(※本記事では実態をお伝えするために、虐殺行為について具体的な記述をしている箇所がありますのでご注意ください。)
フィリピンの首都マニラから北西へ4時間ほど車で走ると、ビルが立ち並んでいた都心の風景が遠くの山々まで見通せる自然豊かな景色に変わっていった。車は、南シナ海とマニラ湾に挟まれたバタアン半島に入る。太平洋戦争初期、日本とアメリカの戦闘の舞台となった場所だ。
バタアン州の州都、バランガ。窓の外に目をやると、開けた景色の奥に、山頂に佇む巨大な十字架が見えた。この山、サマット山周辺はバタアン戦の最激戦地であり、多くの兵士が犠牲となった。戦後、その慰霊のため、そして平和を祈る意味を込めて、この十字架が造られたという。
Contents 目次
大国による支配、そして太平洋戦争へ
フィリピンの歴史は、スペイン、アメリカ、そして日本による支配の歴史と言える。
1500年代からスペイン領だったフィリピンは、米西戦争を経た1898年、アメリカによる統治が始まった。1935年に独立準備政府が置かれ、その10年後の独立へ向けて準備が進んでいた時、太平洋戦争が勃発した。
1941年12月8日、日本軍はハワイ真珠湾への攻撃後、フィリピン侵攻を開始。1942年1月にマニラを占領し、アメリカ軍はバタアン半島で抵抗を続けた。半島にはアメリカ陸軍の演習場があり、自分たちに有利な場所、良く知った地形で戦いを進める狙いがあったとも言われている。
「バタアンも、景色が一望に見渡せるサマット山も、美しい平和な景色を血で染める人間の行為は、なんて愚かしいんだろうと思いますね」
フィリピンで長年、戦跡ツアーのガイドを務めるSuenaga Hidekoさんが、窓の外の風景を見つめながらこう話した。これまでフィリピン全土の戦跡をめぐり、戦没者の遺族会の方々などを案内してきた方だ。
1942年1月9日、バタアン半島では、日本陸軍が攻撃を続けていた。アメリカ軍の主防衛線は半島の付け根近くにあった。日本軍が攻撃を進め、1月下旬にアメリカ軍防衛線は半島の中央部分まで後退。そして、サマット山麓のカポット台がバタアン戦の最激戦地となった。同年4月3日からアメリカ、フィリピン(米比)軍と日本軍の総力戦が行われ、4月9日、サマット山の陥落により米比軍は降伏した。
降伏の翌日に始まった「死の行進」
1942年4月、日本軍はバタアン半島を占領した後、捕虜となった米比軍兵士約7万6000人を捕虜収容所への移送のため最長100数キロ歩かせた。道中、マラリアなどの病気や、日本軍の監視兵による虐待、殺害などにより、多くの死者を出した。死者数は7000人とも、1万人とも言われる。収容所での死者も合わせると約3万人ともされている。
この「死の行進」は日本軍の残虐性を伝える事件として知られている。フィリピンでは、バタアンが占領された4月9日は、戦闘や死の行進の犠牲者を悼む日として祝日となっている。日本にとっての広島、長崎のように、フィリピンの人々にとってバタアンは特別な場所なのだと、Hidekoさんが教えてくれた。
車は、行進がスタートしたゼロ・ポイント地点へと向かう。
現在、捕虜が歩いた道のりには、1キロごとに白い碑があり、終着地点まで続いている。いずれも、行進の距離を示す数字と「DEATH MARCH」(死の行進)という言葉が記されている。
「死の行進」は降伏の翌日、4月10日に始まった。
捕虜たちの最終目的地は、オドネル収容所。具体的なルートは、半島から歩いてパンパンガ州にあるサンフェルナンド駅へ行き、そこから列車で収容所最寄りのカパス駅へ。駅から収容所までは再び歩く。
4月10日、7万6000人の捕虜のうち半数が半島南端、マリベレス近郊を出発。もう半数は4月11日、バタアン半島西海岸近郊のバガクを出発したとされる。未舗装の山道や旧国道を歩き、バランガなどを通ってサンフェルナンドを目指した。
4月のフィリピンは乾季にあたる。灼熱が照りつける中、一日に20〜25キロほど歩みを進めたという。
捕虜たちは、武器以外にも貴重品や食料などを日本兵に次々に取り上げられた。バタアン半島での約3ヵ月の戦闘により、降伏時すでに身体は弱っていたが、行進中は食料や水分もほとんど与えられず、常に喉の渇き、飢えに苦しんだ。マラリアや赤痢などにかかった人も多くいたが、適切な治療はなく、ただ、歩き続けた。水を求めて井戸に行った人、列についていけず遅れをとった人など、監視兵により銃剣で殺された人もいた。
