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ホロコーストとガザ侵攻の狭間で―ドイツとイスラエル(板橋拓己さんインタビュー)

ホロコーストという加害の歴史を背負うドイツは、イスラエル支持を強く打ち出してきました。ドイツ国内では、停戦を求めるデモ参加者が「反ユダヤ主義」と見なされ、逮捕・連行されることが相次いでいます。なぜドイツはイスラエルを擁護し続けるのでしょうか。国際政治史、ドイツ政治外交史が専門の東京大学法学部教授、板橋拓己さんと「ドイツとイスラエル」について考えました。

板橋拓己さん(本人提供)

「過去の克服」の出発点

――ドイツはナチ・ドイツ政権下でのホロコーストの加害者としての歴史を背負い、イスラエルは「ホロコースト犠牲者の国」であるということを打ち出してきました。両国は戦後、どのように関係を構築していったのでしょうか。

ドイツ側から見れば、贖罪意識と国際社会への信用回復が重要であり、イスラエル側から見れば、自国の存続、つまり生まれたての国家をどのように守っていくかという中で、ドイツの支援が必要になったという関係から出発したと言えます。

――そもそもドイツは東西に分断された歴史があり、西ドイツがイスラエルとの国交を樹立したのが1965年です。

イスラエルの建国が1948年で、その1年後、1949年にドイツ連邦共和国、西ドイツができるわけですが、初代首相のコンラート・アデナウアーは首相就任(1949年9月)の2ヵ月後にイスラエル国家との接近を試みて、ドイツは補償する用意があると述べ、そこからイスラエルと西ドイツの補償交渉が始まっていきます。新しく生まれた西ドイツが国際社会において信用と信頼を取り戻すことができるかが、そこにかかっていると理解していたわけです。

そうした中で結ばれたのが「ルクセンブルク補償協定」という、1952年に結ばれた西ドイツとイスラエルの間の補償協定です。細かく言えば、西ドイツとイスラエルの他に、アメリカなどに亡命したユダヤ人団体への補償も含まれていますが、この協定で金銭的な補償が取り決められました。

イスラエルへの補償額は全体で当時の30億マルクです。当時の西ドイツの年間国家予算が約270億マルクなので、相当な額です。この30億マルクを14年にわたって支払うということが合意されました。ただこれは、物資で支払われるので、西ドイツ産業の製品をイスラエルに輸出し、西ドイツの経済復興につなげる狙いも込められていました。

西ドイツとユダヤ人団体との間でもこの時、議定書が結ばれたのですが、そこでは西ドイツ政府が国内でナチ迫害犠牲者への補償法を制定することを求めていました。つまり、ナチスの迫害を受けた者に対して、被害を補償する法律を、国内法として整備せよということが規定されていたわけです。そういった意味で、この「ルクセンブルク補償協定」はドイツの「過去の克服1」の出発点にあったわけです。

「ルクセンブルク補償協定」に基づいてイスラエルはドイツからいろいろな原料や、鉄鉱、機械、船舶等々を買いつけていくわけですが、これは当時のイスラエルの総輸入の2割から3割にあたりました。こうした物資によってイスラエル国内のインフラが整備されていきました。

軍需品の購入は禁止されていたのですが、輸入した鉄鉱や機械を加工して軍事目的に利用することは可能だったわけです。そういった意味で西ドイツの「ルクセンブルク補償協定」による補償は、イスラエルの軍事的な立国といったものにも大きく貢献したと言えるわけです。

また、1957年から西ドイツとイスラエルは、軍事的な協力も極秘に開始しています。経済的そして軍事的な強い結びつきが両国の間で、既に50年代のアデナウアー時代に築かれたと言えます。

ドイツの国旗とイスラエルの国旗を重ね合わせた絵が描かれている「ベルリンの壁」(2017年9月、安田菜津紀撮影)

ホロコーストの集合的記憶と、反ユダヤ主義の否定

――東ドイツは違った歩みを経てきているのでしょうか。

実はイスラエルは、当時ドイツを占領していた連合国側を通して東西ドイツに対して補償を要求したのですが、東ドイツはそれに返答しませんでした。

東ドイツ、ドイツ民主共和国は社会主義国家で、社会主義国家を打ち立てたということはナチスの過去を克服したという自己認識2なんですね。

――その後東西ドイツが統一されていく中で、基本的に西ドイツのスタンスを引き継いでいったのでしょうか。

1990年に東西ドイツは統一されましたが、国名もドイツ連邦共和国が継続されて、西ドイツの法体系、経済体系が東側に移植されました。言ってみれば西ドイツによる東ドイツの吸収合併という形での統一ですので、基本的には法的にも外交関係的にも西ドイツのものが引き継がれていきますし、さらに、過去の反省の仕方に関しても、西ドイツ型が東ドイツ側に輸入されていきます。

