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Essay

2020.8.27

祖父の生きた時代(1923-1945)

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

2020.8.27

Essay #Sato

戦時中の国へ取材に行くことは度々あるが、こと「日本の戦争」というものを考えたときに、どれだけ資料を読み込んでも、どこか遠い話のように思えてしまうことがある。もちろん、様々な証言や記事などに触れることで、それが現代と地続きの日々だということは理解できるし、そのような惨禍を二度と繰り返さないために、今を生きる僕たちが背負っている責任があることも痛感する。しかし、その時代を生きた個々の人々が、社会の大きな出来事とどう直面し、何を感じ、思ったのか。それを詳細に想像することは中々に難しい。そうした「そこに生きていた誰か」を思い描くとき、ふと頭に浮かぶのは僕の祖父母たちの姿だ。

母方の祖父は、当時予科練(海軍飛行予科練習部)で飛行訓練を受けていたが、終戦間近のことでゼロ戦が足りず、出撃することはなかった。祖母は広島県三次市の生まれで、原爆が落とされたときは小学5年生だった。広島市から遠く離れた祖母の田舎まで、汽車に載せられた被爆者たちが運ばれてきて、母校の小学校では、その看護のために6年生たちが駆り出されていたという。父方の祖母は福島県生まれで、戦時中は学徒動員により横浜の工場で働いていたらしい。「カステラというものを初めて食べられて嬉しかった」と、いつか語ってくれたことがある。

そんな祖父母の話をぽつり、ぽつりと直接、間接的に聞いてきたが、全くそのような話を聞いたことがないのが、父方の祖父、佐藤千代吉だった。僕が2歳の時に62歳で亡くなったということもあり、直接的な記憶はほとんどない。父やその姉弟(つまり祖父の子どもたち)に聞いても、戦時中の話はほとんど聞いたことがないという。実は祖父は1945年1月に22歳で朝鮮半島に出兵しており、そこで終戦を迎え、ソ連軍の捕虜となり、3年半シベリアに抑留されていた。「辛い話だろうし、思い出したくなかったんだと思う」と、叔母は言う。第二次世界大戦終戦間際の1945年8月8日、ソ連は「日ソ中立条約」を破棄し、南樺太や千島列島、満州は朝鮮半島へと侵攻を開始した。祖父は着任して1年も経たないうちに捕虜となり、シベリアへと連行されたのだ。
 

シベリア抑留から帰国した後の祖父。ウクライナ、カムチャッカ、チタに抑留されていた友人たちもいたようだ。

祖父の残したアルバムを見ても、1945年の次は1949年まで飛んでいる。その他のアルバムはいたって普通の家族写真、社員旅行の記念写真などで埋まっており、戦争の面影を感じさせるものはない。祖父は戦前、どのような気持ちで戦地へと向かったのだろう。今は亡き祖父に、当時何を感じ、考えていたかを聞くことはできない。しかし、祖父の生きていた時代背景をパノラマのように見て行くことで、その時代の空気を、少しは身近に想像し、感じられるのではないか。その誕生からシベリア抑留に至るまで、祖父も耳にし、何かを感じたであろう歴史的な出来事を振り返ってみたい。
 


 
 
1923年 祖父0歳(大正12年)
 
祖父が生まれた年は、社会的にはどのような出来事があったのか。世界史的には、僕自身中東地域を取材していることもあり、1923年というと第一次世界大戦後、オスマン帝国が解体されトルコ共和国の国境線が策定された「ローザンヌ条約」を思い浮かべるが、日本での出来事といえばやはり「関東大震災」が最大の出来事だろう。福島生まれの祖父周辺では大きな影響はなかったかもしれないが、10万5千人もの死者・行方不明者を出したこの震災の影響は後年まで続くこととなる。「帝都復興事業」は、その9年後、1932年に復興事務局が廃止するまで続いた。また当然ながら、「関東大震災朝鮮人虐殺事件」も同年の出来事であり、後の昭和天皇が狙撃されるという暗殺未遂事件、「虎の門事件」もこの年の暮れだ。教科書の年号と紐づけて覚えていた出来事が、こうして祖父の生まれた年だと知ることで、急に現実感を持って迫ってくる。過去として振り返ることで、今を生きる僕たちは当時を「激動の時代だった」と感じるが、その時代を生きる人々は、日常の中でこうした出来事を耳にし、また巻き込まれていったのだ。

【参考】


 
 
1925年 祖父2歳(大正14年)

