「赦すか、赦さないかを決めるのは、被害者の権利」―【光州事件】あの時、それからの女性たちは
1979年10月、独裁体制を敷いた韓国・朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が暗殺され、16年に渡る支配が突如、終焉を迎えた。これで時代が変わるだろうと、民主化を求める市民たちは湧き立つ。ところが、ほどなくして全斗煥(チョン・ドゥファン)らがクーデターを起こし、軍部独裁体制は維持された。1980年5月、光州では、抗議の声をあげる市民たちが、軍による激しい弾圧を受けた。この「光州事件」(5.18民主化運動)は往々にして「男性たちの物語」として語られるが、女性たちの役割はただ「後方支援」や「補助」だったのだろうか。軍事政権と家父長制の狭間で光が当てられてこなかったものとは何か? 現地取材を通して探る。
梅雨明け間際の空は昼間でもやや薄暗く、吹き抜ける風はどこか雨の香りを宿していた。ビルの8階まで昇ると、カフェの併設された開放的な空間が広がっている。大きな窓からは、光州の中心地から彼方の山の稜線までがよく見渡せた。今となっては背丈を並べるホテルやオフィスビルが林立するものの、40年前まで道庁前広場周辺では、ここが最も高い建物だった。現在の呼称は「全日ビル245」――この「245」は、建物に残る弾痕の数だ。
1980年5月18日朝、全南大学封鎖に抗議する学生らのデモに対し、戒厳軍は暴力で鎮圧を試みた。デモは道庁前広場に続く大通り、錦南路(クムナムロ)など市内の中心で継続されるが、21日、軍は大規模な発砲で、市民らをねじ伏せにかかった。
誰がその発砲命令を下したのか――。当時の最高責任者であったはずの全斗煥は、最後までその責任を認めぬまま、2021年にこの世を去った。全斗煥らは軍のヘリコプターによる銃撃があったことも否定し続けてきたが、全日ビルの10階には、天井を水平にかすめる弾丸の軌道や、斜め上から窓を貫通したであろう弾痕が生々しく残されている。国立科学捜査研究院が調査を重ね、その弾痕はヘリに装着した機関銃によるものと推定している。この爪痕こそが、当時の凄惨な事件を伝える物言わぬ語り部だった。
屋上に登り、噴水を中央に据えた広場を見渡すと、旧道庁舎の真っ白な壁が目に留まる。元は植民地時代、日本の総督府の庁舎として建てられたものだった。その後、米軍政に入れ替わり、外壁は真っ白なペンキで覆われた。周辺の住民たちの間では、ここは「白い道庁」だと認識されていた。戒厳軍の銃撃でペンキがはがれ、初めて元が赤レンガの建物だったのだと気づいた人々も少なくなかったという。
1980年5月21日、あまりに熾烈な軍の暴力を前に、市民らは自衛のために武器を手にするほかない状況へと追いやられていった。その渦中に、ウィ·ソンサムさんもいた。
「民主化運動になぜ自分が身を投じたのか――。いざそれを言葉にしろと言われると、難しいんです。他の多くの学生たちのように、自分も怒りに燃え上がった若者のひとりでした。クーデターを起こした全斗煥は“新軍部”と名乗っていましたが、私に言わせれば、あれば民主主義に反する“反乱軍”です」
ソンサムさんは当時を振り返りこう話す。
27日の早朝、ソンサムさんは市民らと共に戒厳軍の襲撃に備え、道庁舎内で息を潜めていた。薄暗い部屋の中、仲間たちは机の下に隠れている。その姿が、戒厳軍が占拠時に置いていった無線機のランプの明滅に合わせ、途切れ途切れに浮かび上がる。
ついに戒厳軍が裏門の壁を越え、庁舎になだれ込んだ。裏門側で警備にあたっていた市民のほとんどがその場で殺害された。拘束されたソンサムさんの胸に強烈に湧き上がってきたのは、「生き残ってしまった」という後ろめたさだったという。
