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【取材レポート】大熊未来塾 ~もうひとつの福島再生を考える~

date2020.6.12

writer佐藤慧

category取材レポート

福島県大熊町。福島第一原子力発電所の1号機から4号機までが、この町の沿岸に立地している。2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生。震央の南西約180㎞に位置する大熊町は震度6の揺れに襲われ、大津波警報が響き渡った。当初3~6メートルと予想されていた津波は、最大で波高約13メートル、遡上高約15メートルに達していたと推察されている。

翌12日には原発1号機が水素爆発を起こし、14日には3号機、15日には4号機と相次いで爆発が起き、建屋の屋根が吹き飛んだ。事故の影響を受け、町全域が「警戒区域()」に指定されていたが、事故から8年後の2019年4月10日、「居住制限区域」となっていた大川原地区と、「避難指示解除準備区域」に指定されていた中屋敷地区の避難指示が解除された。しかし「帰還困難区域」に指定されている地域は、2020年3月にその一部が解除されたのみで、いまだに除染作業等が続いている。

大熊町区域図。2020年6月の情報を基に作成。

①避難指示解除済
②立入規制緩和・避難指示解除区域
③帰還困難区域
④中間貯蔵施設エリア
⑤福島第一原発敷地

「伝え続けなさい」という娘の声

2019年2月、仄かに雪の舞う大熊町を訪れた。除染廃棄物の詰まったフレコンバッグがあちこちに積まれ、人気のない家々は時が止まったかのように静寂に包まれていた。

「ここに追悼施設をつくりたいというのは私の我儘(わがまま)でしょうか」

木村紀夫さんは、娘の汐凪(ゆうな)さんの慰霊碑に花を供えながらそう呟いた。福島県大熊町、東京電力第一原発から僅か3キロの地点に木村さんは住んでいた。慰霊碑はそこから歩いて数分の荒れ果てた土地にある。慰霊碑といっても、コンクリート片を置いただけの簡素なものだ。

汐凪さんの慰霊碑に手を合わせる木村さん。

地震発生当時、小学1年生だった汐凪さんは、小学校での授業を終え、隣の児童館で遊んでいた。木村さんの父、王太朗(わたろう)さんが児童館へ駆け付けたが、いったん海の側の自宅に引き返すという王太朗さんの車に汐凪さんも乗り込み、そのまま行方不明となった。翌12日には原発事故により木村さんも避難を余儀なくされ、捜索を続けられなかった。その後王太朗さんと妻の深雪さんが遺体となって発見されたが、汐凪さんの遺体は見つからなかった。

それから数年、限られた一時帰宅の時間を使って汐凪さんを探し続けた。16年11月、中間貯蔵施設予定地の現地調査を行う環境省に依頼し、重機での捜索を開始した。それから1ヵ月もしないうちに、汐凪さんの骨が見つかった。泥だらけのマフラーから、小さな首の骨が出てきたのだ。その後、顎や歯など、小さな骨は見つかったが、大部分の遺骨はまだ見つかっていない。「あの時避難せずにすぐ汐凪を探していたら見つかったんじゃないか」、そんな後悔が木村さんには残る。

汐凪さんの遺品は帰還困難区域内のお寺に保管されている。

「この下にまだ汐凪がいるかもしれない。そんな場所が、中間貯蔵施設としてアスファルトで固められるなんて我慢できない。この土地も復興公園に加えてもらい追悼施設をつくれないだろうか」

木村さんは原発事故の原因を、津波や東京電力だけのせいだとは思っていない。「自然に対する畏怖が足りなかったのも自分たち。原発の稼働を許し続けてしまったのも自分たち。そんな人間の愚かさや、命の大切さを考える場所にしたい」。

木村さんは今も、入域に制限のある帰還困難区域を出入りする生活を続けている。「遺骨が全部見つからないのは、汐凪に“ここで伝え続けなさい”と言われているのかもしれない」。人のいない土地で幾度もの四季を巡りながら、少しずつそう思うようになっていったのだと言う。

もうひとつの福島再生を考える

「若い人たちと一緒に、今の社会や、これからのことについて語り合いたい」。そんな話を木村さんから伺ったのは、今年(2020年)2月のことだった。未だ帰還困難区域に指定されている木村さんの自宅周辺には、誰もが自由に入れるわけではない。もちろん、被爆の危険性を考えての処置ではあるが、そうして人が遠のいていくことで、現場の実情が外に届きにくくなっているのも事実である。震災から9年が経過したが、同じ東北の沿岸の街々でも、復興の状況はそれぞれに違う。巨大な防潮堤を築く地域がある一方、大熊町の海岸には、いまだ巨大なコンクリートブロックの破片が転がり、空き家はイノシシなどの野生動物に荒らされ続けている。「中間貯蔵施設」には大量の除染廃棄物が運び込まれ、今後30年以内に完了すると公表されている「最終処分」を行う場所は未定のままだ。

中間貯蔵施設エリア内では、今も多くの施設が建造中だ。

あの震災が、今を生きる自分たちに投げかけているものはいったい何なのか。「原発事故」という、人間の営みの先に起きた事故で被災した大熊町でこそ、考えられることがあるかもしれない。

「大熊は原発の町というだけではなく、豊かな歴史や文化があったところなんです。そんな歴史にも触れながら、なぜ原発事故が起きたのか、これからの社会はどのような方向を目指していくべきか、そんなことを次世代を担う若者たちと話せたらと思っています」

