「命の犠牲の上に成り立つ教訓があってはならない」 ―あの日の我が子のこと、最後の一分一秒でも知りたかった
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東日本大震災から、10年。宮城県石巻市での死者・行方不明者は4000人近くにものぼります。2011年3月11日、危険を知らせる津波警報が防災無線を通して街に鳴り響く中、日和幼稚園の園バスは子どもたちを乗せ、坂を下って海側へと向かっていきました。当時6歳だった佐藤愛梨さんは、このバスに乗っていたため、津波とその後の火災に巻き込まれ、4人の園児と共に犠牲となりました。
3歳年下の妹、珠莉さんに、母の美香さんはこう告げたそうです。「愛梨はお星さまになったんだよ」。それを聞いた珠莉さんは、こぶしをぎゅっと握ったまま、下を向き、声をあげず大粒の涙を流したのだといいます。
その後、日和幼稚園からはA4一枚の「避難マニュアル」が提示されましたが、そこでは保護者の迎えを待ってから引き渡すことが定められていた上、そのマニュアル自体が園の関係者には十分に共有されていなかったとされています。
2011年8月、美香さんはじめ4人の園児の遺族が、幼稚園側に安全配慮義務違反があったとして、経営母体である学校法人長谷川学院と園長に対し、損害賠償請求訴訟を起こしました。2013年9月、仙台地裁は園側の過失を認め、約1億7700万円の賠償支払いを命じました。その後、園側は控訴し、高裁での「和解」に至ります。
こうした悲しみが二度と繰り返されないために、何が求められているのか。愛梨さんの母、美香さんに、いま抱いている思いを聞きました。
―愛梨さんたちが亡くなってから、美香さんたちご遺族が、バスがたどったルートなど、自分たちで情報収集をしなければならない状況にあったと思います。
遺族は皆、直後は動くこともできませんでした。周りの友人たちがバックアップをしてくれ、なんとか少しずつ、自分で調査をはじめたんです。愛梨と同じバスに乗っていた子の親御さんや、手がかりを知っていそうなあらゆる人に聞き込みをしていきました。
私たちは、わが子の最後まで「全部知りたい」と必死でした。最後の一分一秒でも知りたい、という思いがありました。
本当はそうしたことを、幼稚園側が率先して私たちに伝えるべきだと思うんです。私たちが聞きたいことを幼稚園の先生たち自身の言葉で教えてほしかったし、分かっていることを包み隠さず伝えてほしかった。けれど園側の態度は、とにかく隠そうとする、情報を与えたくない、というところから始まってしまったので、遺族と壁ができてしまいました。
―当初から、園から得られる情報があまりに少なかったと思います。
私たちは混乱の中で、全て手探りでした。何も園側から教えてもらえないから、裁判しかないと、わらをもすがる思いで弁護士を訪ねました。
―日和幼稚園は私立だったため、公立の園や学校のように市の教育委員会にかけあったり、情報開示請求をしたりすることも難しい状況でしたね。
石巻市の教育委員会に電話したのですが、「うちの管轄ではないので、私立の場合は県にかけあってほしい」と言われ、5月ごろに私学の許認可を出す宮城県の私学文書課に電話したんです。ところが「自分たちは許認可を出すだけで、指導監督する権限はない」「私たちを訴えないでほしい」という返答でした。認可を下すのに指導監督しないの?と驚きましたし、こちらから切り出してもいないのに「お金の話になると思うんですけれど、うちに請求せず幼稚園に請求して下さい」とも言われました。
娘たちが亡くなって初めて分かった杜撰な状況ですが、この体制のままではだめだ、と思いました。その後も県側からの遺族へのヒアリングはありませんでした。
―訴訟では、ご遺族が知りたかったことが全て明らかになったわけではありませんし、「和解」にも葛藤があったと思います。
二審目が始まった段階で、園側が一審で認定された法的責任を認めます、と表明したんです。そうであるなら控訴自体を取り下げてほしいと思っていましたが、園側にその意思はないようでした。
私たちはとにかく、子どもたちに心からの謝罪がほしかったんです。本当は愛梨が帰ってくることが一番の望みですが、それが叶わないならせめて、心からの謝罪をしてほしい。それが得られるなら、と和解に踏み切りました。