実は西ドイツ社会では当初、自分たちも戦後復興で必死なのに、そんな高額な補償をイスラエルにする必要があるのかと、反対の声が強かったんです。当時はナチスに対する反省というのは社会にはほとんど存在しない状態ですし、反ユダヤ主義が残っていた影響もあるのでしょうけれども、親イスラエル的な態度というのは弱かった。これが徐々に変わっていくというのが戦後の歩みだと思います。

――変わっていく契機は何だったのでしょうか。

いくつか段階はあるのですが、社会における保守派が親イスラエル寄りになっていくのは、大体1967年の第3次中東戦争3あたりだと言われています。

もうひとつ、非常に重要なのは、「反イスラエル」が「反ユダヤ主義」と同一視されていくというプロセスです。正確には私もよく分かっていないのですが、80年代あたりからの動きだとは思っています。この頃、西ドイツの人々はホロコーストの実態をようやく知るようになりました。

「ホロコースト」という言葉が流通する契機となったのは、アメリカのテレビ映画『ホロコースト』が1979年にドイツで放映されたことでした。

そうした中から、1980年代半ば頃には西ドイツで、ホロコーストが他の虐殺などとは異なる、人類史上唯一無二の犯罪であるという考え方が出てきます。これはたとえば、「スターリンはもっとひどい虐殺をやったではないか」といった言説への反応として出てきたもので、ホロコーストは決して相対化してはならないものなのだという規範となっていきます。

これが90年代には強固に根付いていくのですが、その裏返しとして、反ユダヤ主義は他の人種主義よりもよろしくない、人類最悪の人種主義であるという考え方が出てきます。論理の飛躍があるのですが、そこから「反イスラエル」は「反ユダヤ主義」だという考え方が、ドイツで根強くなってきます。

イスラエルからアウシュビッツ・ビルケナウ博物館を訪れた学生たち(2017年9月、安田菜津紀撮影)

歴史への眼差しの格差

――たとえばホロコースト犠牲者の中でもロマ4の人たちに対する補償が後回しにされてきたり、対応の格差がありました。

こういったドイツの対応の差は、負の過去に対してどのようにしてそれを記憶し思い出していくかという「想起の文化」の特徴を表しているんだと思います。

たとえばシンティ・ロマであったり、あるいは同性愛者や障害者の方たちもナチ・ドイツの被害者であった5わけですが、そうした被害者に対しての補償は十分ではなかったというのは、指摘されている通りだと思います。

また、ナチ時代以前のドイツ帝国の植民地主義の「過去の克服」についても非常に鈍かったわけです。ご存知の通りドイツだけではなくて、ヨーロッパ諸国全体が植民地責任をとっていないので、これに関してはドイツのみの問題というわけではありません。ただ、ユダヤ人に対しては非常に手厚く補償する一方で、植民地支配に対しては目を背けてきたのではないかということが言われるわけです。

たとえばナミビアは、元々ドイツ帝国時代、ドイツ領南西アフリカという植民地で、1904年から1908年にかけてドイツ帝国がヘレロとナマという民族を虐殺しました。人口8万人のヘレロの8割、2万人のナマの5割が命を落としたといわれています。これは20世紀最初のジェノサイドという位置付けをする歴史家の方が多いです。ドイツ政府がこのジェノサイドを公式に認めて謝罪したのは2015年で、2021年に11億ユーロ、約1500億円を拠出すると表明します。ただこれは、法的な賠償ではなく「支援金」だというのがドイツ政府の立場です。

要は植民地主義の犠牲者への賠償といったものを認めてしまうと、「パンドラの箱」を開けてしまうのではないかという懸念がドイツ政府にもヨーロッパ諸国全体もあるわけです。

南アフリカがイスラエルの軍事行動をジェノサイド条約が定めるジェノサイドにあたるとして国際司法裁判所(ICJ)に訴えた際、ドイツはイスラエルの支持に回りましたが、これを真っ先に批判したのが、ナミビアの大統領府でした。

なぜイスラエルを支持するのか

――ドイツ政府は昨年、例年の10倍規模の軍事支援をイスラエルに対して行なっています。

ショルツ首相の言葉で、何回も繰り返されているのが「イスラエルとその国民の安全はドイツの国是だ」というフレーズです。そして「ドイツの歴史とホロコーストから生じた我々の責任によって、イスラエルの国家の存立と安全のために尽くすことが我々の使命だ」と述べるわけです。このロジックだと、逆に言えばイスラエルを支持しない者は過去に学んでいない者であって、反ユダヤ主義者だということになります。

――実際にドイツ国内で、「反ユダヤ主義」は広がっているのでしょうか?

