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連載

2023.6.1

小説家 深沢潮 エッセイ「李東愛が食べるとき」――第2話 珈琲を飲むとき

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

田中 えり Eri Tanaka

田中 えりEri Tanaka

2023.6.1

連載 #深沢潮

 食べものにまつわるエッセイの連載だというのに、二回目で飲み物の珈琲をテーマにするなんて、さっそく脱線気味になってしまいました。とはいえ、私にとって、珈琲を飲む時間は、とても大切なひとときです。キムチの次は珈琲について書くと決めていました。

目覚めの一杯、執筆の合間、お気に入りのスイーツとともに、親しい人と会話しながら(いや、気まずい場面でも登場しますが)、食後など、さまざまな状況で珈琲は欠かせません。その時間を味わうだけでなく、私は珈琲そのものも大好きなのです。
 
 幼い頃、珈琲は大人の飲み物だからと、禁止されていました。カフェインは眠れなくなる、刺激が強すぎる、背が伸びなくなるというのが、珈琲を飲ませてもらえない理由だったかと記憶しています。しかし、ダメと言われると余計にやってみたくなるのが人間、ことに子どもの性分です。珈琲味のキャンディはかろうじて許されており、その甘くてほのかな苦みを「なんだかかっこいい味だ、大人っぽい」ととらえて気に入っていた私は、きっと本物の珈琲も素敵な味に決まっていると、飲んでみたくてたまりませんでした。テレビでは、インスタントコーヒー(ネスカフェゴールドブレンドなど)のコマーシャルがさかんで、しかもそれがとても垢ぬけて見えたことも、あこがれに拍車をかけました。私も「違いがわかる」人になりたいと切望したものです。ちなみに、私の母はとにかくすべてにおいて厳しい人で、子どもたちは食べ物に関してもかなり制限をされました。おなじみの、歯が溶けるから、ということでコーラも禁止されていましたし、母は味の素も嫌悪しておりました。ジュースもダメで、唯一許されたのはポンジュースのみ。推奨された飲み物は麦茶と牛乳でした。

そんななかで、私が初めて珈琲を飲んだのは、小学校4年生ぐらいの頃です。パチンコ事業をしていた父をしばしば訪ねてきた同胞の金融機関(当時の名前は東京商銀)の方に、母がいつも珈琲を淹れていました。「うちの奴(ひどい言い方!)の珈琲は美味いから」とめったに人を褒めない父が認める母の珈琲は、サイフォンで淹れた本格的なものでした。理科室にあるようなアルコールランプでサイフォンを温めていました。

ある日、母が客間にいる銀行の方たちに珈琲を運んでいき、馥郁とした珈琲の香りが漂うキッチンでひとりきりになった私は、サイフォンにわずかに残っていた珈琲を一気に飲み干しました。

口をつけたサイフォンの容器は想像を絶する高温で、私は悶絶しました。珈琲の味などまったくわかりません。慌ててキッチンから出て洗面所に行き、水道の蛇口をひねって、ずっと口を流水に当てていました。母には気づかれませんでしたが、しばらく物を食べるたびに刺すような痛みが襲いました。それでも火傷がばれないように平然として口にごはんやおかずをつっこんでいました。この経験から、私はむやみに珈琲に手を出すのは止めようと誓いました。

さて、ここで、なぜ我が家にサイフォンがあったか、という疑問が皆さんのなかに沸いたのではないでしょうか。1970年代後半から1980年代、ドリップもサイフォンも(サイフォン珈琲がはやっていました)、喫茶店では目にするものの、一般家庭においては珍しいものでした。だからこそ、父は銀行の方々に振舞いたかった(つまり自慢したかった)のでしょう。そのころ、父は、東京の品川区旗の台に喫茶店を開いていました。といっても父が直接経営にかかわったのではなく、四年制大学を卒業しても韓国籍であるがために職に恵まれなかった母方の叔父のための店でした。開店前に喫茶店の学校のようなところに通った叔父から母は珈琲の淹れ方を教わり、サイフォンもひとつ家にもらったようでした。

