軍事侵攻を信じない父、占領された街に残された家族―ウクライナからポーランドに避難した家族の声
まだ寒さの残る3月上旬の朝、寺田頼子さんが暮らすワルシャワ市内のアパートの部屋を、隣室に暮らす住人が訪ねてきた。
「2、3時間後に、ウクライナの家族をあなたの家で受け入れてくれないかしら……?」
ワルシャワ西駅では、日々国境からバスが往来する。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻後、多くの人々が戦禍から逃れてポーランドへとやってきていた。そこにたどり着いたある一家が、行く先もなく途方に暮れていたところ、寺田さんの隣人が声をかけ、なんとか泊まる場所を彼らに確保できないかと相談にやってきたのだ。
「ポーランド中で、ウクライナの人を助けようという機運が高まり、自宅に受け入れる人もたくさんいました。私たちのアパートには階段でつながっている上の階があり、キッチンなど、住環境も別々だったので、受け入れやすい環境もありました」と寺田さんは語る。
ロシアの軍事侵攻後、ウクライナからは600万人が国外に逃れ、そのうちの半数以上がポーランドに滞在している。寺田さんの夫のピオトルさんは、「今は外を歩くと、ウクライナ語、ロシア語しか聞こえないこともあるほどです」と、ここ最近の街の変化を語る。
もともとポーランドには、多くのウクライナ移民が暮らしていた。ポーランドの人々の中には、ドイツやイギリスなど、西ヨーロッパへと出稼ぎに行く人々がおり、そうした人々の代わりにポーランド国内の需要を埋める形で、ウクライナから人々が出稼ぎにやってくるという構図があったのだ。こうした従来からの移住者の中には、ポーランド滞在のためのビザ取得・更新に苦労する人々も少なくなかった。
しかし今回の事態は、何百万という人々が一度に国境を越えてくる緊急事態だった。「とにかくまず受け入れ活動をする、考えるのはその後」とピオトルさんが語るように、ポーランド政府は迅速に門戸を開き、ウクライナからの難民に対してポーランド国民識別番号(PESEL番号)を付与、それに基づいて生活支援・教育・福祉や医療サービスを受けることができる体制を整えた。
主要駅やバスターミナルに降り立つと、必ずといっていいほど、ウクライナ国旗と同じ、青と黄色の看板が目立つところに置かれている。必要な情報を提供する窓口、日用品などの物資を受け取れるコーナー、動物とともに避難してきた人々にペットフードやケージなどを提供するブース、キッズ・親子スペースや食事を提供する場所など、受けられる支援も多岐にわたる。
無料でSIMカードを受け取ることができるサービスもあり、ポーランド国内にいる親戚や、ウクライナに残る家族と連絡を取り合ったり、どこに行けばどんな支援が得られるのか、SNSで情報収集をしたりするうえでも、欠かすことのできないサポートとなっている。
寺田さんは改めて語る。「歴史を振り返ってみると、ポーランドもロシアやドイツなど、身近な大国の脅威に晒されてきた国です。陸続きの隣国であるウクライナがロシアに侵攻されたことは、“自分と無関係のことではない”と、危険を感じている人たちがたくさんいます」。
暗がりの満員電車、立ち通しで12時間
寺田さん宅に身を寄せたのは、キーウから逃れてきた母のオラさん、17歳になる息子のアルテムさんと、3歳の弟、プラトン君だ。オラさんはもともとテレビ局に勤めており、アルテムさんは高校生だった。
2022年2月24日、平穏だったキーウの街に爆発音が轟いた朝のことを、アルテムさんは振り返る。
「この日までは、本当にロシアからの侵攻が起こるなんて予想もしていませんでした。急いでネットニュース見たり、友人たちと連絡を取り合って無事を確認しました。何が起きたのか、何をすべきなのかもわからず、とにかく安全を確保しなければと、国外へ避難することを考えました」