錦南路に面した広場の一角には、背の高い時計塔が佇む。この「5.18民主化運動」を世界に伝え、映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』のモデルともなったドイツ人ジャーナリスト、ユルゲン・ヒンツペーターさんはかつて、「時計塔は知っている」という記事を書き、惨状を伝えた。全てを目撃したであろう時計塔の「シンボル化」は、政権にとっては不都合なことだった。80年代中頃、この時計塔は突然移設されてしまう。今は同じ場所に設置されたレプリカが市民の往来を見つめ、5時18分には、「あなたのための行進曲」という、民主化運動のシンボルとなっている曲を響かせる。
こうした市民たちの苦難は、「光州事件」と認識されている10日間だけに留まらない。
Contents 目次
私たちはいつも、隠れて見えない存在
ゆったりとした中庭を見下ろす施設の2階、カラフルなキャンパスが壁一面に飾られている。ここ、「5月母の家」は、民主化運動で家族を亡くしたり、自身も被害を受けた女性たちの憩いの場となっている。壁に並ぶ絵はすべて、ここに集う女性たち自ら描いたもので、それぞれの歩みや、言葉にならない心情が投影されている。館長であるキム・ヒュンミさんが、黄色い背景に真っ赤なハイヒールの描かれた絵を指差す。
「これは5.18民主化運動で、最初に犠牲になったキム・ギョンチョルさんの母が描いたものです。彼は靴を作る技術を学んでいて、お母さんにも作ってあげる、と約束していたそうなんです」
ギョンチョルさんは聴覚障害者で、当時昼食からの帰り道に混乱に巻き込まれ、軍人に殴打されて亡くなった。
階段の踊り場に掲げられた額入りの絵画には、森の中で散歩を楽しむ、可愛らしい男女が描かれている。タイトルは、「もう一度、手をつないで」。亡くなった夫との失われた時間が、ありありとそこに描きだされていた。
この「5月母の家」に10年ほど通っている、パク・スングムさんにお話を伺った。彼女は1980年当時、光州郊外に暮らしていたという。市内の高校に通う息子が負傷したと知らせが届き、何とか戒厳軍の封鎖をかいくぐり、キリスト病院までたどり着く。
「息子も高校生ながら、銃を持って戒厳軍に抵抗したようです。軍の攻撃で破片を大量に浴び、体中が穴だらけでした。見つけてくれた人は最初、顔が血だらけで判別ができず、身に着けていた名札でようやく彼だと気が付いたそうです」
息子の入院中も退院後も、警官が度々出向いてきては、「デモに参加したか」としつこく尋ねた。「知らない、たまたま通りかかっただけだ」と言い張り、なんとかそうした尋問をしのいだという。
緊迫した街で、息子に一人暮らしを続けさせるのは忍びなかった。「どうせ死ぬなら、みなで一緒に死のう」――。そんな覚悟でスングムさんは、1980年10月、家族全員で街に越した。釜ひとつだけを持ちやってきた一家の生活は常に苦しく、小さな部屋に、幼子含め7人で身を寄せ合っていた。自身は市場に行って野菜を売り、息子は高校に通いながら、傷痕のうずく体を引きずり、タクシー運転手として働いた。米も麦もない日には、小麦粉をゆるく溶いて飢えを紛らわせた。借金もふくれる中、いつしか夫は酒浸りになり、87年に亡くなる。そして息子も後遺症が悪化し、95年にこの世を去った。
「私たちは、生き証人です。けれども負傷者の家族はいつも“二の次”でした。隠れて見えない存在として生きる中で、どれだけ苦しい思いをしたか――」
スングムさんの絵には、鮮やかな草花と共に、青々とした大きな白菜が描かれている。
「一人暮らしだった息子の家には冷蔵庫がなく、キムチがすぐに酸っぱくなってしまったんです。本当はこの白菜で、新鮮なキムチを食べさせたかった」
全斗煥にとっての“忌まわしい場所”