ハマスが大規模攻撃を仕掛けた10月7日から1ヵ月間、ドイツ国内で反ユダヤ主義的事件は1000件近くにも上りました。昨年と比べて4倍増えていて、ユダヤ人の方の家やシナゴーグに、ナチの鉤十字が書かれたりもしています。反ユダヤ主義的な暴力を見過ごし、それが暴発したらどうなるか、一番よく知っているのはドイツであって、ドイツの政治家がこれを強く非難するというのはとてもよく分かる話ではあるわけです。

ただその一方で、今回の事件がムスリムへの差別を助長していることも確かで、反イスラム、反ムスリムである極右の人々の格好の口実となっています。最近ドイツで耳にする嫌な言葉として、「輸入された反ユダヤ主義」という言葉があります。2015年の難民危機6以降、移民難民が反ユダヤ主義を持ち込んでいるんだと、極右の人たちは言うわけです。だからこそ彼らを排除しよう、と。

もちろんこうした言説には注意が必要で、ドイツ社会にも反ユダヤ主義というのは元々伏流のようにあって、それは消えてないわけです。たとえば2019年、ドイツのハレというところで、ユダヤ教のシナゴーグが襲撃されて死者まで出たのですが、その事件を起こしたのは極右思想に傾倒した白人主義者です。だいたい反ユダヤ主義的な事件は極右によるものだったりするわけですが、それを移民に転嫁するというようなことが起きています。

問い直されるドイツ社会

――こうしたイスラエル寄りの政府の姿勢は、ドイツ国内ではどのように受け止められているのでしょうか。

私自身最近ドイツに行けていないので、生の声というのは聞けていないのですが、世論調査から見る限り、やはり徐々にイスラエルを批判する声も高まっているんですね。

1月半ばの世論調査ですと、ドイツ人の61%が現在ガザで行われているイスラエルの軍事行動は正当化できないと答えています。正当化できると考える人も4分の1はいるわけですけれど、やはり政府の親イスラエル姿勢との乖離はかなり明らかになってきていると言えます。

――停戦を求める平和的なデモに参加している人たちまでが「反ユダヤ主義」と見なされていることなどについて、行き過ぎではないかといった議論はドイツの中で起こっているのでしょうか。

たとえばイスラエルを批判した研究者が講演をキャンセルされたり、芸術家の作品がキャンセルされたりしているわけです。

背景として、2019年にドイツの連邦議会が採択した反BDS決議というものがあります。これは、「ボイコット、投資引き上げ、制裁運動」(BDS)と呼ばれる、イスラエルに対してボイコットしていこうという運動に賛同した人でさえ、反ユダヤ主義とするものです。こういった決議を、国会が主要党派の賛成のもとで採択しています。これが、平和的なデモにさえ反ユダヤ主義的とレッテルを貼っていくきっかけにもなっています。

ドイツでは、言論の自由にある種の制限をかけなければならないという考え方は根強くあります。言論の自由を何でもかんでも許して、ユダヤ人差別などを許容しては、民主主義というものは成り立たない、と。問題はこれをどう解釈するかですね。つまり、反ユダヤ主義を取り締まっているつもりの人たちは、基本的にドイツの自由で民主的な社会を作るためだと思ってやっている可能性が高いんです。もちろん反イスラムの人たちもいるわけですが、そういった意味で、とても難しい問題だと思います。

ベルリン市内で行われたパレスチナに連帯するデモを囲む警官たち(2024年3月、安田菜津紀撮影)

過去を真剣に考えてきたからこその今

――ドイツのイスラエル支持は、パレスチナや中東和平にどんな影響をもたらしてしまっていると言えるでしょうか。

イスラエルはドイツのお金と武器で戦争や虐殺をしている面があるわけですから、中東和平に対して非常に悪い影響を及ぼしているのだと思います。

2022年からロシアによるウクライナ侵攻があり、この時は曲がりなりにも、ロシアの侵略という無法に対して西側は非難し、国際社会はある程度はまとまれていたわけです。ところが今、どう見ても非道なことをやっているイスラエルにアメリカがつき、ドイツもあまり強いことを言えない。国際社会の基盤というものが非常に揺らいでいると思います。

