛うじて学校まで帰ってきた下級生たちは、誰が誰なのか判別のつかないほど顔が腫れ上がり、髪はちりちりに焦げ、裸同然だったという。彼女たちは足元から、そして爪の先から、焼けた皮膚を引きずりながらふらふらと歩いていた。
「私も体にガラス片が刺さったままでしたが、そんなのケガのうちに入りませんでした。とにかく、実験器具が部屋中飛び散っているのを何とか掃き出して、理科室の机の上に下級生たちを寝かせました。“せめて少し、痛みが和らぐように”と、家庭科室の古いてんぷら油を塗る――それが唯一の“治療法”でした」
暑いよ、痛いよ、と泣き叫び、下級生たちは次々に息を引き取った。切明さんはグラウンドの片隅に穴を掘り、木造校舎の残骸や窓枠を薪代わりにして彼女たちを火葬した。
「あの頃の中学生は食べるものがない上に重労働。体は小さいんですよ。でも火傷で膨れ上がった体は、そう簡単に燃えないんです。兵隊が持ってきた油をかけてようやく炎に包まれていく下級生たちを見ていました。熱で時折、遺体の一部が動くんですよ。目をそらそうにも体が固まって動けませんでした」
下級生たちの骨を集めても、すべてを納める場所は校内にはない。喉ぼとけと小指の骨だけを拾い、わら半紙に乗せて並べていった。「何日経っても誰も探しに来ないお骨もありました。街の中心地に家があった子は、一家全滅なんです」。
ところが戦後、連合国軍占領下の日本では、厳しいプレスコードが敷かれることになる。「あの時代は何もかもが押し隠された、“暗黒の10年”と言われています。『広島が大変』と助けを求めることもままなりませんでした。亡くなった人たちはもちろん、生き残った人たちにとっても地獄でした。道端の草を茹でて、辛うじて生き延びました。あの時すぐに悲劇を世界中に伝えることができたら、核兵器の製造を止めることができたかもしれません」
切明さんたちを脅かしたのは、飢えだけではない。一見、何ら問題なく見えた友人たちが、ある日突然、血を吐いて倒れ、死んでいくのを目の当たりにしていく。「あの時、髪が抜けたり、肌に斑点が出たら助からない、と言われていました。だから朝起きたら毎日、髪を引っ張ってみる」。11月頭頃、自分の髪の毛がずるりと抜けた。切明さんの心に浮かんだのは「大変だ、死ぬかもしれない」ではなく、「これで死ねる。楽になれる」という思いだった。「我が子を亡くした親たちがね、私たちのことを射るような目で見るんですよ。生き残ってしまった後ろめたさは、本当に辛かったから……」
葛藤はその後も続く。同じく被爆者である夫とは、「子どもを産まない」という約束で結婚した。「当時、身の回りでは、被曝の影響か、原爆小頭症だったり、障害を持ったお子さんがたくさんいたんです」。
転機となったのは結婚して7年経った頃、近所の内科医にその話を伝えたときのことだった。
「私の夫が小さな出版社で、人権問題を扱う本を出していたのを知っていたその先生は、『障害を持った子を産むのが恐くて子どもを産まないと言っているんだったら、あんたたちの本は信用せんぞ。命の価値に上下はないはずだ』って、烈火のごとく怒ったんです。頭をがんと打たれたような衝撃でした。私たちの夫婦の中にも、障害者に対する差別心があったのだと気づいたんです」
遺構を残し、人の言葉と共に記憶を刻んでいく
原爆投下から77年経った今も、世界は核の脅威にさらされ続けている。ロシアのプーチン大統領は、核兵器の使用をちらつかせながら、ウクライナに対する軍事侵攻をなおやめる気配がない。この侵攻をきっかけに、一部政治家の中からは、「核共有」や「核武装」を主張する声も聞こえてくる。切明さんは率直な危機感を語る。
「持っていれば使いたくなるのが人間です。私たちは核兵器を作ることも持つこともやめてほしいと訴えてきましたが、なかなかその声が世界の隅々まで届かない――でも、諦めないで、執念深く、何度でも何度でも、叫び続けていきましょう。みなの力で、平和をしっかりつかまえて、放さないように、逃がさないように守っていきましょう。ちょっと油断すると、人間は同じことを繰り返してしまうから。核の恐ろしさを、忘れてはいけない。被爆者や、そして福島のみなさんはよく分かっていると思います」
実は切明さんが自身の体験を証言をするようになったのは、80代半ばになってからだ。
