2023年3月、イラク北部クルド自治区はつかの間の春となり、花々の咲き誇る美しい季節を迎えていた。菜の花から菜の花へ、ミツバチたちがせわしなく飛び回る。穏やかに見えるこの風景も、「忌まわしい記憶を呼び起こす」からと、手放しで喜べない人々がいる。
虐殺は春に起きたからだ。
1988年2月から9月にかけ、サダム・フセイン政権はクルド住民たちを掃討する「アンファール作戦」を決行する。“アンファール”とは「戦利品」を意味する『コーラン』の中の言葉だ。わずか7ヵ月あまりの間に破壊された村々では、18万人が犠牲になったといわれている。同年3月16日には、イラン国境に面したハラブジャの街に化学兵器が投下され、サリン系のガスなどで約5千人の命が奪われた。
こうして数々の残虐行為に手を染め、強大な権力で支配を続けてきたサダム・フセイン政権が倒れたのは、20年前のことだった。しかしそれは、「力」を用いた排除だった。
誰もが親類を亡くし、傷を負った
2003年3月20日、「サダム政権が大量破壊兵器を隠し持っている」などの「大義」を掲げ、米軍を主体とする有志連合がイラクへの軍事侵攻に踏み切る。ところが今に至るまで、その証拠は見つかっていない。「でっちあげ」から始まった戦争はその後も尾を引き、おびただしい犠牲をもたらしてきた。
20年という月日が経った「今」を、人々はどう見つめているだろうか。
「当時は幼かったこともあって、サダムを倒したのはペシュメルガ(クルドの武装勢力――現在は自治区の治安部隊)だと思っていました。アメリカの軍事侵攻があったと知ったのは、それから何年も経ってからです」
クルド自治区、チャンチャマルに暮らす、看護師ラガズ・ファテさん(27)が、いとこのザナ・マサナ・シャフィークさん(33)と共に取材に応じてくれた。
当時7歳だったラガズさんは、国内外の勢力図を理解するにはまだ幼かった。ただ、大人たちがひどく怯えていたことは覚えている。サダム政権による「報復」で、ハラブジャの街の悲劇が再び繰り返されることを恐れていたのだ。
「当時、クルドのメディアは盛んに化学兵器攻撃への警戒を呼びかけていました。大人たちは入手困難なガスマスクを手に入れようと必死でした」
米軍による侵攻前、近所のコミュニティはまるでひとつの家族のように、毎夜互いの家を行き来していたとラガズさんは振り返る。
「あの時、この周辺で車を持っていたのは父だけで、誰かが病気になると父の車で病院に運んでいました。小さな赤い車だったこともあって、近所の人たちには“救急車”と呼ばれていました」
つながりの強いコミュニティだった一方、経済的には常に厳しかった。とりわけチャンチャマルはクルド自治区とイラク政府側との境界に近く、イラク軍の散発的な攻撃に見舞われてきた。各家庭は自衛のために、当たり前のように武器を備えていた。
サダム政権下では、誰しもが親類を亡くし、生き残った人々も深い傷と共に暮らしてきたとザナさんは語る。
「親戚のひとりはペシュメルガの戦闘員だったために、クルド自治区ができる前、サダム政権側に捕まりました。遺体は今も戻ってきません。そればかりか、妊娠中の妻や子どもたちまでが連行され、子どものひとりは刑務所の中で生まれています。30年以上が経った今も、劣悪な環境で過ごした影響なのか、みな肌の状態が悪く、不健康です」
ラガズさんは子どもながらに「小さな抵抗」を試みたことがある。「学校で配られた教科書の最初のページにはサダムの写真が掲載されていました。新学期が始まると、友人とこっそり、その顔に落書きをしたりしていました」
武器に代わってペンで社会を救いなさい
米軍による侵攻の10日前、イラク軍からの攻撃を避けようと、一家は遠方の村に避難する。3家族が、家畜の小屋だった場所を間借りして身を寄せ合った。学校の校舎で寝泊まりしていたこともある。通りでは毎日のように、避難者を満載したトラックを目にした。
米軍による空爆が始まると、ペシュメルガも米軍側についてイラク軍と交戦することになる。ペシュメルガの司令官だったラガズさんの父は、キルクークでの激しい戦闘に加わった。
「当時は携帯電話もなく、父の状況がよく分かりませんでした。同じ前線にいた親戚たちから伝え聞く情報しかなく、それもただ、待つことしかできませんでした」
4月9日、バグダッドは陥落し、鎖をかけられたフセイン像が引き倒される様子を、ラガズさんたちはテレビ越しに眺めていた。「これでもう報復攻撃はない」――そう安堵したのもつかの間だった。ほどなくして、戦闘で犠牲になった父の遺体が送り返されてきたからだ。
「それから毎日のように、家に残されていた父の靴をピカピカに磨いては、“早く帰ってきて”と願っていました」
幼稚園の先生をしていた母が、6人きょうだいを一手に支えることとなった。気丈に振る舞おうとしても、夕方になると涙をこらえきれなくなる母の姿が目に入った。彼女はやがて泣くのを止め、ラガズさんをこう励ました。
「あなたたちの時代は、武器に代わってペンで社会を救いなさい」
その言葉通り、きょうだいたちは学校で優秀な成績を収めていく。医療やビジネスなど、それぞれが自身の道を歩み始めた頃、クルド自治区もようやく安定し、益々の発展が期待されていた。ところが2014年、再び脅威がこの地に迫る。
「力の空白」と「イスラム国」の台頭
