2021年3月6日に名古屋入管で亡くなったウィシュマ・サンダマリさんの遺族による国賠訴訟が続いている。2023年2月15日、ウィシュマさんの居室の監視カメラ映像が、公開法廷で上映される方針が決まった。
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公開法廷でのビデオ上映を渋る国側
ビデオは295時間分残っているとされるが、国は約5時間分のみを2022年12月、裁判所に提出。ところが2023年1月の進行協議で国側は、公開法廷での上映ではなく、非公開の場で取り調べれば十分だと主張してきたのだ。
前年11月の期日やビデオ提出時には、こうした意見は国側から一切出されていない。「なるべく公になることを遅らせたい」という意図がそこに透けて見える。その「目的」は明示されていないが、ビデオが公開されれば、入管法の議論や統一地方選に影響することは必至だろう。
ビデオは居室のドアや鍵の形状が分からないよう処理されており、職員の顔にもモザイクがかけられている。それでも公にできない「保安上の理由」として国側は、「インターフォンを通じた呼びかけと看守勤務者の反応で、監視業務の体制の把握が可能となってしまう」などとしていた。
ちなみに2014年にカメルーン人男性が茨城県牛久市の東日本入国管理センターで亡くなった事件の裁判でも、監視カメラの映像は公開法廷で、傍聴人も見られる形で上映された。映像はネット上にも公開されているが、今に至るまで「保安上の支障」が生じた例は報告されていない。
名古屋地裁はそうした国の主張をほぼ一蹴する形で、原則、公開法廷で上映することを決めた。
監視カメラには何が映っていたのか
私は文筆家・イラストレーターの金井真紀さんと共に、今月17日、名古屋地裁で裁判記録の閲覧申請によりビデオを視聴した。下記、抜粋の形にはなるが、金井さんのイラストと共にその様子をお伝えする。
【2021年2月23日】
19:20頃、ベッドに体を横たえたまま、ウィシュマさんがティッシュや黒っぽい布を丸めたものに何度か吐き戻している。インターフォンで呼ばれた職員にバケツをとってもらうと、またそこに吐いた。「すごい出たね。いっぱい出た」と応答する職員の声に深刻さは感じられない。入管庁が公表した『最終報告書』によると、この日はあまり固形物を食べた形跡がない。吐いてしまったのは辛うじて飲んだ経口補水液などだろうか。
「死ぬ」というウィシュマさんに、職員は「大丈夫、死なないよ、あなた死んだら困るもん」などの応答が何度か続く。
病院に連れて行ってほしい、というウィシュマさんは「お願い」「お願いします」と繰り返し懇願する。「息ができない」「長い時間食べていない」「寝てない」と症状を訴えたものの、職員は「私パワー、権力ない」「ボスに伝えるけど」などに留めた。
「アネー」「アネー」とも繰り返していたが、ウィシュマさんの妹で三女のポールニマさんは、「シンハラ語で“アネー”という言葉を、一生懸命なにかを頼む時の“お願い”という意味で使う」と語っていた。
「痛いこと以外、他のこと考えようか」と語りかける職員。ウィシュマさんは「セーライン(点滴)、あげて」とジェスチャーを交えて伝えているが、分からないようだった。
『最終報告書』では、この日のトイレの介助について、「私、何もしたくない」とウィシュマさんが応じなかったと書いてあるが、ビデオ中のウィシュマさんは「たぶん、あなたたち私落とす」「ぶつける痛い」と訴えており、トイレへの移動中に体を痛めたことがあることを窺わせるような言動があった。
基本的にウィシュマさんは職員たちを「担当さん」と呼び、職員はウィシュマさんを「サンダマリ」と呼び捨てにしている。
【2021年2月26日】