「それまでは恐ろしくて、忘れたい、忘れたいという、その一心でした。全部頭から抜いてしまいたい、どうして生き残ってしまったんだろう、あの時一緒に死んでしまいたかった、と何年も呆然と過ごしていたこともありました。でも忘れたいと思うほど、よみがえってくる。今でも目を閉じると、全身やけどで苦しんでいた下級生たちの姿が目に浮かびます。次第にこれは、忘れてはいけないことなんだ、と思うようになったんです。世の中もなんだかきな臭くなっていって、苦しいことだけれど、伝えていかなければと思うようになったとき、ふとわが身を振り返ってみたら、もう80歳を過ぎていたんです」
福島県大熊町では震災後、帰還困難区域となった地に、多くの建造物がほぼあの日のままで残されている。ただ、何をどのように残していくか、その議論は深まらず、町立の図書館はあっさりと取り壊しが決まってしまった。
一方、広島では、県が所有する被服支廠の3棟のうち、1棟を残して解体の議論が進められていたが、反対の声もあがり、現存する4棟(県所有3棟、国所有1棟)全てを保存する見通しとなった。遺構を残す意味を、切明さんはどうとらえているのか。
「人の命には限りがありますが、建物は大事に保管すれば残っていきます。書物や写真が残っても、実物に勝るものはないと思っています。被服支廠を見るだけでも、日本の軍国主義の巨大さが分かります。ものは語りませんが、生き証人です。傷跡を傷のまま、戦争の歴史を歴史のまま、残しておくことが大切だと思っています」
「福島でも、全てを消し去って忘れ去ってしまうのがいいのか――やはり遺構を残し、再びそうしたことが起きないように努力していくことが大切なのではないかと思います」
大熊町出身の学生が、質問の手をあげた。震災直後のことを思い出すのも辛いこと、街が思った復興をしていかないことが悲しくなってしまうことを伝えた上で、切明さんの原動力は何かと尋ねた。
「忘れることができない、ということに気がつくのが遅かったように思いますが、気づくことができてよかった、と思っています。後々まで語り継いでいくことが、同じことを防ぐ唯一のことだと思っています。先ほど遺構の話をしましたが、建造物だけ残っても、それが何かが分からなければ意味がありません」
「福島の事故も、同じだと思うんです。この年になって、辛ければ辛いだけ、なおのこと、しっかりと伝えて、歴史に刻みこんでいくことが大切なのでしょう」
切明さんはふと、胸にかけていた青色のペンダントを握った。「これね、証言を聞いた子どもたちが、紙粘土で作ってくれたんです。これをつけると、“あの子たちを原爆や戦争なんかで死なせてなるものか”と元気が湧いてくるんです」
切明さんは最後に、「一人に大きな力はありませんが、小さな力でも、根気よく根気よくやっていれば、一人、また一人と戦争に反対する人が増えていく」と、語り続けることの意義を改めて語った。
木村紀夫さんにとっては、そんな切明さんの言葉が「救いになった」という。
木村さん自身、活動を続ける中で、迷いや葛藤を抱えてきた。「今、福島県内では、起きたことをしっかり伝承しよう、というよりも、もっと新しいものを作って産業を興していこう、という方が大多数ではないかと感じています。地元に戻れば色んな立場の人がいるし、気を遣ってなかなか声があげづらい」。
遺構を残し、人の言葉と共に記憶を刻んでいくこと――切明さんが大切にしてきた思いは、木村さんが伝えてきたことと重なる。
「物だけあってもだめで、人の話そのものがあることで、より説得力が出てくる。今自分がやっていることに自信をもらえたように思います。しんどいけれど、それでいい。もっとシンプルに、今まで自分のやってきた伝承を、地道に積み上げていこうと思っています」
大熊未来塾は、今年8月に一般社団法人としてのスタートを切ったばかりだ。今回の滞在は、広島出身の大学生で、6月にウィーンで開催された核兵器禁止条約締約国会議に赤十字国際委員会(ICRC)ユース代表として派遣された髙垣慶太さんをはじめ、発信を続けてきた広島の次世代も後押ししてくれたものだ。こうした地域を超えた知恵の分かち合いが、未来にバトンを手渡していく礎になっていくのだろう。
(2022.11.24/写真・文 安田菜津紀)
※誤表記を修正しました。〔満州事変→日中戦争〕(2023.9.23)
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