スングムさんの息子たちはまさに、光州に渦巻く暴力のうねりの中心部にいた人々だ。ただ、犠牲になったのは、自らの意思で運動に参加した人たちだけではない。
道庁前広場から車を走らせること30分。小高い丘に、膝丈ほどの墓石と土饅頭が隙間なく並んでいる。
「隣に写真が掲げられている墓石がすべて、民主化運動の最中に、あるいはそれに関連して亡くなった人々のお墓です」
光州市民墓地の中にある望月洞墓地の傍らで、「5.18民主化記録館」でガイドを務める、キム・ヒャンスンさんが静かに語り出す。
一角には、あのドイツ人ジャーナリスト、ユルゲン・ヒンツペーターさんの碑石もあり、「光州に埋葬してほしい」という本人の意向を受け、爪などの体の一部がここに眠る。
墓石に添えられた写真はどれも、今を生きる私たちを真っすぐに見据えている。なかには、明らかに子どもと分かる顔もある。
「この男の子はチョン・ジェスくん。小学校4年生だったそうです。光州の郊外の村に住んでいました。報道は厳しく統制され、農村にいる人たちは、街で一体何が起きているのかを正確には知りませんでした。村に軍人と戦車が入ってきた日、どうやらジェスくんはそれを、“恐い”ではなく、“かっこいい”と思い、行進する姿のマネをしていたそうです」
小さな少年がその軍人の銃の犠牲になったのは、翌日のことだった。
「それは明らかに“誤射”ではありませんでした。体から6発もの銃弾が見つかったのですから」
今では国立墓地に多くの遺体が移されているが、空の墓地になっても来訪者が絶えないのは、ここが民主主義の継承の地だからとヒャンスンさんは語る。
「当時ここは、全斗煥にとって忌まわしい場所でした。ここに眠る遺体が何よりの、軍の暴力の証拠だからです」
だからこそ遺族に大金をちらつかせ、脅し、懐柔し、遺体を別の場所に移せと強いた。それに応じてしまった遺族を責めることはできない、とヒャンスンさんは言う。
「遺族の中には公務員もいました。応じなければ彼らの身もまた、安全ではなかったでしょう」
丘の片隅に設置されたガラスケースの中には、行方不明者たちのモノクロの写真が掲げられている。やはりそこでも、子どもの姿が目に留まる。この民主化運動の犠牲者と認定されているのは165人だが、どこに連れられ、どこに埋められたのかも分からない多数の市民がいることは見過ごせない。
「大量殺戮の日さえ、戒厳軍は自分たちの行動を“正当防衛”と主張していました。けれども子どもの犠牲まで“正当防衛”と言うのは無理があるでしょう。だから、その遺体を隠したのではないかと私は考えています」
「あの人は生きているのかねえ」
実は当時、ヒャンスンさんの母、兄、姉は、民主化運動と軍の暴力の真っただ中にいた。
姉と兄は市内で寮生活を送る中学生だった。母は街で起きていることなど何も知らず、食料を持って2人の元を訪れた。ヒャンスンさんが留守番をしていた郊外の実家にも、兄姉の家にも、電話はない。なぜか戻らない母の帰りを、10歳のヒャンスンさんは待ち続けていた。
その頃、兄姉の家で身を潜めていた母は、銃声が響く中、子どもたちと生き延びることだけを考えていた。ところが5月21日、兄は好奇心からこっそりと部屋を抜け出し、友人と連れ立って出かけてしまう。あちこちから煙があがる変わり果てた街の中で、混乱し、叫ぶ市民たちの間をかいくぐり、兄は錦南路まで向かった。そしてそこで、軍による市民への集団発砲を目の当たりにしてしまう。あまりの恐怖に、彼はほぼ素足のまま、一目散に家まで逃げ帰ってきたという。
「6年後、兄が兵役についたとき、新人教育で光州の映像を見たそうです。市民たちは“暴徒”として扱われ、兄は『事実と違う』と思わず口にしてしまいました。すると上官から殴打され、暴行を受け、その後の軍隊生活は辛いものになったそうです」