駅から徒歩5~6分の線路沿いにあった喫茶店「相」は、なかなかに繁盛していました。「相」は叔父の名、相道からとりました。相道叔父はマンネ(母のきょうだいのなかで一番年下)で、みなからサンちゃんと呼ばれ、私はサンちゃんアジェと呼んでいました。母とはかなり年が離れており、サンちゃんアジェは私にとって親しみやすい人でした。漫画や音楽に詳しくて、母に秘密で私に漫画を(我が家は漫画禁止)買い与えてくれたり、アイドル(西城秀樹)のレコードを買ってくれたりしました。これは母に見つかって没収されたというトホホな思い出となってしまうのですが、とにかく、私はサンちゃんアジェになついていました。アーケードで有名な武蔵小山商店街にあった二本立ての映画館に山口百恵の映画を観に連れて行ってくれたのもサンちゃんアジェでした。

 喫茶店「相」は、木目の壁がスマートで温かみがありながらすっきりとした内装で、カウンターと、四人掛けや二人掛けの席を備えており、20人ぐらいお客さんを収容できました。先日京都の河原町の六曜社という昭和の名残のある喫茶店に行ったのですが、そこの雰囲気がとてもよく「相」に似ていました。

「相」はたぶん、5年くらい開業していたと思います。中学受験の学習塾に通っていた私が塾の帰りに立ち寄ると、サンちゃんアジェが生クリームをたっぷりのせたココアを出してくれました。あの至福のココアの味が忘れられなくて、家でも母にねだりました。ココアの粉はヴァンホーテンというブランドのもので、母は御徒町まで行って手に入れ、ココアを勉強の合間に出してくれました。私は毎晩のように生クリームたっぷりのココアを飲んでいました。塾に行く前にケンタッキーフライドチキンを食べるような暴挙も加わり(帰宅後夕飯も食べる)、さらに運動不足もあって、中学受験の準備時代は急速に体重が増えていきましたが、当時はまったく気にしていませんでした。中高一貫の女子校に入って見目麗しいまわりの子たちを見て自分のダサさにようやく気付かされた次第です。それでも、私はあの時代にココアを飲んだことを後悔していません。甘くてあたたかくてカロリーたっぷりのココアがなければ、辛い勉強に耐えられなかったでしょう。それからもココアは大好物で、「乳房のくにで」という小説にも出してしまったほどです。

そういえば、あまりにもヴァンホーテンのココアが好きすぎて、輸入していた商社を就職活動の際に受けようとしたこともあります。けれども、「韓国籍は受ける資格がない」と言われて落ち込みました。1980年代後半、韓国籍(外国籍)のものにとって、就職はまだまだ厳しかったのです。メーカー、金融、商社とことごとく「日本国籍を有するもの」しか、受けられませんでした。エントリーシート(当時は履歴書)すら出せなかったのです。バブル景気の売り手市場で周りの友人たちが次々に内定をとっていたので、余計に辛かったです。自分はダメなのだと徹底的に思い込まされました。あの頃の私は、韓国籍の人間を受け入れない社会が間違っているのではなく、韓国籍である自分がいけないのだと思っていました。世の中に拒まれるということが続くのは、本当にしんどいです。恋愛においても「韓国人は困る」と日本人の交際相手から言われて、心がずたずたになりました。だからもうそれ以上傷つきたくなくて同胞と見合い結婚を決意するにいたりました。

話が脱線したので、戻しましょう。「相」にはたくさんの思い出があります。6年生の夏、クラスメートたちを呼んで、「相」を貸し切りにして誕生会をしたことがありました。小学校3年で実姉を亡くしてから、ひたすら中学受験のための勉強に向かい、友だちと放課後遊ぶこともほとんどなかった私にとって、あの誕生会は忘れられない貴いものでした。

そして、「相」のことを想い返すとき、もうひとりの叔父のことが頭に浮かびます。サンちゃんアジェのすぐ上で、母の弟の、輝男叔父さんです。私はてろうアジェと呼んでいました。てろうアジェもサンちゃんアジェと一緒に「相」で働きました。てろうアジェは精神疾患を患い、松沢病院に入院し、森田療法という治療をうけていたこともありましたが、あの当時は調子がよく、接客は無理としても、ホールでは働けるだろうということで初めての労働を「相」で行ったのです。サンちゃんアジェとてろうアジェが青いシャツに黒い蝶ネクタイをしてカウンターの中にいる姿がいまでも私の脳裏に焼き付いています。ふたりとも、あまり愛想はよくなかったのですが、笑顔を見せているときもあって、楽しそうでした。てろうアジェは一年ぐらい働きましたが、その後ふたたび病状が悪化して、「相」を辞めてしまいました。

