入管法政府案が、参議院で可決されました。
杜撰な難民審査が明るみになる中、検証のためのしかるべきデータや集計が示されることなく、「証拠はないが信じろ」という力づくの審議がこの間続いてきました。「ブラックボックス」にメスを入れることなく法案を可決することは、ファクトベースの議論を放棄し、「立法事実などどうでもいい、とにかく通せ」が幅をきかせる「人治国家」に益々、舵を切ることを意味します。これが常態化したとき、国会の存在は形骸化するでしょう。
6月8日、可決直前の法務委員会での討論で、「数で決めてはならないことがある」と投げかけた議員がいました。人の生き死にを、「多数決」で決めていく社会――それも、議論の土台さえ崩壊したまま、数の力で押し切る社会で、安心して暮らせる人などいるのでしょうか。
法案の問題点などは、ここに記した通りです。
底の抜けたような国会審議と市民社会の息吹
今も、問題提起したいことは山ほどあります。
「こんなザルの審査に苦しめられてきたとは知らず涙が出た」「一生懸命準備していた書面が、ただの紙切れのように扱われていたかもしれないと思うと愕然とした」――難民認定の分厚すぎる壁に突き当たってきた申請者のみならず、伴走してきた支援者や家族からも、「やりきれない」という声が相次ぎました。その壁の内側が実は、一部の難民審査参与員らがベルトコンベアのように命をさばく、大量処理だったことが明るみになったからです。
「日本が難民条約に加わっていることを知り、安心して来日してきた」と語った申請者もいました。この「条約詐欺」状態を解消するためには、しかるべき「法改正」をするか、条約を離脱するかの二択しかないでしょう。
入管法審議中に私が面会に行った難民申請中、入管収容中の男性は、法案について「殺人と同じ」と声にならないほどの声でつぶやきました。政府案が施行されれば、複数回申請者である彼は、真っ先に送還の対象になるでしょう。故郷に身寄りがなく、自力で歩けないほど衰弱した彼は、ぼろぼろの体のまま国籍国の空港から放り出されたとき、生き延びることができるでしょうか。
そもそも、「明日にも送還されるかもしれない」という状況に人を宙づりにすること自体が、拷問のように、人間の精神をきりきりと追い詰め、闇に突き落としていくことでしょう。
そんな暗闇を裂かなければならないのは、ほかでもない、この日本社会に暮らす市民たちです。
眩暈を覚えるような審議が続く中、私はこの間、日本の「市民社会」の息吹も確かに感じてきました。
夕方の街中を歩いているとき、雨の中、たった数人で手づくりのプラカードを掲げ、スタンディングをしている人たちを目にしました。冷笑や嘲笑も飛び交う中、「初めてデモに参加した」と教えてくれた人、たまたまデモに居合わせて列に加わった人たちがいました。「つい3ヵ月前にこの問題を知った」と、勇気を持って国会前でマイクを握った大学生がいました。集会取材中、大好きな音楽グループのペンライトを片手に声をあげる人たちと隣り合ったとき、「私もこの場で呼吸していいのだ」と心から思えました。
連日こうしたイベントを企画する側も、凄まじいエネルギーを割いてきたことでしょう。
「現場には行けないけれど」と、SNSでの地道な情報発信を続けた人たちも、問題を「可視化」するための大切な役割を担っていました。
言葉を選ばずに言えば、私のように日本で生まれ、日本国籍者として日本に暮らす「マジョリティ」にとって、この法案が通ったところで、実生活にすぐに影響があるわけではありません。明日送還される恐怖の中、眠りにもつけない夜を過ごすわけでも、「帰れ」と言われて罰を受けることも、健康保険の加入や労働ができなくなるわけでもありません。それこそが、「マジョリティの特権」なのでしょう。
底が抜けたような社会の中でも、利害をこえ、自発的な意思で動く人々がこんなにもいるのかと、その体温を感じられたことは、私にとっても大きなことでした。
日本社会では、「怒り」をネガティブにとらえる傾向が強いように思います。「そんなに怒っても意味ないよ」「感情的になるなよ」と――。もちろん「怒り」は時に、理不尽な暴力に直結することもあります。けれども、「おかしいよね」「私たちは怒っていい」と、「まっとうな怒り」を肯定し、持ち寄ることから、社会の変化は生まれるはずです。
大切なのはこれから、です。
「聞き分けのいい市民」でいることはできない
この間、取材者である私はもちろん、難民支援や入管の問題に長らく携わってきた人たちでさえ、驚愕するような事態が明るみになってきました。
なぜ「難民はほとんどいない」という予断をもった難民審査参与員だけに審査が極端に偏るのか、差別を厭わない参与員がなぜ審査に携わり続けるのか、そもそもなぜ一次審査の時点で、弁護士の同席や録音・録画が認められないのか――。このどれにも、明確な答えは返ってきていません。
今、報じられている入管内での暴力や不適切診療は、氷山のほんの一角でしょう。ほとんどの人々は、助けを呼んでも叫んでも、届かない場所に追いやられているからです。ところがこれから、収容や解放を決める入管の権限は、むしろ強められてしまいます。
今回の審議でも明らかになったように、巨大な権限を持つ公権力は往々にして、不都合を隠そうとします。その「力」に物を言うこと、歯止めをかけることは、時に容易ではなことではありません。「支援者に問題があるのでは?」「入管にだって言い分がある」という安易な「どっちもどっち論」に流れてしまうのは結局、力のある側に加担し、「傍観者」を増やしてしまうことでしょう。恣意的な「命の選別」を前に、「聞き分けのいい市民」でいることなどできません。
民主主義はとても、手間と時間のかかる仕組みです。劇的には事態が変わらず、むしろ不条理に打ちひしがれることの方が多いかもしれません。発信を続けていると、時折闇の中に小石を投げ込んでいるような無力感に襲われることもあります。その度に、とある会見に登壇した女性が語った言葉を思い出します。
「私たちは生きている間に、社会は大きく変わらないかもしれない。でも、その変化の一部であろうとすることはできる」
法案が可決、成立した後も、施行までは1年残されています。実際に難民申請者に「死刑のボタン」が押される前に、また入管収容施設で命が奪われる前に、やるべきことがまだ、残されています。
強く問題意識を向けてきたからこそ、「今はどうしても前を向けない」という人も少なくないでしょう。この問題は根が深いからこそ、長く、粘り強い働きかけが必要になります。息切れしそうになったら、立ち止まり、呼吸を整える時間も大切です。
時にはたっぷり落ち込みながらも、出来ることを持ち寄っていきましょう。その役割に、「優劣」はないのだから。
(2023.6.9 /安田菜津紀)
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