一方ヒャンスンさんの母は、市民たちが米の寄付を募れば、何も言わず呼びかけに応じ、何度も食料を提供した。
「母は、民主化が何を意味するのかを知りませんでした。生きていくのに精いっぱいでしたから。でも、何が正しくて、何が間違っているのかは分かっていました。最初は『なぜ国のやることに抵抗するのか』と、デモに加わる人たちを心配していたようです。けれども隣の病院に次々と怪我人が運び込まれてくる様子を見て、気が付いたそうです。国が市民に銃を向けるなんて、間違っている、と」
これらの話は全て、兄から伝え聞いたことなのだという。より生々しく覚えているはずの母は、自分が目の当たりにしたことを、自らの口で語ろうとはしなかった。
6年ほど前、ヒャンスンさんが兄とたまたま民主化運動の話をしていたとき、傍らにいた母がふと、つぶやいた。
「あの人は、生きているのかねえ」
母が言う「あの人」とは、道庁を戒厳軍が鎮圧する直前、最後の街頭放送をした女学生、パク・ヨンスンさんのことだった。
明け方のその放送を聞いたほとんどの市民は眠れなかったという。銃声と戦車の軋む音が轟く中、次の瞬間に何が起きるのか、市民たちは皆、知っていた。
《市民の皆さん、戒厳軍が攻めてきます。私たちは最後の一人まで戦います》
実際のパク・ヨンスンさんの放送はこの後、《私たちを、忘れないで下さい》と続くはずだが、ヒャンスンさんの母はこう記憶していた。
《私たちを、助けて下さい》
少なくとも母には当時、そう聞こえたのだろう。
「母さん、あの人は生きていますよ。あの後、捕まって拷問を受けて有罪にされたけれど、2015年に、彼女は無罪になったんですよ」と、ヒャンスンさんは知っている限りのことを母に聞かせた。その年、母は息を引き取った。
「私の母のように、抱えた痛みを表に出すことができない市民の方がずっと多かったでしょう。怪我をしたり連行された経験がなかったとしても、当事者でない、ということではないし、語る資格がない、ということもないんです」
女性たちは主体的な存在だった
ヒャンスンさんの母や、最後に放送のマイクを握ったパク・ヨンスンさんがそうだったように、自らの役割を持ち寄った多くの女性たちが、民主化運動の中に確かに存在している。
「物理的な衝突の場に出ていたのはほとんど男性だったため、そこで記録されているのは男性中心の闘争ですが、同時期、同空間で、女性たちは単なる副次的、後方的な立ち位置ではなく、非常に重要な役割を果たしていました」と、ヒャンスンさんは強調する。
「民主化運動の指導者やリーダーたちが手配されたり隠れたりしている中で、真っ先に抵抗したのは女性たちでした。報道が統制されていた当時は、何が起きているのかすぐには分からず、情報が重要でした。彼女たちは緑豆書店とYWCA(キリスト教精神に基づいた平和運動体)を拠点として、いつ何があったかを記録し、それを基に、市民たちがどんな行動を起こすべきか、作戦を練ったのです」
包囲され、怒りが渦巻く街の中で、日常が壊れ、銃を持った市民たちが理性を失えば、全斗煥の狙い通り、「暴動」が起きかねない――そんな一触即発の状況だった。
「そこで女性たちはマイクを握り、街頭放送をおこなったのです。血が足りません、献血をしましょう、もう一度広場に集まりましょう、対策を立て、交渉をしましょう、と」
市民たちが集った広場では、誰でもオープンマイクで語ることができた。そこでマイクを握った多くが女性だったという。
「彼女たちは正確に情報を把握していたし、どのように物事を進めなければならないかを分かった上で参加した、主体的な存在でした」
こうした女性たちの役割に光が当たってこなかったのは、市民の権利が獲得される歴史の中で、女性たちはその「市民」の中に含まれていなかったからだとヒャンスンさんは指摘する。