てろうアジェは舟木一夫が大好きで、歌手になりたいと夢見て高校卒業後レッスンに通いましたが、朝鮮人は無理だと先生に言われて挫折し、それをきっかけに発病してしまったのでした。祖父母の家に行くと、機嫌のいいときのてろうアジェが大きな声で歌をうたっていたのをよく覚えています。かと思うと、不機嫌に怒鳴り散らします。部屋にひきこもっているときもありました。

今年の四月に刊行した「李の花は散っても」(朝日新聞出版)には、李垠の妹で朝鮮王朝最後の皇女である徳恵翁主が出てまいりますが、彼女も戦後に松沢病院に入院しました。もしかしたら、てろうアジェと重なっていた時期があるかもしれません。徳恵翁主を描写するときは、てろうアジェのことが思いだされ、執筆が滞りがちになりました。てろうアジェは20年近く前に60代で亡くなりましたが、最後は鍵のかけられた病棟の一室で息を引き取りました。社会から疎外されてきた朝鮮人が心を病むことは、珍しいことではありません。

さて、珈琲。中学校に入っても相変わらず珈琲は許されませんでしたが(大学生になるまでダメとのこと)紅茶はオーケーでした。紅茶にもカフェインは入っていますし、日本茶も同様ですが、なぜか珈琲はかたくなに禁止されていました。とはいえ、別に大丈夫、そんなに飲みたくもないし、と思っていました。実は、父がそのころ缶コーヒーを買いだめして毎日飲んでいて、冷蔵庫にあった一本をくすねて飲んだことがありました。すると、甘ったるくて、へんにすっぱくて苦くてたいして美味しくなかったので、なーんだ、こんなもんかとがっかりして興味が失せたのです。

珈琲へのあこがれはしぼみましたが、喫茶店には行ってみたいとずっと思っていました。いまのように、こじゃれたカフェ、という感じのものでなく、あくまで喫茶店です。店に入ると煙草の煙が漂うあそこです。大人の場所、という雰囲気を醸し出し、なにやらちょっと悪い匂いがする、というのが魅かれた理由でしょう。

中学、高校時代はアイデンティティの葛藤で、とても暗い青春を送っていました。部活にも夢中になれず、勉強は嫌い、自分も嫌い、親も嫌い、朝鮮半島のことは考えたくない、という毎日でした。この暗黒期は長く、ピークは高校1、2年の頃です。私は高1のとき親しくなった友人と学校をさぼり、ある日代々木の喫茶店に行きました。たぶん、「相」以来、初の喫茶店です。そこは古い店構えのチェーン店でした。そして、そこでその友人の持っていた煙草(たしかメンソール味)を生まれて初めて口にしたのです。いっぱしの不良気取りでした。今思うと、セーラー服で白昼堂々と喫茶店で煙草を吸っていても補導されなかったのは、運がよかっただけですが、私は自分に酔ってご満悦でした。しかし、学校をさぼったことはすぐに母の知るところとなり、頑張ってのばして聖子ちゃんカットにした髪をサル(モンチッチ)のように切れと命じられてしまいました。内緒でパーマをかけていたこともばれていたのでした。父にも話は知られて、一発殴られました。煙草のことが発覚しなかったのは幸いです。もしわかっていたら、一発では済まなかったかもしれません。

絶対権力者の親には逆らえないものの、私の心の奥には埋火が残ったままで、高校二年になるとそのはけ口は、「男の子と交際する」という目標に向かいました。おそらく承認願望が、そういった形で現れたのだと思います。当時は人生のなかでもっとも自己肯定感が低く、だれかに受け入れてもらいたくて必死だったのです。仲の良い友人はいましたが、アイデンティティの揺れは理解してもらえませんから、不全感がありました。だから「モテる」ことで、自己肯定感をあげたかったのです。私は友人と男子校の文化祭に出向いていき、とうとうデートをすることになりました。私が声をかけたのか、向こうからなのか、よく覚えていませんが、とにかく一人の男の子と連絡先を交換しました。電話は親が取り次ぐため(携帯はない時代)、翌週に会うと決めておきました。