一方、母のオラさんは当初、住み慣れた場所を離れることに躊躇した。「戦争がこんなに長引くなんて思わず、1週間耐えればなんとかなるのではと思っていたんです」。
その後、友人の家や地下シェルター、郊外の知人宅を転々としたものの、その郊外にまで、戦闘機の飛び交う音や爆発音が轟いてくるようになり、止むなく一家は隣国ポーランド・ワルシャワを目指すことを決めたのだ。
キーウ駅は、街から脱出しようとする人々で溢れていた。オラさんも、この日の混乱を振り返る。「こんなにも大勢の人込みを見たのは初めてのことでした。叫び声や子どもの泣き声があちこちで響いていて、とても恐ろしい光景でした」。
西部の町、リビウへと向かう列車はすし詰め状態となり、幼いプラトン君だけを床に座らせ、オラさん、アルテムさんは12時間、立ち通しとなる。「夜になると真っ暗闇でした。標的にされないよう、列車は灯りを消して走行していたんです。しかも、空襲警報の度に列車は止まりました」。
3歳のプラトン君は、何が起きているのか、なぜ自分たちは移動しているのかを理解するにはまだ幼い。「“これは冒険なんだよ”と言い聞かせていたので、まるで遠足にでも行く気持ちだったのかもしれません。プラトンがぐずらず落ち着いていてくれたのは、せめてもの救いでした」。
その後バスに乗り換え、やっとの思いでたどり着いた国境には、5~600人ほどの人々が列をなしていた。そこからまた、長いバス旅が待っている。3月3日にキーウを後にしてから48時間、ようやくワルシャワにたどり着いたのは、侵攻から10日近くが経った3月5日のことだった。
寺田さん宅で2ヵ月ほど過ごした後、オラさん一家は同じアパートのひとつ下の階の部屋に引っ越しをした。アルテムさんは、ウクライナの高校のオンライン授業を受けながら、ポーランドの高校にも通っている。オラさんは、看板やポスターなどを扱うポーランド国内の広告会社で働き始め、順調に日常を取り戻しているように見えるが、「将来的にはウクライナに戻りたい」という。
「もちろんポーランドの文化も興味深いですし、心優しい人たちにも出会いました。でもやはり、ウクライナは私たちの“ホーム”なんです」と、オラさんはかつての日常を振り返る。
キーウの学校で一緒に過ごしていたアルテムさんの友人たちは、ドイツやフランス、イタリアなどに避難し、散り散りになっていった。オンライン授業で顔を合わせたり、SNSなどを通じて日常の話はするものの、戦争の話は一切触れないという。「もちろん戦争に怒りは感じるけれど、話しても落ち込むだけだから……」。
ウクライナで起きていることを信じない父
もうひとつ、2人の話を聞いて気になったのが、モスクワで車修理のビジネスを営むアルテムさんの父との関係だ。父がウクライナを離れ、ロシアで暮らし始めたのは20年近く前のことだという。家族に会いにウクライナにへと戻ってくるのは2年に1度ほど。父が受け取るウクライナに関する情報は、ロシアメディアが報じるものばかりだ。
軍事侵攻開始直後、オラさんは「戦争が始まった」と、モスクワにいる夫へと連絡をした。ところが、「こちらからはどうにもできない。心配するな、数日すれば状況は変わる」と、彼はまるで真に受けなかったという。今ウクライナで何が起きているのか、オラさんたちが写真や情報を送っても、「それはウクライナ政府のフェイクだ」と、信じようとしない。その態度は、オラさんたちが隣国に避難してからも変わっていないという。「だから今はもう連絡をとっていないんだ」と、そんな父のことを語る度、アルテムさんの表情は曇る。
初めて掲げたプラカード、3度の脱出の試み
寺田さんの暮らすアパートには、もうひと家族、ウクライナから避難してきた一家がいる。18歳のアーニャさんは、クリミア半島の北に位置するヘルソンに暮らしていた。故郷では、国際関係を専攻する大学生だった。ヘルソンはスイカの産地としても知られ、海に面した穏やかな街だったとアーニャさんは語る。もともとオラさんの出身もヘルソンであり、アルテムさんとは幼馴染だ。