陳腐な言い方ですが、ドイツの姿勢は、西側の偽善とか、ダブルスタンダードを露骨に示す事例なんだと思います。

――イスラエルに対し、ドイツの姿勢は今後どうあるべきなのでしょうか。

イスラエルとドイツの「特別な関係」は、やはり続いていくのだと思いますし、ある面ではドイツがナチスの過去を反省している証でもあるので、容易になくなってはいかないですし、完全になくすべきでもないとも思っています。ただやはり、イスラエルがひどいことをしている時は、批判するということも必要だと思います。

ドイツはこれまで「過去の克服」の優等生と思われてきたわけですが、そこには色々な落とし穴があったというのが明らかになってきたと思います。植民地主義の問題しかり、今回のイスラエル、パレスチナの話しかりで、ドイツがこれまで歩んできた道を見つめ直すことになればと思っています。

さらに言えば日本は、ドイツの「過去の克服」のあり方を、一方では羨ましく思い、もう一方では押し付けがましく思うような目で見てきたわけです。現在のドイツを見て、それ見たことかと溜飲を下げるのではなく、ドイツは自らの過去を、たとえ歪んだ形ではあれ、真剣に考えてきたからこそ今があるのだというのを伝えていければと、ドイツ史研究者としては思います。

――過去を省みるということが、現在の形が決して唯一の正解とか完成形ではなく、本当にこのやり方でいいんだろうか、今後もっとより良い方法はないんだろうか、と思考を止めずに、絶えず自省をして軌道修正していくことが求められてきますね。

【プロフィール】
板橋拓己(いたばし・たくみ)

東京大学法学部教授。北海道大学大学院法学研究科博士後期課程修了。博士(法学)。専門は国際政治史、ドイツ政治外交史。著書に『アデナウアー』(中公新書、2014年)、『黒いヨーロッパ』(吉田書店、2016年)、『分断の克服1989-1990』(中公選書、2022年)など。

※本記事は2024年2月14日に配信したRadio Dialogue「ドイツとイスラエル」を元に編集したものです。

(2024.4.23 / 聞き手 安田菜津紀、 編集 伏見和子)

  1. ナチ・ドイツの暴力支配がもたらした膨大な被害に対する、戦後ドイツのあらゆる取り組みの総称を指す。ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の初代大統領、テオドール・ホイスによってこの言葉は広まり、具体的には、ナチ不法の被害者に対する補償、ナチ体制下の犯罪に対する司法的な訴追、ネオナチの規制、現代史重視の歴史教育など政策、制度面での実践と、これらを支える精神的、文化的活動が含まれる。 ↩︎
  2. 反ファシズムを標榜して建国された東ドイツでは、「ナチズムすなわち『ドイツ・ファシズム』は資本主義が産み出したもの」として認識されていたため、1945年の独ソ戦でのナチからの勝利、それに続く東ドイツ(社会主義国家)の誕生は、ナチの過去からの克服を意味していた。そのため、戦後、東ドイツでは政治的な理由以外で迫害されたユダヤ人やその他の犠牲者への補償はまったく行われないか、行われても不十分なものだった。 ↩︎
  3. 第二次世界大戦後の中東での、アラブ諸国とイスラエルの間でパレスチナを巡って展開された、4次にわたる「中東戦争」の中での3番目の戦争として、1967年6月5日から6日間に渡り勃発。この戦争で勝利を収めたイスラエルは周辺領域を拡大し、軍事占領したことで、大量のパレスチナ難民が生まれることになった。 ↩︎
  4. ロマ/シンティ・ロマとは、過去「ジプシー」という名で法的にも社会的にも差別を受け、ナチ時代にはユダヤ人と同様に絶滅政策の犠牲となった人々で、ドイツ国内に居住するシンティ族やロマ族の総称を指す。 ↩︎
  5. ナチ体制下では「人種優生思想」のもと、ユダヤ人の他にも、反体制者、同性愛者、障害者や少数民族などが迫害、虐殺された。戦後、ユダヤ人への補償は進むが、長年置き去りにされた被害者たちは「忘れられた犠牲者」として、1980年代以降ようやく公的関心が集まり、補償も進んできた。 ↩︎
  6. 2015年、中東やアフリカでの紛争や内戦から地中海などを経由し、欧州での庇護を求める難民・移民が100万人を超え、それに伴い生じた社会的・政治的危機のことを指す。 ↩︎

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