法も検察も自分を守らない そんな時代は「過去」なのか ―治安維持法下の「生活図画事件」を取材した、髙橋健太郎さんインタビュー
「計画された犯罪の遂行上、意味のある場所の写真を撮ったりしながら歩くなどの外形的な事情が認められる場合には、(犯罪の)実行準備行為と認定できることとなろう」。2017年5月12日、国会の法務委員会で、当時の法務大臣である金田勝年氏はこう答弁している。「テロ等準備罪」、いわゆる「共謀罪」の審議が行われている最中だった。それは写真の撮り手として、他人事とは思えない発言だった。“意味のある場所”とは何を指すのか、“外形的な事情”とは誰が決めるものなのか、審議が進むほどむしろ、法案の中身はぼやけて見えた。何が犯罪にあたり、何がその“準備行為”と認定されてしまうのかも曖昧なまま、2017年6月15日にこの法は成立した。
写真家の髙橋健太郎さんが、治安維持法下で逮捕された当時の学生たちの取材をはじめたのは、この「共謀罪」への違和感がきっかけだったという。
治安維持法とは、1925年に制定された法律で、「共産主義者」、「無政府主義者」を取り締まるためのものであったが、その後改定を経て、「国体」の変革や私有財産制度を否定する活動に関わっていると“当局が見なせば”、本人の意図にかかわらず検挙できるというものへと姿を変えた。数十万人が逮捕され、拷問、獄死が相次いだ。1945年10月15日に廃止されたが、無実の罪で逮捕された人々の傷は未だ深く刻まれている。
北海道・旭川師範学校で美術部に所属していた学生たちが、絵を描いていただけで逮捕された「生活図画事件」。髙橋さんが取材した、菱谷良一さん、松本五郎さんはその美術部で、熊田満佐吾先生の指導を受けていた。「教科書通り」にただ表現するのではなく、身近な生活をよく観察することで、より良い生き方を模索する、というのが熊田先生の教育だったという。ところがそうした教育が“反国家的”だとして、熊田先生に続き1941年9月20日、菱谷さん、松本さんは逮捕される。刑務所生活は1942年12月26日まで続いた。司法省刑事局の報告では、彼らの絵画や美術部での研究が「共産主義思想」を啓蒙しようとするものだったとされている。「共産主義」についても治安維持法についても漠然とした理解しかなく、特段イデオロギーを持って描いていたわけではない二人が、だ。
髙橋さんは重ねた取材を一冊の写真集『A RED HAT』として8月末に刊行する。なぜ彼らは逮捕されたのか、それは過去の出来事なのか、取材を通して見えてきたことを伺った。
―「生活図画事件」の取材を始めたのは「共謀罪」がきっかけだと伺いましたが、取材を通して見えてくる当時との共通点はあるのでしょうか?
国会での「共謀罪」についての議論では、「一般の人には適応されない」という答弁が繰り返されていたと思います。ただ、菱谷さんたちは「治安維持法ができたときも同じことが語られていた」とおっしゃっていました。実はお二人とも、治安維持法のことをそこまで詳細には知らなかったそうなんです。今よりずっと緊張感があったはずのあの時代にあっても、自分たちには関係ないもの、一般生活には及ばないものだと思っていたようです。「国家転覆を目論む人間を捕まえるためのもの」であると、当時の政治家たちも答弁していたからです。悪とされた「共産主義思想」についても、それがどんな思想なのか詳細に教わっているわけでもなく、ただ漠然と「悪い思想なんだろう」「自分たちとはかけ離れているものなんだろう」と考えていたそうなんです。だからこそ、突然自身に身にそれが降りかかってきて、その思想を持っているだろう、と罰せられる恐さはどれほどのものだったのか、と考えさせられました。
お話を伺ったり当時の記録を調べたりしてみると、例えば「ベートーヴェン」とか、カタカナの名前がついている人物名は“赤”=“共産主義者”と扱われてしまっていました。その杜撰さが逆の形で露呈したこともあったようです。当時、フォイエルバッハ論の本を松本さんが持っていて、その中にはマルクス主義に肯定的な記述があるんです。けれども取り調べでは、「フォイエルバッハはマルクスではないから“赤”ではないな」とその本を返されたそうです。
