「日本が戦争を行った」という歴史的事実はみなの知るところかもしれないが、沖縄の惨劇は、今を生きる人々、特に本土と呼ばれる側に暮らす人々の記憶にどれだけ刻まれているだろうか。1945年6月23日は、日本軍の組織的な戦闘が終結した日であり、「慰霊の日」として毎年戦没者の追悼が行われている。沖縄県と県下の自治体はこの日を条例により「休日」としているが、沖縄以外の地域ではそうした定めはないため、ニュースで見聞きする程度の印象しかない方も多いかもしれない。かくいう僕自身も、戦争の歴史について調べ始めてから知った程度で、きちんとその事実に向かい合ったことはなかった。
犠牲者20万人と聞くと、それが膨大な数であることはわかっても、どこかその数字に置き換えられた個々人の「体温」が削がれてしまうように感じる。そうした乾いた情報から生身の人間の息吹を感じるためには、多角的な情報、表現に触れる必要があると思う。もちろん、何をもってしても当事者の体験と完全に重なることはできないが、そこに「痛み」や「悲しみ」を感じたのなら、きっと悲劇を二度と繰り返さないための大切な何かを受け取ることができるのではないだろうか。
沖縄県公文書館のウェブサイトに、「写真が語る沖縄」という資料集がある。米国海軍などが、戦中・戦後の沖縄やサイパンなどの様子を写した記録写真を、説明文と共に自由に閲覧することができる。写真には時の流れもなければ、音もなく、においもない。こちらから何かを語り掛けることもできない。しかしその一枚の「窓」の奥にある世界を想像し、そこに写る人々の声や、その場に響くざわめきに耳を澄ますことはできる。今回の記事では、沖縄県公文書館所蔵の写真を10枚、抜粋して紹介する。関心を持たれた方は、是非記事の最後にある参考リンクより膨大な記録写真に触れてみて欲しい。
丘の斜面にある雨の溜まった水玉模様の地面の穴や、葉の落ちた木の幹の裂かれた様は、首里城周辺の日本軍陣地に対する第10陸軍の猛攻をあらわにする。左手前の倒れた鉄塔は、8万の皇軍で防御体系をなしていた中央制御部の周りにあった11の同様な施設の一つであった。丘には日本軍が爆撃を避けるための洞穴が、中央には米歩兵部隊の携帯テントが見える。(1945年)[沖縄県公文書館所蔵]
首里城の城壁。瓦礫と化した首里城の城壁。その下には堀がめぐらされていた。後方に見えるのは首里の町。焼け残った樹木は城を囲んでいた森の一部である。首里城は第5海兵連隊によって攻略された。(1945年 5月)[沖縄県公文書館所蔵]
日本兵も投降する――この4人の日本兵は、彼らを首里城付近の壕に追い詰めた海兵隊員との戦闘を続けることや自決することよりも、投降することを選んだ。ぬかるみの中、3人の日本兵は傷が重い仲間を運んだ。このぬかるみは、銃撃されたときに首里城へ物資を運んでいた第1海兵連隊の進軍を遅らせた。海兵隊員は雨と砲弾から身を隠そうと壕に入った。中にいた日本軍の狙撃兵が彼らめがけて手榴弾を投げたが、負傷者は出なかった。彼らは持っていた手榴弾で応戦した。負傷した仲間を引きずって出てきた3人の日本兵は、必死の身振り手振りで投降を伝えた。武器を持って日本兵の後についている海兵隊員は、日本兵の気が変わらないように警戒している。(1945年5月)[沖縄県公文書館所蔵]
沖縄本島小禄:捕虜収容所の外観。終戦までの24時間の間に第6師団の前線によって連行された300人余の日本人捕虜。これまでにない数である。多くがフンドシか軍服を身につけている一方、キモノ姿のものもいる。(撮影年月日不明)[沖縄県公文書館所蔵]
日本軍によって連れてこられた、朝鮮人の「芸者ガールズ」。座間味島にて。(1945年4月21日)[沖縄県公文書館所蔵]
火傷を負った沖縄の少女に薬を塗り手当する(米軍の)通訳。日本軍は住民に「米軍は住民を殺害する」と教えていたため、この少女は壕から出ることを恐れていた。(撮影年月日不明)[沖縄県公文書館所蔵]
哨戒中の海兵隊員が、丘のガマから出てきた民間人を収容所へ避難させている様子。沖縄本島にて。この収容所は、第6海兵師団輸送所内にある。(1945年4月15日)[沖縄県公文書館所蔵]
崖の陰に避難する民間人。沖縄にて。(撮影年月日不明)[沖縄県公文書館所蔵]
約2時間にわたる説得ののち、子供二人を殺し、自らの命も絶とうとしていた民間人が壕から出てきた。負傷者を収容する救護室で彼らは自分の喉を切ろうとした
(1945年4月3日)[沖縄県公文書館所蔵]
沖縄戦で数千人の日本人が自殺した断崖絶壁。(1950年11月6日〜7日)[沖縄県公文書館所蔵]
沖縄県宜野湾市にある佐喜眞美術館は、普天間基地のために接収されていた先祖代々の土地を、館長の佐喜真道夫さんが取り戻し、建設された美術館だ。そこに丸木位里氏、丸木俊氏による連作、『沖縄戦の図』より10点の絵画が展示されている。部屋いっぱいに拡がる絵は、あたかもうめき声が聞こえてくるような存在感と共に観る者の心に迫る。絵の隅には、こんな言葉が刻まれている。
沖縄戦の図 恥かしめを受けぬ前に死ね 手りゅうだんを下さい 鎌で鍬でカミソリでやれ 親は子を夫は妻を 若ものはとしよりを エメラルドの海は紅に 集団自決とは 手を下さない虐殺である
戦争という狂気の中で理不尽な自決を迫られた人々。愛する人々を自らの手で殺めなければならなかった心境とはどのようなものだっただろうか。単なる「知識」や「情報」ではない、戦争の記憶と肌触りを想像することが、過ちを繰り返さないための感受性を育むことになるのではないだろうか。戦争により傷つき亡くなられた方々の冥福を祈るとともに、その狂気が再び誰かを犠牲としないよう、学び、行動していきたい。
(写真と説明文・沖縄県公文書館/文章・佐藤慧)
1945年の8月から、今年で76年という月日が経ちます。戦時下の記憶を語り継ぐ人も年々少なくなり、それが単に歴史教科書上の記録ではなく、実際に生身の人々の日常に降りかかった出来事であったということが、どこか遠のいてはいないでしょうか。過去から続く歪みを丁寧に解きほぐしていった先にこそ、この社会は本当の「戦後」を迎えることができる——Dialogue for Peopleではこの8月、そんな「戦後」について考えるきっかけとなる発信を行っています。特集ページをぜひご覧ください。
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