早朝5:00過ぎ、「あ」と声をあげながら、ウィシュマさんがベッドから転落。「担当さーん」とインターフォンを通して助けを求める。ベッドのすぐ脇の床には、タオルほどのサイズの白いマットのようなものが敷かれてはいたが、そこから体がはみ出し、床に体が直接横たわっている状態で、お腹も出てしまっている。
「担当さーん」と何度も呼びかけるが、「今すぐには行けない」「自分で少し頑張って」等のやりとりが続き、ウィシュマさんは腕を動かして起き上がろうとするものの、すでに体の自由がきかない様子だ。「担当さーん」「担当さーん」「担当さーん」と声を振り絞るような呼びかけが続く。
11分以上が経ち、職員2人が入室。「私たちも頑張るけど自分も頑張るよ」「昨日の夜だって大変だったの覚えてるでしょ」と応じる。ちなみに「昨日の夜」の映像はないが、『最終報告書』には、トイレへの介助途中で、職員と共に前のめりに倒れたことが記されていた。
職員は持ち上げ方がよく分からない様子で、ひとりが後ろから腰(足)を掴んだり、まごついている。足がうまく曲がらなくなっているのか、ウィシュマさんが「これ足壊れる」と訴える。結局ベッドに持ち上げることはできず、床の上の毛布に寝かせようとするが、全身をうまく毛布に乗せることができない。
「あー」と叫ぶウィシュマさんに、職員は「大きな声出さないで」と咎めるように応答。結局、敷かれた毛布から足などがはみ出た状態で、別の毛布を上からかけて去っていく。素足の足先が床の上についたままだ。
『最終報告書』には「看守勤務者は頑張って対応していたが、介護の専門家ではない」と記されていたが、専門家ではなくても、素足を覆うくらいはできる。そもそも「専門家」の力を借りなければ日常生活が送れない状態になるまで、あるいはそうなってしまった人を、こうした環境に収容しておくこと自体が間違っていたのではないだろうか。
【2021年3月3日】
18:20頃、職員が2人、夕食のために入ってくるが、ウィシュマさんの口の中にまだバナナが残っていたようだ。ぐったり寝ていたウィシュマさんの口の中にいつからそのバナナが入っていたのかは不明だが、誤飲・窒息の恐れもあったのではないかと感じた。
職員が「頑張れ頑張れ」と飲み込ませようとするが、青いバケツにバナナを吐いてしまう。吐いたばかりでも食事の介助は続き、スプーンで何かをふくませるが、やはりバケツに吐く。職員は口を布でぬぐい、食事介助は続く。
ちなみに『最終報告書』では、「かゆを少量ずつ食べた」「バナナなどを食べる」と記されている。確かに数口何かを飲み込むシーンもあり、「虚偽」ではないが、実相とはほど遠く感じる。
【2021年3月5日】
14:30過ぎ、看護師と職員が入室。マッサージを受けるウィシュマさんが「あー」と苦しがると、「痛いっていうのが分かっていいよ」と看護師が明るく答える。うめくウィシュマさんの横で看護師と職員が「(外部病院の医師が)かっこいい」「(別の医師は)ピチピチのギャル系」と談笑する。ウィシュマさんが痛みに声を上げると、看護師と職員どちらかから、なぜか笑い声があがる。
職員が「眠いのは分かるけど頑張って」と呼びかけるが、ぐったりしてるのを「眠気」だと認識していたのだろうか。
18:00過ぎ、男性職員「ボス」がやってくる。「こんにちは」「痛い?」「痛いよね」と呼びかけるが、ウィシュマさんはほぼ呂律が回ってない。仮放免になったらどこに行くのかを確認したいようだが、会話が成立しているとは言い難い。
【2021年3月6日】
14:07、職員が入室したものの、呼びかけにはもう微動だにしない。別の職員にインターフォンで「指先ちょっと冷たい気もします」と伝える。「あ、そう、脈とれるかな」。その応答に緊張感はない。ウィシュマさんの胸に耳をあてたり、肩を揺する居室内の職員からは徐々に焦りが伝わってくるが、インターフォンごしの別の職員の「脈は分かるかな?」という声にはやはり、緊迫した様子が感じられない。