「治安維持法」の交付がこの年だ。当初は「共産主義者」「無政府主義者」を取り締まるためのものであったが、その後改定を経て、「国体」の変革や私有財産制度を否定する活動に関わっていると当局が見なせば、本人の意図にかかわらず検挙できるというものへと姿を変えた。数十万人が逮捕され、拷問、獄死が相次いだ。この年から95年後の現在、「香港国家安全維持法」の成立が物議を醸しているが、「国体」を優先し、人々を「管理」することこそが国家というシステムの役割だという思想は、今も世界各地で見られる(日本も例外ではない)。

【関係記事】


 
ちなみにスコットランドの発明家ジョン・ロジー・ベアードが、史上初めて動く物体をテレビで遠距離放送することに成功したのもこの年らしい。科学技術が急激に日常を変えていく時代の夜明けだが、日本でテレビ放送が開始されたのは1953年(英:1937年、米:1941年)のことなので、まだしばらくはお茶の間にテレビはない。整体指導者の野口晴哉氏は、その著『体癖(全生社)』第一巻の冒頭で、科学技術と倫理に関してこのようなことを書いている。

この世に生まれて七千万年、人間はいろいろの面で進歩した。――(中略)―― 知識をつみ重ねるということによってこの世界を進歩させた人間も、五十年か百年もすると又初歩にもどる。それ故人間自身の智慧は、つみ重ねた知識と異なって五十年か百年のはたらきしかしない。だから水爆をつくった人々でも奥さんがふくれて出迎えたといって怒る。

戦争を知る世代がいなくなる将来、僕たちが同じ過ち(科学技術の発達により破壊の規模は桁外れではあるが)を繰り返さないためには、野口氏の言う“智慧”の継承が鍵となるのではないだろうか。
 
 
1926年 祖父3歳(大正15年-昭和元年)

世相を賑わせたのはやはり年末の大正から昭和への「改元」だろうか。僕も昭和から平成、平成から令和への改元を経験している世代だが、戦前の改元の雰囲気とは明らかに違うだろう。とはいえ、祖父はまだ3歳。ほとんど記憶にもなかったのではないか。ちなみに祖母は現在認知症によりほとんど過去のことも思い出せないが、以前は皇室の写真集を眺めるのが好きな人だった。「皇軍」として出兵し、過酷なシベリア抑留を経験してきた祖父は、そんな祖母の姿に何を思っていただろうか。残されている祖父のアルバムには、「昭和15年(皇紀2600年)」に「聖地参拝」として中学校の修学旅行で伊勢神宮へ行ったという記録も残る。
 

“昭和15年(皇紀2600年)白井中学校5年生当時の聖地参拝旅行記念写真 伊勢神宮前にて 当18歳 前日は二見浦に一泊”


1927-30年 祖父4~7歳(昭和2~5年)

1927年「上海クーデター(四・一二事件)」、1928年「張作霖爆殺事件」、そして1929年にはドイツ・ベルリンでの「血のメーデー事件」や、イギリス委任統治領パレスチナのエルサレムでの「嘆きの壁事件」など、キナ臭い空気が漂っているように感じる。1927年に服毒自殺を図った芥川龍之介氏は、『或旧友へ送る手記』の中で「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」を吐露している。1930年にはインドのマハトマ・ガンジーがイギリス植民地政府による塩の専売に反対し、抗議の行進(「塩の行進」)を行った。現在、世界のニュースを見渡してみても、本当に多種多様な衝突が起きていて不安になるが、当時の世相にもそうした緊張感があったのだろうか。とはいえ今ほどメディアの発達していない時代でもある。同時多発的なニュースを把握することは容易ではなかっただろう。
 
 
1932年 祖父9歳(昭和7年)