でも、いまだに園側が私たちのところに来て、子どもたちに頭をさげたり手を合わせたりということはありません。手紙を出しても、封も切られず受け取りを拒否をされ返ってきたこともあります。和解の文章に「謝罪」という言葉を盛り込んで終わりではなく、人として最低限、遺族の元を訪れての謝罪を果たしてくれるものだと信じていました。あの和解はなんだったのか、謝罪を受けられないのなら、あのまま裁判を継続すればよかった、と思ってしまいます。
街中で偶然、法人の理事長とばったり会ったとき、「謝罪をする気はありません」と言われたことがありました。裁判が終わったからといって「終わり」ではないはずですよね。あれは裁判を終わらせるための和解だったのか、と悔しさがこみ上げてきました。
―毎年、愛梨さんに宛てて手紙を書かれていますね。
最初の1、2年は、「生きてたら小学校一年生だな」と、語りかける言葉にそう大差はなかったんです。けれども段々愛梨が年齢を重ねていったであろう月日が経つと、どの年齢の愛梨に書いていいのか、分からなくなるんですよね。まだ年長さんだった当時はひらがなしか書けませんでしたが、学年があがれば漢字だって書けるようになって、色んな知識を身につけていったはずですよね。好きなものだって変わっていったかもしれません。今これくらいはできるのかな、どうなんだなろうなって、ひとつひとつ考えていると、辛くなってきてしまうんです。
当時のままの幼い愛梨なのか、私たちと一緒に年を重ねているのか、生きていたら高校1年生だから、高校生の愛梨に語りかけていいものなのか…どの年齢の愛梨でも読めるように、思わず漢字で書いてしまったときは、ひらがなでルビを振るんです。
娘の成長が見られない分だけ、思いは募っていく一方ですし、迷いながらも、愛梨にこの手紙が届いてほしいという思いを込めて書いてきました。
―震災の記録・記憶を伝える施設で愛梨さんの靴を展示する、ということに踏み切ったことは、大きな決断だったのではないでしょうか。
修学旅行で原爆ドームや平和記念資料館の展示を見たときに、小学生ながらに心に残るものがあったんですよね。戦争って起こしてはいけない、と色んなことを考えたきっかけでもありました。
震災後に再び広島を訪れた時、娘の遺品も同じように、見た人に訴えかけるものがあるんではないかという思いを強くしたんです。とても大切なものですし、手放すときはもちろん葛藤しましたが、うちに置いておくよりは、多くの人に見てもらって、感じてもらって、考えるきっかけを作りたい、と思ったんですよね。物は言葉で語ることはできませんが、愛梨の遺品は語りかけるものがあるのではないか、と感じています。
―現在、美香さん自身も、経験してきたことを語る活動を続けています。
娘の命を無駄にしたくない、二度とこういう悲劇を繰り返してほしくない、という一心です。命の犠牲の上に成り立つ教訓があってはならないと思うんです。娘たちは教訓になるために生まれてきたわけではありません。でも、せめてもの教訓として活かしてほしい、と思っています。
例えば、認可保育所は毎月、何かしらの防災訓練をしなければならないとされていますが、幼稚園は年に2回以上やればいい、ということになっています。(※)子どもたちにとって10回の開きって大きいですよね。せめて、命を守ることに関しては、一律にしてほしいという思いがあります。
(※)日本の認可保育所は「児童福祉施設の設備及び運営に関する基準」で毎月1回の避難・消火訓練の実施が義務付けられている。一方、幼稚園は消防法施行規則第3条第10項により、避難・消化訓練を年2回以上実施するよう回数が定められており、これ以外に訓練を義務付ける規定はない。
日ごろ備えていなければ、日和幼稚園のように、安全な場所にあっても、判断を間違えてしまうことがあります。昔は「災害は忘れた頃にやってくる」、と言いましたが、今は忘れる前に次から次へと色んな災害が起こりますよね。未来を見据えたときに、また起こるであろう災害に、備えるべきものを備えてほしいんです。それを考えるきっかけを作ることができればと思っています。
(2021.3.10/聞き手・写真 安田菜津紀))
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