「女性たちが同じ立場、同じ権利で扱われていなかったからこそ、光州民主化運動の中で、女性たちはその役割の分だけの評価をされてこなかったのだと考えます」
封じられてきた性被害
市民たちが苛烈な暴力にさらされていた当時、多くの負傷者がなだれ込むように運び込まれてきたキリスト病院では、看護部門の責任者、アンソンレさんが、修羅場の院内を駆けまわっていた。
「後から後から、顔が判別がつかないほどぐちゃぐちゃになった遺体も運ばれてくる。けが人たちを早く手術室に運んで、こと切れてしまった人を霊安室に移し、また同じ場所に負傷者を寝かせて、その繰り返しでした」
そんな惨状を聞きつけた市民たちが、街頭放送などに応じ、次々と献血のために病院に駆けつけてきた。
「ところが、輸血をするために病院に向かっていた少女が機関銃で撃たれて死に、道を歩いていただけの新婚の夫婦がぐちゃぐちゃに殴打される――。そういう暴力が行われたにもかかわらず、全斗煥は“暴動を鎮圧するための戒厳令”だったと言い張っている。こんな残酷なことがありますか」
アンソンレさんは、YWCAのリーダー的存在でもあり、朴正煕時代から独裁政権に反対する女性たちの社会的抵抗運動をリードしてきた。夫も娘もみな、民主化のための活動に身を投じた。
「ある時、病院に軍人がやってきて、患者たちを引き渡せと要求してきました。銃を突きつけて脅してくる彼らに、人間の尊厳を守る看護師として、絶対に譲れないという思いひとつで立ち向かいました。『あなたたちはこの人たちを暴徒だと言いますが、私の目には命が危篤な重体患者にしか見えません。絶対に渡すわけにはいきません』と。緊迫した事態の中で、その瞬間、瞬間を、正義で押し通して乗り越えなければなりませんでした」
5月27日の鎮圧後の街は、もはや公安の天下だった。捕まらないためには、沈黙するほかない。大学教授だったアンソンレさんの夫は連行されたまま戻らず、家族たちは監視下に置かれた。四六時中、刑事たちに生活を見張られる生活が続く。
それでも彼女たちは、屈服を選ばなかった。「死の都市」と化した街の中で、白いチマチョゴリをまとい、「夫を返せ、息子を返せ」と叫びながら練り歩く。その度に女性たちは拘束され、「ニワトリ輸送車のような車に詰め込まれて護送された」と、アンソンレさんは振り返る。解放されればまた路上へと舞い戻り、行き交う人々の姿の消えた錦南路で、死を覚悟しながらも、抵抗の声をあげ続けた。
運動を牽引する中でときおり、アンソンレさんにこっそりと、胸の内を打ち明ける女性たちがいたという。自身が受けた、性暴力被害の苦しみだった。
「ある女性は、軍人から受けた暴力を誰にも言えず、頭痛と吐き気に悩まされ、苦痛を抱えながら生涯を終えていきました」
近年ようやく、戒厳軍・捜査官から女性たちが受けた性被害が明るみになり、2018年11月、韓国政府が謝罪するに至った。被害者の中には、10代の少女や妊婦も含まれていた。
「自分が受けた被害を“恥”だと思ってきた女性たちが、時代を経て、気づきを得る中で、ようやくこれが自分の過ちではないのだと声をあげはじめたのです」
ただ、確認された被害はごく一部にすぎない。声を封じる偏見や差別は、彼女たちの「身内」にも潜む。「5月母の家」館長のキム・ヒュンミさんも語る。
「拘束されたことがある女性たちが、解放後、結婚相手に、『軍に捕まったなら“まともな身”なわけないだろう』、と虐げられることもあったようです」
被害者は謝罪を“受け入れなければならない”のか
5.18民主化運動に詳しい、全南大学のキム・ヒソン教授は、「性暴力は最も究明がなされていない問題のひとつ」だと語る。
「女性の役割に光が当てられない家父長制的な社会の中で、この問題が国家の構造的暴力としてではなく、“個人の領域の問題”のように扱われ、その時代に受けた痛みとして話せない抑圧があります。被害者たちが“このことは葬ってしまおう”と自己否定せざるをえない状況がありました」