この年は色々と騒がしい。祖父は未だ野山を駆け巡って遊ぶ年齢かもしれないが、徐々に日本が本格的な戦争へと傾いていく様子は、大人たちの雰囲気からも伝わってきたのではないだろうか。年明け早々、「桜田門事件」が起こる。昭和天皇に投じられるはずだった手りゅう弾は、その前を行く馬車付近で炸裂した。上海の国民党機関誌「民国日報」が、暗殺の失敗を嘆くような文面を掲載したことにより、日中の緊張が高まったとされる。その後上海で托鉢中の日本人僧侶ら5名が中国人民衆に襲撃されるという「日本人僧侶襲撃事件」が発生。月末には、その緊張を利用し日本海軍陸戦隊が戦闘を開始、「第一次上海事変」となった。『日本の歴史〈24〉ファシズムへの道 (中公文庫)』に詳しいが、この事変に至る緊張を作り出した「日本人僧侶襲撃事件」は、前年の「満州事変」に対する国際世論の非難を逸らすために関東軍が作り出した自作自演の襲撃事件であったことが、戦後の東京裁判で述べられている。また、この「第一次上海事変」では、自爆攻撃を仕掛けた3名の兵士が「爆弾三勇士」という英雄として、新聞各紙で祭り上げられ、映画化もされた。様々なグッズも作られ、「爆弾三勇士競争」という、小中学校の競技にまでなったようだ。当時小学生だった祖父も、もしかしたらそんな競技を行っていたかもしれない。なお、下記記事によると「爆弾三勇士は、上官に突入を命じられた3人の兵が途中転倒のアクシデントに見舞われたが、戻ることはできず、命令のままに突進し爆死してしまったというのが真相」ということで、戦争という狂気に沸騰する社会がなんとも虚しくなる。

【参考】


 
他にもこの年には「満州国建国」や「五・一五事件」、ボリビア、パラグアイ間の戦争(ボリビア政府と関係が深いスタンダード・オイル社とパラグアイ政府につくロイヤル・ダッチ・シェル社との油田をめぐる戦争であったと言われる)や、シャム王国(タイ)のクーデター、ナチス党の躍進、ルーズベルト米大統領の誕生など、着々と世界規模の衝突の下地が整えられていく様子が見て取れる。
 

祖父の妹は“満州国外交部(日本の外務省)に勤めていた”らしい。


1935年 祖父12歳(昭和10年)

もはやこの頃になると、戦争に関するそれなりに特筆すべきものごとを並べるだけでも膨大な量になってくる。日本にも関連する国際的な動きとしては、後に「日独伊三国同盟」を結ぶことになる、イタリア、ドイツの動きが気になる年だ。第一次世界大戦における連合国とドイツ国の間で締結された講和条約、「ヴェルサイユ条約」の軍事制限条項が、前年に「総統」という地位を得たヒトラーにより、この年の3月に破棄される。圧倒的権力を手中に収めたヒトラーだが、当初はあくまでも民主的な選挙により選ばれたリーダーであったことを忘れてはならない。排他的な政策を推し進める当時の社会の様子は、以下の記事も参照頂きたい。

【関連記事】


 
ムッソリーニ率いるイタリアは「第二次エチオピア戦争」へと突き進む。1929年から1930年代にかけて、アメリカを震源とし世界に影響を与えた「世界恐慌」による経済の落ち込み、高い失業率がその侵攻へといたる一因であったとされるが、このあたりの歴史は僕も詳しく触れたことがなく不勉強だ。その後成立した「イタリア領東アフリカ」については、「アフリカの角」と呼ばれる地域の歴史の一部として勉強したことがあったが、ソ連と対立していたイギリスとフランスがその行為を承認していたことなど、あまりにも知らない事実が目につき、いかに自分が20世紀の戦争の歴史をきちんと捉えられていないかということに気づく。ふんだんな資料に自由に目を通せる環境のある僕でさえそうなのだから、当時12歳だった祖父には、こうした世界規模のパワーゲームなど知る由もなかっただろう。この10年後、祖父は朝鮮半島に派兵されることとなる。
 
 

“女子青年団時代の姉”


1936-38年 祖父13~15歳(昭和11~13年)

1936年「二・二六事件」「スペイン内戦勃発」「スターリン憲法の制定」、1937年「死なう團事件(これは普通は歴史の教科書にも載らないかもしれない。けれど個人的には現代に続く闇を示唆する恐ろしい事件に思える)」「ゲルニカ空襲」「パリ万博博覧会」「『国体の本義』の刊行」「第二次上海事変」、第一次近衛内閣による「国民精神総動員運動」「南京事件」、1938年「国家総動員法制定」、1940年「東京オリンピック返上」、ドイツで発生した反ユダヤ主義迫害「水晶の夜」、「重慶爆撃」…。思春期の祖父がこのような世相の中にいたと思うと眩暈がする。以前インタビューした元IS兵がこんなことを言っていた。「組織の外から眺めてはじめて、ISの異常性に気づいた」と。些細な歪みが積み重なり、いつしか社会全体が不協和音を鳴らしていても、中にいる人間にはわからないのかもしれない。


 

“白井中学校剣道部一同 2598.3月 二年生時代 当16歳”


1941年 祖父18歳(昭和16年)