当時を知るアメリカ、フィリピン、日本の関係者400人以上に10年かけて聞き取りを行い、行進の実像を描いたマイケル・ノーマン他著の『バターン死の行進』(河出書房新社)には、行進中に砂利道に倒れ込んだ米兵への監視兵の行為がこのように描かれている。
トニー・アキノ軍曹と同じ隊列の若い米兵が砂利道でうつぶせに倒れた。後方にいた監視兵がその隊列全体に停止を命じ、若い米兵のあばらのあたりを蹴り、立ち上がれと怒鳴りつけた。その米兵は少しばかり体を起こしたが、ふたたび倒れてしまった。監視兵はもっと強く蹴りつけた(がんばれ戦友、とアキノは心の中で声をかけた。立て、立て、と)。若い米兵は頭を上げ(アキノが見ると、彼の口には血があふれていた)、手を伸ばした。監視兵に助けを求めるかのようだった。
監視兵は、その米兵の首筋に銃剣を突きつけ、ひと声叫ぶと、ぐいと刺した。びくりとして上体を起こした米兵は尻をついて座った格好になったが、銃剣を引き抜かれ、地面にどっと倒れた。
これは死の行進なのだとアキノは思った。「死神のさまよう果てなき道」である。よろけて倒れれば「もはやそれまで」だった。(『バターン死の行進』2011年、河出書房新社、246-247ページ)
行進中に起きた虐殺
「もう少し行ったところにパンティンガン川という川があります」
車中、Hidekoさんは「死の行進」の途中に、川の近くで起きたある事件について説明を始めた。
「捕虜を400人くらい虐殺した所です。はっきりとした場所は分からないのですが、川の近くということで……ここですね。パンティンガン川。ちょっと降ります」
車を降りて橋を進み、パンティンガン川の中央あたりに立つ。澄んだ水が穏やかに流れる川の音が、ただ辺りに響いていた。
「処刑場所は、こっちだと思いますね」。Hidekoさんが川の向こう側を指差す。「山の麓、谷間みたいなところで集団処刑が行われたと言われています。フィリピン第91師団の捕虜400人が殺された、と」。
1942年4月12日、約400人の捕虜たちは、15人から30人ほどのグループごとに山道の崖沿いの場所に連れてこられた。銃剣で何回も刺され、または、首を切られ、谷に落とされていったという。
捕虜の虐殺ーー。川周辺には、事件について説明する碑などはなく、橋に「PANTINGAN」などと書かれているだけだった。「説明も何もない。大事件のはずなのに。フィリピンの人も(この虐殺については)知らないですよ」とHidekoさん。「忌まわしい出来事だから……」と続けた。
捕虜については、太平洋戦争当時も国際条約で人道的な扱いが定められていた。にも関わらず、なぜ「死の行進」や捕虜の虐殺は起きてしまったのだろうか。
捕虜を徒歩で移送
捕虜を最長100キロ以上も徒歩で移送させた理由については、さまざまな要因が考えられている。
まずは、捕虜の多さ。日本軍はアメリカ軍の降伏前から、半島からの捕虜移送計画を立てていたが、実際の捕虜の数は想定(約4万人)のおよそ2倍だった。将校らは車両輸送が不可能であると結論付け、歩かせることにしたという。
次に、半島は水や食料が不足し、加えて、マラリアが多く発生する地域でもあった。食料確保や衛生的な観点からも他の場所への移動が必要だった。
さらに、日本軍のその後の戦略としても、捕虜を早急に移動させる必要があった。半島からわずか4キロほど南、マニラ湾入り口にあるコレヒドール島の攻略のためである。
これらさまざまな要因が重なって行進が始まり、そしてそれは「死の行進」と呼ばれる悲劇につながっていってしまった。
「恥」――捕虜へのまなざし
「死の行進」やパンティンガン川近くでの集団虐殺が起きた背景についてさらに考えていくと、当時の日本軍の「捕虜観」が要因の一つとしてあげられる。
下記は、虐殺の「当事者」である元日本兵へのインタビューを基にした内容である。
それまでの数か月間、彼は一般的な概念での敵、悪としての敵を憎んできた。だがいまや、パンティンガン川の岸辺にあらわれた、実際の敵を憎んだのだ。
それまでの山あり谷ありの日々、過酷な日々、悲惨きわまりない日々の原因そのものである者たちが目の前にいた。
(中略)しかも、捕虜たちは恥をさらしていた。戦闘中に武器を放り出し、両手を上げたのだ。軍人の名折れである。
(中略)彼は復讐を望み、仲間も同じ考えだろうと思った。歩兵たちは訓練の中で敵を「殲滅」せよと教えられていた。ひとり残らず殺すのだ。そして、敵は目の前にいた。(『バターン死の行進』2011年、河出書房新社、289-290ページ)