暴力が蔓延る中、これまでも世界各地で性暴力は、「支配の道具」として用いられてきた。けれども性加害や市民の殺戮の罪を問われ、法廷に立った現場の兵士はいない。そして暴力の“最高責任者”だったはずの人間は、最期までその責任から逃げ延びることに腐心し続けた。
「これは単に、韓国の国家暴力の話に留まりません。全斗煥は日帝の軍国主義の中で育てられました。彼のような勢力が、政治的、経済的利益を得ている限り、彼に対しての正当な断罪は難しいでしょう」
こうした「終わり」を迎えていない事件に、今求められていることは何だろうか。
「日本の植民地支配の加害についても、“いつまで反省すればいいのか”という声があるように、誰が、何を、どこまで、いつまで、というのは常に論争になる問題だと思います。ただ、形式的な謝罪は、より深く被害者を傷つけることになるでしょう。加害者が単に自分の行為について告白するだけではなく、被害者が受けた苦痛について、加害者自らの口で語り、絶えず反省する必要があります。過去に起きたことだけではなく、今に続く苦しみについても、です」
「韓国社会の中でも、“加害者が赦しを乞えば被害者は受け入れなければならない”という雰囲気もあります。ですが私は、間違っていると思います。受け入れるか受け入れないか、赦すか、赦さないかを決めるのは、被害者側の権利のはずです」
その赦しと和解のために必要なのは、真実に基づくことだ、とヒソン教授は強調する。光州での真相究明と和解は、常に歴史歪曲の狭間で揺れ動いてきた。「アカの仕業」「北朝鮮が介入した暴動」という当時の不当な“レッテル”は、今も根深く社会に巣くう。その構造の中で、見過ごされてきた軌跡や、「なかったこと」にされてきた痛みに、社会が向き合い、継承するのは、これからだ。
(2023.8.16 / 写真・文 安田菜津紀)
Radio Dialogue_121
【海外取材報告】韓国~軍事境界線・光州事件~
(安田菜津紀・佐藤慧 2023年8月2日配信)
先月末7月27日は、朝鮮戦争「休戦協定締結」から70年という日でした。あくまでも「休戦」であり、緊張状態は続いています。今回の放送では、先週渡航した韓国取材から、徴用工裁判の現状についてや、韓国在住ジャーナリスト徐台教さんにご案内頂いた軍事境界線近辺の様子、そして1980年5月18日から27日にかけて光州市(現在は光州広域市)で起きた「光州事件」など、現地で収録してきた音声を交えて報告しました。ぜひ記事と合わせてお聴きください。
あわせて読みたい
■ 被爆2世、女性として直面した複合差別 ――「韓国のヒロシマ」陜川から[2023.2.26/安田菜津紀]
■ 学校支えるキムチ販売、輪の広がりの先に目指すものは[2023.1.14/安田菜津紀]
■ かつて、「隠れコリアン」だった。今なぜ、「ともに」のメッセージを川崎・桜本から発し続けるのか[2022.1.31/安田菜津紀]
■ 長生炭鉱水没事故――その遺骨は今も海の底に眠っている[2021.9.2/写真 安田菜津紀、 写真・文 佐藤慧]
D4Pの活動は皆様からのご寄付に支えられています
認定NPO法人Dialogue for Peopleの取材・発信活動は、みなさまからのご寄付に支えられています。ご支援・ご協力、どうぞよろしくお願いいたします。
Dialogue for Peopleは「認定NPO法人」です。ご寄付は税控除の対象となります。例えば個人の方なら確定申告で、最大で寄付額の約50%が戻ってきます。
認定NPO法人Dialogue for Peopleのメールマガジンに登録しませんか?
新着コンテンツやイベント情報、メルマガ限定の取材ルポなどをお届けしています。