開戦の年、祖父は18歳だった。こうして祖父の人生と重ねながら振り返ることにより、初めてその事実に気づいた。18歳の時の僕はというと、画面越しに見る「911アメリカ同時多発テロ」に衝撃を受けていた頃だ。祖父はそれと同じ歳に、日米開戦を迎えていた(正確には、祖父の誕生日は12月4日であったため、開戦のその日には19歳になっていたが)。
 

年少の子どもたちとスキーを楽しむ祖父(左)。小学校3年生の頃よりスキーをしており、得意だったことがうかがえる。


1944年 祖父21歳(昭和19年)

旧制中学校を卒業した祖父は、鉄道省盛岡工事事務所に就職したようだ。そこから岩手県への縁ができたようだ(僕は岩手県生まれ)。戦後も鉄道関係の仕事に復帰している。1944年当時の戦争の状況は他に譲るが、「インパール作戦」「レイテ島の戦い」など、精神論をかざした無謀な作戦により多くの命が奪われた。下記の写真は祖父の職場にて、出征者を見送る際の記念写真らしい。祖父への召集も迫っていた。
 

 


1945年 祖父22歳(昭和20年)

どのような形で祖父が徴兵されたのかはわからない。他多くの人々と同じように、通称“赤紙”と呼ばれる「召集令状」が送られてきたのだろうか。この写真の横には、几帳面な小さな文字で、朝鮮半島の部隊に配属されるまでのことが書かれている。
 

 

徴兵検査に第一種乙種合格。現役入隊と決定。昭和19年7月9日宮古に於て撮せしもの(当22才)。徴兵検査、昭和19年5月31日、6月1日両日。福島県安達郡二本松町に於て施行。昭和20年1月13日現役入隊通知を在勤地にて知り、同日出発、盛岡に出る。父、若松より来り帰若出来なければ直ちに入隊する称諾あり。盛岡14日夕発ち15日朝帰若。在宅20時間にして16日朝若松出発仙台に着く。17日仙台市東部第25部隊入隊。22日仙台発博多経由朝鮮羅南騎兵第19聯隊に28日安着。軍隊生活始る!!

 
現役入隊通知を受けてから15日後には、すでに朝鮮半島の部隊に到着している。実家の会津若松に帰れたのは僅か20時間。その20時間の間に祖父はどのようなことを考えていたのだろうか。戦場で命を落とすことも考えただろうが、まさか3年半もシベリアで強制労働させられることになるとは、想像もしていなかったに違いない。

こうして「祖父の生きた時代」に起きた出来事をたどってみると、祖父は否応なく大きな社会の流れの渦に巻き込まれていったようにも思える。周囲の誰もがそうした空気の中で暮らしていただろうし、その空気に抗う者は国家権力により罰せられ、「非国民」と罵られた。ソ連によって抑留された人々約57万5千人のうち、5万8千人が亡くなった。わずかに祖父が戦後に漏らした当時の話としては、「ロシア人夫婦の家に食事に誘われたことがあった」ということや、帰国後も時々「ハラショー(ロシア語で“良い”などの意味)」と呟くことがあったという程度のことしか僕は知らない。きっと、語ることのできなかった多くの出来事を胸に秘めたまま祖父は亡くなっていったのだろう。

【参考】


 


 
 
「祖父の生きた時代」をたどる試みは、まだ続いている。祖父の赴任した朝鮮半島の羅南とはどんな場所だったのか。抑留された地はシベリアのどこなのか。祖父の兄夫婦が暮らしていた満州の鉄嶺とは、新京とは、どんな街なのか。いつかそうした地を訪れ、歩いてみたいと思う。それと同時に、祖父は確かに否応なく歴史の渦に巻き込まれたかもしれないが、今を生きる僕たちは、その足跡を知ることで、同じ轍を踏まないように学ぶことができる。このアルバムの最後に収められている写真は、若き祖母とのツーショットだ。あれだけ詳細な説明文を写真に添えていた祖父が、不思議とこのページには何も書いていない。単に気恥ずかしかっただけなのかもしれない。けれど僕には、詳細に文字が書き込まれているそれ以前のページは、書き、記すことでその時代を「過去のもの」にしようとしているようにも思えた。祖父がひとり抱えていたものはどんな経験だったのだろう。未だ片鱗しか見えて来ない「祖父の生きた時代」について、これからも考えていきたいと思う。

 

  

(文 佐藤慧 / 写真 祖父のアルバムより)

 
 


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