―写真集の末尾の解説では、既に亡くなられた方ですが、当時検察書記官だった板橋潤さんの証言も引用されていますね。彼は治安維持法を運用する側なわけですが、そのために特段マルクス思想とは何なのかということを学んでいたわけでもないということが窺えます。
あの時代の特高(特別高等警察)や捕まえる当局側の意見がどういうものなのかということは、中々表に出ていないと思います。証言する間もなく亡くなっている場合もあります。反省するような風潮もなく、あやふやにされていったのだと感じます。板橋さんも「軍国主義に賛成も反対もしなかった」と証言されていますし、自分が悪いことをしたという意識はあまり読み取れません。ハンナ・アーレントのいう“悪の凡庸さ”のように、「警察は正しいことをしている」というのは、あの時代を人々が生きていく中で身に着いてしまう感覚だったのかもしれません。
ただ、板橋さんは作家の三浦綾子さんの取材を受けたとき、「私は過去の軍国主義者の手先となった」と御礼を断っているんですよね。そこに少し、救われたような気持になりました。
―突然逮捕され、獄中生活を送ることになった菱谷さんたちの心の傷は深いのではないでしょうか。
菱谷さんに最初に会いに伺ったのは、2017年6月でした。「入って入って」と気さくに中に招き入れてくれて、話し始めるとお尻を浮かせるくらい、前のめりで熱心にお話してくれるんです。本当にもうすぐ100歳を迎えようとしている人なのかな?と驚きました。
ただ、菱谷さんの息子さんが幼いとき、物陰に隠れて「わ!」と菱谷さんを驚かせたことがあったそうなんです。するとびっくりした菱谷さんは、部屋の片隅に逃げていって、そこで立ち上がれなくなってしまったんです。その時、菱谷さんのお母さんから「お父さんにそういうことをしてはいけません」と言われたんだそうです。まだ息子さんが、自分の父が治安維持法下で逮捕されたことがあると知らなかった頃です。その後、息子さんは大学生になってから初めて、お父さんから「自分は昔、刑務所にいたことがある」とことの経緯を聞きました。「大変だったね」と言葉をかけてから、自分が幼少期にお父さんを驚かせた時、部屋の隅でうずくまってしまったのは、刑務所で受けた経験の後遺症なのではないかと思ったと話されていました。
―「非国民」というレッテルを貼られ、その名誉はいまだ回復されていません。通っていた大学も退学扱いとなったままですね。
2018年11月14日、菱谷さんの97歳の誕生日の朝、「何かしたいことはないですか」と尋ねると、菱谷さんが学んでいた旧旭川師範学校、現在の北海道教育大学に行って事務長と話がしたいとおっしゃったんです。あの事件があってから、菱谷さんが大学の関係者に接触するのは初めてでした。事務長室で、「やぁやぁやぁ!」とたたみかけ、自分がいかに理不尽な仕打ちを受けたのかを語っている菱谷さんは、日ごろの温厚な顔を保ちつつ、相手を尊重して言葉を選びながらも、茶の間で見せてくれるいつもの面白可笑しい菱谷さんとは違ったように思います。そのやるせなさをどうぶつければいいのかを問いかける菱谷さんは、いつにも増して真剣なまなざしでした。
―こうした過酷な体験を、人前で語って下さるようになったきっかけは何だったのでしょうか。
菱谷さんが自身の体験を語りだしたのは、ちょうど僕が生まれた頃、旭川の高校の新聞部の生徒たちが取材に来たことがきっかけだったそうです。その新聞が刊行されたのが1988年、菱谷さんが逮捕されてから50年近くが経とうとしていた頃でした。ようやく自分が背負わされたことを、世間が「不条理」であると認める風潮が出てきて、市民の間で知ろうとする人が出てきたことは大きかったと思います。自分は、体験を語っても責められる存在じゃないと知ることができたのだと思います。
―廃案にはなりましたが、検察庁法改正案に対して、抗議の声が相次ぎました。検察の人事に対して、権力側が恣意的に介入できる度合いを増すような動き、取材を経てきてどのように感じていましたか?
