2003年3月20日、米国が「サダム政権が大量破壊兵器を保有している」ことを“大義”として、イラクに侵攻。あれから17年という月日が経ちました。ところがイラク中のどこを探しても、掲げていた“大義”だったはずのものは今に至るまで見つかっていません。
米軍の侵攻による破壊と、撤退後の混乱によって生じた「力の空白」は、平和をもたらすどころか新たな脅威の温床となりました。IS(過激派勢力「イスラム国」)もそんな混沌に乗じて勢力を伸ばした集団のひとつです。その残忍な“統治”の渦に、あまりに多くの人々が巻き込まれ、一時は300万人以上の人々が、荒野に並ぶテントでの避難生活を余儀なくされました。ロンドンに拠点を置くNGO「IRAQ BODY COUNT」によると、2003年の侵攻やその後の混乱の中、犠牲になった市民の数は20万人にものぼるとされています。
根拠のない侵攻のために、なぜ、ごく普通の日々を送っていたはずの人々が死ななければならなかったのか。イラクを訪れる度に突きつけられる思いです。なぜなら私が暮らす日本も、イラク戦争で真っ先に米国支持を打ち出し、そして自衛隊を派遣した国だからです。
ところがその後日本では、この戦争を支持したことの正否を検討した形跡が、残念ながらありません。当時責任のある立場にいた首相や外務大臣に聞き取りをすることなく、2012年に、たった17ページの“報告書”を外務省が制作したのみです。例えば自国の兵士を派遣したイギリスでは、数百ページ、200万語以上に及ぶ検証が、2016年に独立調査委員会により公表されています。ここまで膨大なページ数になったのは、検証なき過ちが再び繰り返されないためでしょう。
問題は検証への姿勢だけではありません。防衛省が「存在しない」としていた自衛隊イラク派遣の際の日報が後に見つかるなど、組織的な隠蔽の疑いや、杜撰な管理が指摘をされてきました。
日報には、自衛隊宿営地にロケット弾が撃ち込まれたり、自衛隊の車両を狙った爆発が起きていたりと、緊迫した状況が報告されています。「戦闘が拡大」という記述もあり、「派遣は非戦闘地帯に限る」という当時の政府の説明との矛盾も問われてきました。
日報の役割は、単なる活動記録や、緊迫した事態で自衛隊員の命を守るための手がかりになるだけではありません。例えば誤って市民を傷つけてしまったときの検証、あるいはそれを防ぐために欠かせないもののはずです。その管理がおろそかにされていたということは、現地で生きる人々の命を軽んじていたとことになってしまうのではないでしょうか。
日本とイラク戦争のつながりは、自衛隊派遣だけではありません。侵攻1年後の2004年には、沖縄から3千人の海兵隊員がイラクへと渡りました。イラク中部、ファルージャではこの年、「対テロ」の名のもと、凄惨な軍事作戦が展開され、犠牲になった市民は6千人ともいわれています。この作戦の最前線に立ったのは、沖縄から派兵された海兵隊でした。
こうした情勢の真っただ中で起きたのが、沖縄国際大での米軍ヘリ墜落事故です。2004年8月13日、宜野湾市の沖縄国際大学構内に、米軍普天間飛行場所属の大型輸送ヘリが墜落。周辺は住宅密集地で、大学の建物だけではなく、飛散したヘリの部品の一部が住宅の窓を突き破りました。普天間基地では当時、戦闘が激化するイラクへの派兵のため、整備兵の過労状態が続いていました。事故は、整備の過程でピンをつけ忘れた人為的ミスにより起きたことが分かっています。そしてこの事故後、さらに2千人の海兵隊員がイラクへと向かいました。
沖縄ではそれ以前から、凄惨な事故が繰り返されていました。
1959年6月30日、米軍ジェット戦闘機が、沖縄県石川市(現うるま市)の住宅地に墜落し、跳ね上がった機体が宮森小学校を直撃しました。死者18名(1名は後遺症により死亡)、重軽傷者210名となった大惨事でした。この事故を検証し、未来に語り継ぐためのNPO法人「石川・宮森630会」の事務局長、伊波洋正さんは、当時この宮森小学校に通う小学1年生でした。「事故後、帰宅するようにと言われ正門を出たら、手押し車に裸の男の子を載せ女性が歩いていました。男の子はぴくりとも動かず、全身の皮膚が火や熱風により変色していました」。
米軍は当初この事故を、「エンジントラブル」が原因であり不可抗力だったと説明しています。けれども事故から40年後、整備不良が原因の人為的ミスであることが米軍資料により判明したのです。伊波さんは語ります。「沖縄で起きている問題は、沖縄だけの問題ではない。今の社会は都合の悪いものはみな辺境に押しやってしまう」。
伊波さんの言葉は、“不都合の押しつけ”への警鐘でした。日本政府の開戦支持や、海兵隊の派遣、沖縄国際大での米軍ヘリ墜落事故。日本と密接につながっているはずのイラク戦争が、なぜ十分な検証すらもなされてこなかったのでしょうか。罪もない人々の犠牲が累々と積み重なってきたにも関わらず、です。もっといえばベトナム戦争や湾岸戦争、アフガニスタンへの侵攻と、在日米軍基地は米国の戦争に利用され続けてきているのです。それでも「戦後75年、日本は平和だった」という言葉がまかり通ってしまうのは、沖縄にその負担を押し付けてきたからにほかなりません。
今日に至るまで、ヘリの墜落や部品の落下は繰り返されています。ところが2018年1月、「それで何人死んだんだ」という心ない言葉が国会で投げられました。もしも私がその場にいたら、こんな言葉を返したかった、と思っています。「例え人の命が奪われなくても、生活の尊厳は傷つけられているのです。そして、杜撰な管理の裏側では、イラクへ出撃した米軍によって、本来争いとは全く関係がないはずの市民の命が奪われ続けたのを、ご存知でしょうか?」と。
無関心の「犠牲」になってきたのは誰なのか。私たちは過去を正面から検証することで、少なくとも、未来の犠牲を減らしていくことができるはずです。
(2020.3.20/写真・文 安田菜津紀)
※記事の一部の年代表記に誤りがあったため修正しました(2021.3.21)
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