そこで思いついたのが、実際に大熊町を訪問する「スタディーツアー」の開催だった。その名は「大熊未来塾 ~もうひとつの福島再生を考える~」。木村さんと一緒に帰還困難区域内に入り、震災時の様子や現在の模様、大熊の歴史文化や、自然との共存について考える。区域内は他の場所と比べて放射線量が高く、低線量被ばくによる影響などもはっきりとしたことはわかっていない。そのためツアーの参加に関して、これまで木村さんが浴びた放射線量のデータなどを記録したガイドラインを示し、各々が「自分で判断する」という形を取ることにした。

【被ばく量目安】

帰還困難区域内で6時間過ごした場合 8μSv
木村さんの年間積算被ばく線量(142日入域) 1112.3μSv = 1.1123 mSv

人が浴びてもよいとされる人工放射線量の基準 1mSv/年(0.23μSv/1時間)以下
除染作業など放射線関係の作業従事者 50mSv/年 以下 100mSv/5年 以下
住民帰還の目安になる放射線の基準 20mSv/年(3.8μSv/1時間)以下

*μSv(マイクロシーベルト)
*mSv(ミリシーベルト)
*1mSv=1000μSv

しかしその計画は、新型コロナウイルスの感染拡大により実施不可能となってしまう。そこで考えたのが、ビデオ会議システムを利用した「オンライン・スタディーツアー」だ。当初は「やはり現場に来なければ伝わらないのでは」という懸念もあったと木村さんは言うが、オンラインの利点を生かし、直接大熊を訪れることのできない遠方からの参加者も集い、結果60名を越える人々が参加することとなった。

壊滅した自宅跡の花壇から配信がスタート。(配信中の映像より)

ともに考えていく

配信は5月6日、津波で全壊した木村さんの自宅跡から始まった。裏手の山には、小さなお地蔵さんが佇んでいる。「震災直後、父と妻の遺体は見つかったのですが、娘の遺体が見つかりませんでした。放射線量も高く、誰もここまで入ってこない。この辺りのどこかに汐凪がひとりで眠っているのかと思うとやるせなくて、せめてお地蔵さんに見守ってもらいたいと思い建立しました」。約2万人の方が犠牲となった東日本大震災だが、その数字ひとつひとつの裏側には、かけがえのない誰かの想い、悲しみがあるということをその言葉は代弁しているかのようだった。

木村さんの自宅周辺には、花壇を守るための電柵が張られている。これがないと、イノシシがあたりかまわず掘り返してしまうのだそうだ。「植物や動物を見てると、不思議な気持ちになります。彼らは変わらずここで生きているんですよね。もちろん動物たちは、放射線うんぬんなんてわからない。けれど、ここで与えられた命を全うしているイノシシとかを見ていると、人間というものは一体なんなのだろうということを考えてしまいます」。

人間のいない土地では動植物があるがままに生きている。(配信中の映像より)

ツアー後半では、木村さんの感じる問題意識を参加者に問いかけた。「時々すごく孤独を感じるときがあるんですよ。個々人のレベルでは、“人間はこのままでいいのか”というような問いかけにも、色々と感じる人がいると思う。でもそれが国とか町とか、大きな単位が相手になると、まるで手応えがなくなってしまう。今の生活、社会のシステムというものは、我々が前の代から引き継いで作ってきたものだけれど、本当にそれでいいのか。原発の廃炉作業にしても、次の世代に担って頂かないといけない“負の遺産”ですよね。そのような現状の中で、少しでも自分たちにできることを探して、良いバトンを渡していきたい。そのためにも、どんどん若い人たちの意見を頂けたら嬉しい」。

木村さんは、大きなシステムや物資の運搬がなくても成り立つ「小さなコミュニティ」の可能性を考えているという。それぞれの個性、特質を生かし、お互いが支え合うような社会。生きるために必要なものを、手の届くところで生産し、分かち合う社会。そうした指向は、新自由主義的な競争社会に疲弊し、都会を離れて自分のペースで生きていきたいという若い世代の欲求にも重なるものがあるかもしれない。「大熊未来塾」の今後の可能性に思いを馳せつつ、2時間に渡るオンライン・スタディーツアーは幕を閉じた。

後日、木村さんと参加者は、数人単位のグループで意見交換を行うオンラインミーティングを開催、当日だけでは語り切れなかった思いや感想を共有し合った。「大熊未来塾」に参加した若者の多くは、もとよりこうした社会問題に関心を持っていた人々が多い。しかし、そうした問題意識をいざ誰かと共有しようと思った時に、「意識高い系?」と揶揄されたり、そもそも話せる相手がいなかったりといった悩みを抱えている参加者が多かったようだ。それが、このオンラインでの繋がりを通じ、それぞれが「ひとりではない」と感じられたことが励みになったという声が多く寄せられた。

「大熊未来塾の中だけではなく、そこで生まれた繋がりから、何か新しいことが始まれば嬉しく思います」

未来とは、突然どこかからやってくるものではない。それは過去から繋がり、今が積み重なった先に見えてくる地平線のことだ。過去の失敗から学び、より良い未来を描く次世代が、この「大熊未来塾」から羽ばたいていくかもしれない。

(写真・文:佐藤慧/2020.6.12)

※ 警戒区域
災害などによる被害や危険を防ぐために、許可を得た者以外の出入を禁止、制限する区域。無断で侵入した場合、懲役・罰金刑が課される場合もある。

「大熊未来塾」は、6月14日に第二回開催を予定。現在のところ参加者の公開募集は行っていないが、その模様はFacebookページ「大熊未来塾 ~もうひとつの福島再生を考える~」から発信していく予定。今後も防災・復興・歴史・生活・慰霊などをテーマに、1年をかけて活動を行っていく。


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