まじめで堅い女子校だったので、男子校の文化祭に行くだけで「遊んでいる」と言われてしまいましたが、私はどうにでもなれ、と思っていました。「あの子、韓国人らしいよ」と噂されていたことも知っていたので、何を言われても同じだろう、どうせみんな私のことなんて馬鹿にしているのだからと開き直っていたのでした。

初デートは、当時はやり出したカフェバーなるところでした。マドンナのミュージックビデオが流れていました。待ち合わせたのは土曜日の夕方の渋谷でお互い制服姿でした。私は緊張して注文も焦ってしまい、とりあえず相手と同じものにしました。その男子高校生は、バンドでベースを弾いていて、とても恰好よかったのですが、女子に慣れていないのか、ほとんどしゃべらないのです。沈黙が流れ、やがて運ばれてきたのはアイスコーヒーでした。口をつけた珈琲は苦くて、シロップとミルクを入れてどうにか飲めるといった代物でした。ずずっと音をたてて飲み終えた私は、そのまま氷を口に入れて、バリバリと噛み始めていました。すべて無意識にしていたので自分では気づかなかったのですが。

「氷を食べるなんて変わっているね」と冷めた目で見つめてきたその彼は、続けて「僕、ミルクティーを飲むような子が好きなんだよね」と言ったのでした。彼と会ったのはそれっきりです。そして、高校時代は、予備校などで男の子の友人はできても「彼氏」はできませんでした。まあ、野暮ったくて暗かったので当然です。

それから、珈琲解禁の大学生になっても、私は紅茶派のままでした。まったく珈琲を飲まないわけではなかったのですが、すすんで注文することもあまりなく、選択肢があれば珈琲以外を選んでいたような気がします。ココアがあれば迷いなく頼みたいところでしたが、あまりおいていなかったですし、カロリーも気になり始めていました。そしてなによりミルクティーが頭の中でつねにこだましていました。

では、いつから珈琲派になったかというと、結婚してからです。元夫が珈琲専門店でアルバイトをした経験があり、豆からひいてドリップ珈琲をたまに淹れてくれたのです。

「はじめはストレート、次に砂糖を入れて、最後にクリームを入れて」飲むと美味しいということも知りました。離婚してしまいましたが、珈琲の味わい方を教えてくれたことは感謝しています。おかげで器にも興味を持つようになり、自分で陶磁器の絵付けまで始めました。デミタスカップ(エスプレッソ用)を絵付けするのを好んでいました。最近は、自宅にネスプレッソのマシーンを買って、エスプレッソを飲んでいますが、自分で絵付をした器はよく使います。エスプレッソには、牛乳、アーモンドミルク、豆乳、オーツミルクなどを混ぜることもありますが、ドリップで落としたものをストレートで飲んだりもします。

そうそう、昨年末から今年年始にかけてベトナムに行き、濃い珈琲に練乳というベトナム珈琲にはまってしまいました。あまりにも飲みすぎて、最終日にお腹をこわしたほどです。どうやら私には極端なところがあるようです。もちろん現地で豆を買ったので、家でもベトナム珈琲をたまに作りますが、やはりあのベトナムの空気に触れて飲むのとはずいぶん異なります。エネルギッシュでいて整然としたベトナムにまた行きたいです。

