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Essay

2020.8.6

広島で被爆、留学先では「日本に帰れ」、それでも

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

2020.8.6

Essay #Yasuda


 
2017年12月、私はインド滞在中にお世話になっていた村の家で夕食を終え、ソファでご家族とくつろいでいた。リビングのテレビではたまたま、ノーベル平和賞の授賞式の中継が映し出されていた。そして、一人の女性の姿に釘付けになった。この年の平和賞を受賞したICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のスピーチとして、被爆者であるサーロー節子さんが演台に立っていた。

会場の一人一人の顔を覗き込むように、ゆっくりと、けれども力強く語りかけるサーローさんの姿に、さっきまでにぎやかだったリビングの中が、いつの間にかしんとなっていた。隣で見ていたお家のお父さんに「彼女はもう85歳よ」というと、「ええ!?」と目を丸くして驚いていた。「Humanity and nuclear weapons cannot coexist.(人類と核兵器は共存できないのです)」。彼女の語る実体験が、その言葉に一層の重みを与えていた。
 

 
スピーチ前、支えられながら歩き演台へと向かった彼女は、一度も座ることなく言葉を紡ぎ続けた。

サーローさんは13歳のとき、広島で被爆。その後、米国への留学を経て、カナダの方と結婚し、今はトロントに在住している。ソーシャルワーカーとして活躍し、同時に被爆体験を世界の人々に発信し、核兵器廃絶を訴えてきた。

ノーベル平和賞のスピーチから1年が経った2018年12月、コメンテーターを務めているJ-WAVE「JAM THE WORLD」の企画で、来日していたサーローさんにインタビューをさせて頂く機会に恵まれた。86年の歩み(当時)の中には、あの授賞式のスピーチだけでは語りきれない数々の苦難があった。

当時、荒野となった広島の街を前に立ち尽くしたというサーローさんは、亡くなった姉や甥っ子、次々と燃やされていく遺体の山を前に、何も感じることができなかったのだという。「なぜ何も感じないのか、私は人間ではなくなってしまったのか」、そんな自分自身に罪悪感を抱いた。

大学生になり、心理学を学ぶ中で、想像を絶する状況を前にすると、人間は自分の心を守るために思考停止してしまうことを知り、ようやく自分を責めることをやめられたのだという。

1954年、奨学金を得て米国留学を果たした。それはちょうど、アメリカによって行われたビキニ環礁の水爆実験直後のことだった。渡米後、メディアにコメントを求められた彼女は、はっきりと核兵器に「NO」の意志を示す。自分が広島で体験したことを、誰にも繰り返してほしくなかったからだ。

ところが、その言葉が新聞に掲載されると、留学先の大学に“ヘイト・レター”が届くようになる。「日本に帰れ」「その奨学金は誰の金だと思ってるんだ」「殺すぞ」と。到着したばかりのサーローさんは途方に暮れ、教授の家にしばらく引きこもらざるを得なくなった。そして葛藤した。「帰れと言われても帰れない。このまま口を閉ざし生きていくしかないのだろうか」。

たった一人思い悩みながらも、自分を奮い立たせた。「あの地獄を生き抜いたことを、なかったことにしたくない」。安全保障のために原爆は必要…そんな風当たりが強い中、彼女は自ら、その逆風に飛び込んでいくことになる。

昨年のノーベル平和賞のスピーチで、サーローさんは核兵器禁止条約を「我々の光」と表現した。それは彼女の被爆体験から紡いだ言葉だった。爆風で体が吹き飛び、崩れた建物の下敷きになったとき、誰かが彼女の肩をゆすり叫んだのだ。「諦めるな!あそこから光が漏れているのが見えるだろう?あそこに向かって這い出せ!」

それは這ってでも光を見出そうという、彼女の原点だった。

その「光」をつかむまでの道のりは決して平たんではなかった。トロントには様々なルーツやバックグラウンドを持った人々が集まり、「私のおじいちゃん、おばあちゃんだって日本軍にひどいことをされた」「なぜ被害だけを訴えるのか」という言葉を投げかけられたことも一度や二度ではなかったという。「そんなとき、私はまず、彼らの声に耳を傾けます。もちろん戦争当時、私は13歳だったので、軍の起こしたことに関与していたわけではありません。ただ、一人の日本人としての罪悪感を伝えるんです」。

まず、受け止めること。はねつけ合っていては互いの理解は生まれない。その姿勢は、あらゆる歴史問題に向き合う鍵となるように思えた。
 
 

 
 
このノーベル平和賞の授賞式と同じ年に、サーローさんの母校である広島女学院中学・高等学校にお邪魔したことがあった。この学校では、生徒たち自ら街で核兵器廃絶のための署名活動を続けている。

路上で、彼女たちは少なからず「核兵器は必要だ」という声に直面するという。とりわけ多いのが「核なき世界なんて理想でしかない」という言葉だ。

けれども「理想でしかない」という冷笑で、世界はよりよい方向に進んできただろうか。

2018年10月、アメリカと旧ソ連が冷戦中に結んだ中距離核戦力(INF)全廃条約を、トランプ政権は破棄するとし、翌日ロシアも離脱を表明した。サーローさんも実現に向けて力を尽くしてきた核兵器禁止条約に、日本政府が参加する兆しは今も見えていない。

「理想でしかない」という言葉に、私は改めて問いかけたい。たどり着くまでの道のりは長いかもしれない。けれども人間には一歩一歩、その高さを上っていくだけの知恵があるはずだ。

「Prayer(祈り)よりも、Action(行動)を」とサーローさんは強調する。「あなたの健康や平和を祈っています、だけで終わらず、実際の行動を」と。核兵器なき世界をどう、実現するか。それは今を生きる私たちへの壮大な問いであり、未来に持ち越し続けてはならない宿題だ。
 

(2020.8.6/写真・文 安田菜津紀)
※本記事はCOMEMOの記事を一部加筆修正し、転載したものです。


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