男性職員なども加わり、皆で名前を呼んだり、腕を引っ張ったりと、体の反応を試す。「いつもだったら……これで痛いって言うんですけど」と一人の職員。「痛がる」ことを生存確認の方法にしていたのだろうか。
映像は救急車を呼ぶ判断のところまでは映っていない。
「非人間的」であることを求める構造
恐らくこの約5時間の映像だけでは、ウィシュマさんの身に起きたことの真相まで迫ることはできないだろう。例えば『最終報告書』に記載されている職員の言動だ。カフェオレを上手く飲み込めないウィシュマさんに「鼻から牛乳や」と言い、食べたいものを尋ねられ「あろ……」と弱々しく答えた彼女に「アロンアルファ?」に聞き返す様子は、ここには映っていない。
苦しむウィシュマさんの前で笑う職員らを見たとき、私はふと、「アイヒマン実験(ミルグラム実験)」を思い浮かべてしまった。閉鎖的な空間で権威者に指示されたとき、人はどこまでその命令服従し、他者に電気ショックを与えてしまうのか―――「自分はNOと言えるだろう」とほとんどの人が思うかもしれない。けれども実際には多くの人々が、電気ショックのボタンを押し続ける。私が実際に見た実験映像では、痛がる相手の声に笑い声をあげるようになった被実験者もいた。「凡庸な悪」は誰にでも潜むのだ。
少なくともこの5時間分の映像の中で、業務にあたる職員たちに「あからさまな悪意」はにじんでいない。それがかえって、背筋を凍らせる。彼女たちは「作業」が終われば、また「外界の常識」の中に戻っていく。けれども入管収容施設の中では、なぜか「目の前の人間が弱っていれば救急車を呼ぶ」という「常識」が削ぎ落とされる。ご遺族が映像を見た際に語った「動物のように扱われた」という言葉は、まるで目の前にいるのが生身の人間であることを忘れたかのような扱いを指していたのだと、今は思う。
非人間的に扱われたウィシュマさんのことを、金井さんはひとりの人間として描こうと努めてくれた。法廷画のような「精巧な再現」も必要ではあるが、これは血の通った人間の身に起きたことなのだと、金井さんの絵を通して伝わればと思う。
私は対応にあたった個々の職員にも、責任は「ある」と思っている。ただ、現場の問題だけに矮小化していては、同じ事件がまた繰り返されるだろう。誰かを人間扱いしない組織は、そこで働く人々にも「非人間的」であることを求める。そうした問題の根本に切り込めるかが、引き続き、問われている。
最後に、2月の口頭弁論で、ワヨミさんが行った意見陳述の一部をここで紹介する。
私たちが最初に日本に来たのは2021年5月です。それから、法務省や入管側の方々と多くの機会でお話をしてきました。彼らの対応を見て、いつも私が感じていたことがあります。
貧しい国の出身だから、姉は、収容施設の中で、ちゃんとした医療を受けられなかったのだろうか。
私たちが貧しい国の出身だから、姉の死後、どんなに頼んでも、姉の映像をすぐに渡してもらえなかったのだろうか。
私たちが貧しい国の出身だから、入管は責任を認めようとしないのだろうか。
この裁判で、入管側が、姉がスリランカの人間だから賠償金が低くあるべきだ、慰謝料も安くないとおかしいと主張していると知りました。これは、大変な不正義だし、明らかな差別だと思います。
日本では、金持ちと貧しい人で、命の重さが違うのですか?人の苦しみや哀しみの深さは、金持ちと貧乏な人で違うのですか?同じ日本人でも、貧しければ慰謝料が安いのですか?それとも、国籍によって安い命と大切な命が分けられるのですか?
私も、あなたも、人間です。命の重さにも、苦しみや悲しみの深さにも、違いはありません。
私の問いかけに、この裁判が答えて下さることを心から願います。
(2023.2.20 / イラスト 金井真紀、 写真・文 安田菜津紀)
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