「まだ1週間しかワルシャワにいませんが、ヘルソンと比べるとずいぶんと大きな街です。ヘルソンはもっと静かで、友人たちとよく海辺でパーティをしたりしながら過ごしていました。そんな平和なウクライナに戻るのが、私の今の夢です」
3月初旬、ヘルソンはロシア軍に占領された。今回の侵攻によるウクライナの主要都市陥落は、これが初めてだったといわれている。2014年、一方的にクリミア半島を併合したロシア側にとって、黒海に面し、ドニプロ川河口に位置しているヘルソン州が、軍事侵攻の重要な拠点のひとつだったと見られている。
多くの人々が離れていったヘルソンの街は、シャッターの閉じられた店が並び、閑散としていたという。占領後のヘルソンでは、ウクライナのテレビ番組は遮断され、インターネットのプロバイダーも、ロシアのコントロールするものへと変えられていった。ロシア側が一方的に新たな“市長”、“知事”を任命し、「ロシア化」が進められる中、それでも路上で抗議の声をあげる市民たちがいた。アーニャさんもそのひとりだ。ロシア兵たちはデモ隊を威嚇し、催涙ガスで群衆を散らそうと動いていた。それでもアーニャさんは、路上に繰り出さずにはいられなかった。手作りのプラカードにはこう綴った。《ヘルソンはウクライナだ》。
生まれて初めて参加したそのデモの写真はもう、スマホには残っていない。脱出を試みたとき、中身を調べられるリスクを考え消去したからだ。
アーニャさんは、ヘルソンから2度脱出を試みたが、どちらもチェックポイントで止められ、追い返されてしまった。「なぜヘルソンを離れるんだ?ウクライナ兵は危険だ」「ここにいれば安全だ。自分たちが街を守っているのだから」――。ロシアの兵士たちは、アーニャさんたちにこう言い放ったという。
3度目の試みで、ようやく母と一緒に脱出できたのは、たまたま兵士たちの監視の目が緩んだときだった。「運がよかったとしか言いようがない」とアーニャさんは振り返る。父と、5歳になる飼い猫のトムは、いまだヘルソンに残っている。ひとりっ子だったアーニャさんにとって、トムは弟のような存在だという。
現在、ヘルソンの「親ロシア派勢力」は、住民投票を経ることなく、ロシアへの編入を要請している。家族が再会を果たせる見通しは立たないままだ。
懸念される「支援疲れ」
多くの難民をウクライナから受け入れているポーランドも、インフレや燃料費の高騰などが重なり、状況は苦しい。今は多くの人々が「助けよう」と活動しているものの、今後懸念されているのは、「支援疲れ」だ。「自分の家庭で受け入れても、キッチンやバスルームが一緒だとどうしても気を使います。2週間くらいでお互い疲れてしまうケースもあるようです」と寺田さんは語る。それがきっかけで、避難先での滞在を諦め、ウクライナに戻っていく人もいるという。
「ウクライナの人たちの中にも、避難させてもらって申し訳ない、できるだけ迷惑をかけたくないという方がたくさんいます。住居を探したい、そして自立したいという人たちへの長期的な支援も、今後大切になってくるはずです」
自身ではどうにもならない力で、突然生活が奪われ、そこから日常を取り戻していくには、膨大なエネルギーが必要となる。人は雨風をしのぐ場所さえ確保できれば「人間らしく」生きられるわけではない。一時的な関心の高まりに留めず、避難してきた人々を支える輪を、教育・心理的なケア・孤立を防ぐ活動・自立支援など、多角的・長期的な視野で広げ、支えていく必要があるのではないだろうか。
(2022.5.20/写真・文 安田菜津紀)
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