治安維持法が施行されていた時代は、検事や判事が今の時代よりずっと、政府当局と近かった時代でした。そして、菱谷さんや松本さんのように、ごく一般の人が理不尽な仕打ちを受けてきました。先日廃案になった検察庁法改正案は、まさに政府が自分たちの据え置きたい人をトップに長く据えることができてしまう法案でした。こうした検察が、政府に対して独立した判断ができるのかといえば難しくなってくると思います。
―こうした動きは、ただちに一般の人々に影響はないと思われがちですが、当時もじわじわと、気づけば市民の生活に及んでいたわけですよね。
黒川弘務氏の定年延長の建前として、「今抱えている事件でこの人が必要だ」ということが国会で答弁されていましたが、国家権力が過去、市民をどのように弾圧してきたのかを振り返れば、そこに批判的な目を持たざるをえないと思います。検察庁法改正案が廃案になって黒川氏が辞職した後も、何か支障がきたされているわけではありません。ただ、日本は治安維持法下で何が起きてきたのか、歴史に対して十分な教育の機会がないことが気がかりです。
―今回の写真集では、菱谷さんや松本さんたちの日常の様子が写し出されています。「生活図画事件」のように過去に起きた事件を写真で伝える難しさもあるのではないでしょうか。
菱谷さん、松本さんを指導していた熊田先生が実践していたのは、個人の生活が社会の中でのように成り立っているのかを見つめる洞察力をつけ、絵に表現することでした。僕の場合は写真を通して、社会にまなざしを向けながら個人の生活を見つめたいと思っています。写真集の写真は、菱谷さんがゴミ出しをしていたり、お風呂に入っていたり、単体で見れば、日常をただただ撮っているように思えるかもしれません。でも、お二人が経てきた社会、政治状況を理解し、当時の法律がいかに理不尽なものだったのかを考えながら見ると、違った捉え方ができるのではないかと思います。
―戦後75年となりますが、取材を経た今、どんなことを感じてきましたか?
新型コロナウイルスの影響で、「新しい生活様式」ということが盛んに言われるようになりました。防疫のためとはいえ、例えば人との距離や飲み会のあり方、ご飯を食べるところまで、個人の生活に、政府側の規範を入れ込む力が強まっているのは気になります。
戦時中の新聞を見てみると、あの時代も生活や日常のあり方はこうあるべき、という記述が並んでいるんです。「これが規範、規則です」と、国側から個人の生活を締め付けていくようなことがまかり通っていました。
例えばなぜ、僕たちが自由に玄関を出てコンビニに行けるのかだったり、自分たちの生活と社会がどれほど密接に結びつき合っているかということを認識できなければ、いつでも国はそれすら規制することができるということを過去の歴史が示しています。自覚的でないと繰り返される、と。
―こうした過酷な歴史を見つめてきたわけですが、今後どんな取材に取り組みたいと考えていますか?
関東大震災後、朝鮮半島出身の人たちが虐殺されてしまったことについて、少しずつ取材をはじめています。関係者の方にお話を伺うと、100年近く前のことなのに、今現在進行中の出来事と重なることが分かるんです。例えば東日本大震災後もそれ以外の災害時も、「朝鮮人が犯罪をして回っている」というデマが拡散されていきました。人間はなぜこうしたことを繰り返してしまうのかを、改めて模索したいと思っています。
(写真 佐藤慧 文・インタビュー聞き手 安田菜津紀/2020年7月)
KENTARO TAKAHASHI PHOTOGRAPHY
https://kentaro-takahashi.com/髙橋健太郎 写真集『A RED HAT』(赤々舎)
http://www.akaaka.com/news/kentarotakahashi-a-red-hat.htmlA RED HAT 赤い帽子 髙橋健太郎写真展
・期間:2020年8月12日(水)〜8月24日(月) 11:00〜18:00(最終日は15:30まで)
・場所:旭川市民ギャラリー(旭川市宮下通11丁目)
・入場料:500円(高校生以下無料)
あわせて読みたい
■ 2021年夏特集「この社会は本当に『戦後』を迎えたのか?」
■ 2020夏特集「過去に学び未来を紡ぐ」 (※記事は順次更新して参ります)
■ 「黙っていること、静かにおさまること、それが正しいとずっと思っていた」 赤木雅子さんが語る、真相究明を目指し、声をあげ続ける理由 [2020.8.5/安田菜津紀]
■ 人々が守られず、権力者が守られる国を取材して[2020.5.12/安田菜津紀]
Dialogue for Peopleの取材、情報発信の活動は、皆さまからのご寄付によって成り立っています。取材先の方々の声の中には、これからを生きていく中で必要な「知恵」や忘れてはならない「想い」がたくさん詰まっています。共感をうみ、次の世代へこの「受け取り」「伝える」枠組みを残していくために。皆さまのご支援・ご協力をよろしくお願いします。