《恥》《名折れ》……。文章からは、捕虜への軽蔑のまなざしが読み取れる。
日本軍は、自国の兵士に捕虜になることを認めていなかった。捕虜になるくらいなら死を選べ、という考え方だった。よって兵士たちは「降伏は恥」「捕虜は非国民」と考え、そしてそれは、目の前に現れたアメリカ兵、フィリピン兵の捕虜への侮蔑、虐待、そして虐殺につながる一因となってしまったのではないだろうか。
加えて、国際法遵守の意識の欠如や知識不足の影響も指摘されている。
太平洋戦争当時は、1929年にジュネーブで調印された「俘虜ノ待遇ニ關スル條約」(俘虜待遇条約)などで捕虜の保護が国際的に定められていた。だが日本は、この条約を批准していなかった。太平洋戦争開戦後、この条約を「準用」するとしたが、実際には国内法が優先されるなど、国際法が守られない状況が生まれたとされる。また、アメリカのような職業軍人でない日本兵にとって、捕虜をどう扱うかという国際法に基づいた教育も不足していたと言われている。
収容所、その後も続いた過酷な生活
私たちを乗せた車は、「死の行進」の終着点、サンフェルナンド駅に向かっていた。バタアン州の州都バランガから北東へ車で1時間半ほどいったところに、その駅はある。現在、駅としては利用されていないが、駅舎は残されている。
道路脇には「死の行進」を伝えるあの白い碑が1キロごとに建ち、行進の距離を示していた。
行進を文字通り生き抜き、駅にたどり着いた捕虜たち。最悪は脱したと思われたが、次に待っていたのは、すし詰め状態での列車移動だった。約18平方メートル、11畳ほどの貨車に100人もの捕虜が押し込められたと言われる。真っ暗で、換気は悪く、暑苦しい。中には列車の中で立ったまま死んでいった人もおり、下車後、生きている捕虜たちは遺体となった仲間を運び出し、線路脇に並べたという。
そして、駅からオドネル収容所まで再び歩き、ようやく「死の行進」は終わった。だが、収容所でも食糧や薬が与えられないなど、劣悪な環境は続き、多くの人が亡くなった。その後も、日本に送られ強制労働させられるなど、捕虜たちの過酷な日々は続いた。
日本軍の捕虜観から見る「加害」と「被害」
《殺したくない》《どうしてこんなことをしなければならないのか》ーー。
『バターン死の行進』(河出書房新社)には、パンティンガン川での捕虜虐殺を命じられた日本兵が、捕虜を銃剣で突き殺す様子が描かれている。なぜ、と葛藤を抱えながらも、上官の命令に従う以外の選択肢は彼らにはなかったことがうかがえる。さもなければ、彼ら自身が殺されたのだ。極限の状況の下、殺戮が行われていた。
行進を実行した一人ひとりの日本兵からすると、戦争によって、上官の命令への“絶対服従”によって、そうせざるを得ない状況があった。行進中は、日本兵の中にも飢餓や病気に苦しんだ人がいたという。
第二次世界大戦による日本軍人・軍属の犠牲者は約230万人にのぼる。民間人の犠牲者は約80万人。軍人・軍属の犠牲者のうちおおむね半数は餓死とされ、降伏できずに敵陣へ突撃し玉砕したケースもある。沖縄では強制集団死があった。捕虜になることが許されていれば、軍人も民間人もかなりの数の命が助かっていたと推測される。
日本の軍国主義の下で、人々は「死」以外の選択肢を奪われた。兵士も市民も、ひとりの人間としての「命」がないがしろにされていた。
一方で、捕虜は「死」以外の選択肢を選ぶことが許された人々だった。
もし太平洋戦争当時、日本軍が自国の兵士に捕虜になることを認めていたら。日本軍の「捕虜観」は「捕虜は恥」という極端なものとは違っていただろう。バタアン半島で、目の前に現れたアメリカやフィリピンの捕虜たちへの日本兵のまなざしは、虐待や虐殺につながる「見下し」や「侮蔑」とはまた別のものだったのではないだろうか。
「死の行進」の加害者は日本軍で、日本にその責任があることは間違いない。だが一方で、ひとつの国、ひとりの人の中には、戦時中の加害と被害の両方の側面がある。一面だけを見ていては、何かを見落としてしまう。
「加害と被害の両面から見ないと、戦争の真髄は見抜けないですよ」
バタアン半島へ向かう道中でHidekoさんが投げかけてくれたこの言葉を胸に留め、加害も被害も生まない未来について、考え続けたい。
(2023.11.27 / 田中えり)
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