数年前の冬に「海を抱いて月に眠る」の取材で父とともに父の故郷である韓国の慶尚南道サチョン市三千浦を訪ねたとき、父の実家のそばに、いにしえの喫茶店、いわゆるタバン(茶房)があり、父はそこで小学校の同級生と会い、私も一緒に行きました。店の中には、唐辛子が干してあったり、花札が置いてあったりします。囲碁をしているおじいさんたちもいました。珈琲を注文すると店のマダム(というよりハルモニ)が持ってきたのは、インスタントコーヒーでした。その珈琲は寒さでかじかんだ唇をやわらかくほぐしてくれました。タバン(茶房)は、かつて女性が出前を装って性的なサービスをするような裏の部分を持っていました。だからなのか、自分が喫茶店を営んでいたにもかかわらず、私の父は私が大学生のときにケーキショップのカフェでアルバイトをしようとしたら、ものすごい勢いで「水商売は止めろ」と怒鳴り、許してくれませんでした。しかし、父の実家近くにあったタバンはもはや健全な高齢者の憩いの場所でした。町にはスターバックスもできましたが、そこは時が止まっているかのようでした。私は喫茶店「相」のことが思い浮かびました。

父の故郷では、親族が次々ともてなしてくれます。家のときもありますが、外の食堂ということもありました。そのときはアナゴの白焼きの店に三回も行きました。(サムギョプサルのように)鉄板で焼いたアナゴをサンチュで包んで食べます。絶品の味です。店の出口付近にお湯で溶かして飲むスティックの珈琲が必ずあって、紙コップに入れて湯で溶かし親族が私に有無を言わさず食後に渡してくれます。それがまた味わい深い風情で、最後に飲むと、親族たちの暖かで素朴な気持ちが熱くて甘い珈琲とともに心に染み入りました。

滞在中に、サンちゃんアジェが咽頭癌で亡くなったと連絡が入りました。私は父を誘って、もう一度タバンに行きました。ほかにお客さんのいない静かな店内で、父と向かい合って黙ってインスタントコーヒーを飲みました。こんな味だったかな、あまり美味しくないなと思いました。

今年4月に4年ぶりにソウルに行ってきました。韓国のひとびとは、珈琲をこよなく愛しています。なぜだか真冬でもアイスアメリカーノを(やせ我慢してまでも)飲む、とか、スターバックスが地下鉄の出口にあるかどうかで土地の値段が違うとか、いまはオーガニックや自家焙煎も増えたとか、珈琲にまつわるいろんな話を聞きました。たしかに、スタバはいたるところにあるし、おしゃれなカフェや珈琲専門店をソウル市内でたくさん見かけました。そして、珈琲は東京よりもちょっと高かったです。

「李の花は散っても」の舞台になっている徳寿宮を訪ね、徳寿宮から続く、高宗が日本の支配と朝鮮王朝の終焉を憂いて泣きながら通ったという道も歩きました。そこにはしゃれたカフェが並んでいて、日本の春の象徴のような花である桜と、韓国の代表的な春の花のケナリが美しく咲き乱れていました。李垠の父である高宗は、珈琲好きで有名で、亡くなる直前に口にしたのも珈琲で、そこに毒が入っていたのではないかという疑惑もありますが、真相はわかっていません。高宗の死は3.1独立運動のきっかけになりました。

ソウルの大学路のカフェは、民主化を願う学生たちのたまり場だったと聞いています。

歴史に登場して、そしていまも歴史に加わっていく珈琲。そして、喫茶店やカフェ。

「相」という文字は対話(ダイアローグ)をすることではないかと私は解釈します。

私は、これからも、自分自身やだれかとダイアローグを重ねながら、珈琲を飲みたいです。できれば、もう少し、暮らしやすい世の中になるようにと願いながら。

日本と朝鮮半島のあいだで。


深沢さんの絵付けしたカップと珈琲。(写真は深沢さん提供)

 

【プロフィール】
深沢潮(ふかざわ・うしお)

小説家。父は1世、母は2世の在日コリアンの両親より東京で生まれる。上智大学文学部社会学科卒業。会社勤務、日本語講師を経て、2012年新潮社「女による女のためのR18文学賞」にて大賞を受賞。翌年、受賞作「金江のおばさん」を含む、在日コリアンの家族の喜怒哀楽が詰まった連作短編集「ハンサラン愛するひとびと」を刊行した。(文庫で「縁を結うひと」に改題。2019年に韓国にて翻訳本刊行)。以降、女性やマイノリティの生きづらさを描いた小説を描き続けている。新著に「李の花は散っても」(朝日新聞出版)。

 

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2023.6.1

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