イスラム教スンニ派のサダム・フセイン政権下、多数派であるシーア派は冷遇されてきた。ところがサダム政権が崩壊すると、力関係は逆転することになる。いまだ社会基盤が脆弱なまま、様々な緊張で張り詰めていた2011年12月、米国はイラクから軍を撤収し、イラク戦争を「終結」させた。この「力の空白」は、当初から懸念されていた事態を招くことになる。
米軍撤退後、スンニ派への弾圧は激しさを増していった。その怒りや不満を吸い込むように勢力を拡大していったのが、過激派勢力「イスラム国」(IS)だった。
ペシュメルガは再び「前線」へと駆り出され、ラガズさんたちの親類もISとの闘いで次々と犠牲になっていった。
サダム政権が倒れたからといって、米国の振る舞いが称賛されてきたわけではない。侵攻と中途半端な撤退の狭間で、常に犠牲になってきたのは市民であり、ペシュメルガは「駒」のように扱われてきた。翻弄され続けてきた歴史を、ラガズさんはこう語る。
「アメリカは彼らの利益のために、クルド人を利用しているだけです。トランプはISと闘った“兵士”を褒めはしましたが、決して“クルド人”とは言いません」
「アメリカに限りません。資源豊富なこの地を、国際社会はただ“ケーキ”のように扱い、その分け前をどう得るのかだけを考えているように思います。だからこそ私たちが、発展し、安定した社会を築いて力を得るのが不都合なのでしょう」
繰り返される地獄のような日々
安定とはほど遠い社会状況下で、何重もの避難生活を強いられてきた人々は少なくない。ハリール・フセインさんと妻のウルバ・ナッマンさんは、バクダッドから北西に車で1時間ほどの距離にある街で暮らすアラブ人の家族だった。当時、治安自体は安定していたとハリールさんは振り返る。
「ただ人々は、経済的に疲弊していました。自分も農民として働きながら、建設現場で日銭を稼ぐので精一杯でした」
米国による侵攻後、部族間や宗派間での衝突も頻発し、住人たちは互いを恐れるようになった。やがて警察などの要職は、シーア派が占めるようになる。スンニ派であるハリールさんは、仕事を見つけるのがより困難になり、生活は行き詰った。
2004年に生まれた長男のウマルさんを連れ、2007年、一家はスンニ派が多数を占めるティクリートへと移る。ところが翌2008年、恐れてきた事態が一家に降りかかった。
ある日の朝8時前だった。アパートを出た直後、凄まじい爆発音が轟いた。自爆テロだった。ハリールさんや息子たちの体に、飛び散った車の破片が突き刺さる。
地獄のような日のことを、ウルバさんはこう語る。「慌てて部屋から駆け下りると、通りは煙で覆われ、何も見えませんでした。しばらくして見えてきたのは、血だらけで倒れている息子たちの姿でした。あまりの血の量に、息子は死んだと思いました。病院の医師でさえ、もう助からないものだと思っていたほどです」
体中に破片の突き刺さったウマルさんは、12時間の手術の末、奇跡的に一命を取り留めたものの、左足は切断するほかなかった。
「あの時はまだ4才だったので、事件のことはほとんど覚えていないんです。父の後をついていったのを、夢の断片のように覚えていて、次に気がついた時はすでに病院のベッドの上でした」
今でも重いものは持てず、動かすことができない指もある。無数の破片による傷跡は、皮膚に深く刻まれたままだ。
それは日本にも問いかけられている
イギリスに拠点を置くNGO「イラク・ボディー・カウント」は、イラク戦争開戦から2011年12月の米軍撤退までの間に、16万人以上が亡くなったと指摘している。そのうちの8割近くが、ウマルさんたちのようなイラクの民間人だった。
爆発テロからわずか6年後、ハリールさん一家は再び街で激しい爆発音を耳にする。2014年、ティクリートに過激派勢力「イスラム国」がやってきたのだ。
「誰が警察や軍で、誰が“イスラム国”の戦闘員なのか、どこから攻撃が飛んでくるのか、訳も分からず、とにかく身分証だけを手に、着の身着のまま避難するしかありませんでした。避難路には“イスラム国”が設けたチェックポイントがありましたが、あまりの混乱ぶりに、彼らも“とにかく行け”とさじを投げた状態でした」
ISの台頭後、一時国内避難民は300万人を超えた。ハリールさんたちは親戚宅などを転々とした末、多くの避難民と同じように、治安がより安定しているクルド自治区へとたどり着く。できることなら慣れ親しんだ街に帰りたいと願いながら、9年近い月日が過ぎていった。今はファラーフェル(ひよこ豆のコロッケ)を屋台で売りながら、辛うじて生活をつないでいる。
学齢期に街から街へと転居を余儀なくされてきたウマルさんは、就学継続にも困難を抱えてきた。ISから逃れてきた当時はまだ、避難民向けの学校がなく、ようやく見つけた学校も、暮らしている場所からは遠かった。不自由な体を引きずり、辛うじて6年生まで卒業したものの、今はただ、家に籠る日々を送っている。
一家の傍らで話を聞いていた親戚のひとりが、たまらない様子で口を開く。
「米国は行くところ行くところ、破壊するだけしておきながら、結局、後始末もせず放置していく」
「でっちあげの戦争」から始まったイラク侵攻、その後に続くISの台頭により、犠牲になった数十万という人々は、なぜ死ななければならなかったのか――。この地を訪れる度、突きつけられる。それは当時、米国を真っ先に支持し、自衛隊を現地に送り込んだ、日本にも投げかけられている問いのはずだ。
(2023.3.20 / 写真・文 安田菜津紀)
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