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「やらされた」「しかたがなかった」という語りの危うさ―毒ガス製造の島が問う広島の加害の歴史

カタコトと軽快なリズムを奏でながら、呉線は海沿いをゆっくりと駆ける。その車窓から見える、瀬戸内海の穏やかな水面に浮かぶ島々の一つが、大久野島だ。

忠海港からのぞんだ大久野島。(安田菜津紀撮影)

今はその姿をゆっくりと眺めることができるが、かつては列車内の海側の窓は、全て遮蔽されていた。大久野島は、「地図から消された島」として、そこで行われていることのすべてが「機密」とされた。日本軍の工場では、毒ガスの製造が進められていたのだ。

岡田黎子さんの画集『大久野島・動員学徒』より。(安田菜津紀撮影)

大久野島は忠海港からフェリーで15分ほどの場所にある。ぐるりと一周しても4キロほどの小さな無人島だ。宿泊施設はあるものの、そこに「居住」している人はいない。

島には今も、ヒ素が入った筒が地中に埋められている場所もある。飲み水にもヒ素汚染の恐れがあり、ちょうど私たちが島に着いたとき、三原市から飲料水を運ぶ船の姿が桟橋にあった。

三原市から飲料水を運んできた船。(安田菜津紀撮影)



人間を使い捨てるサイクル

この島に毒ガス工場が作られはじめたのは1927年、毒ガス製造が始まったのは1929年だ。ただ、この島が軍事的に利用されるのは、これが初めてではない。日露戦争に際し、外国艦隊の侵入をにらんで、この島が要塞化された跡が、今も山中に残る。

毒ガス兵器は第一次世界大戦に用いられ、130万人を超える被害者を生み出す深刻な被害をもたらした。1925年、ジュネーブ議定書は、こうした毒ガスや生物兵器の使用を禁じた。

「日本はその時、積極的に賛成したんです。戦争での使用は禁止すべきだ、と。ところがその後、中国では2000回以上、日本軍が毒ガスを使っていることが分かっていきます」

この日は長らく平和ガイドを務めてきた、毒ガス島歴史研究所事務局長の山内正之さん、そして代表の静代さんが島を案内してくれた。

島内を案内してくれた山内正之さん。(安田菜津紀撮影)

正之さんが語るように、日本政府はこのジュネーブ条約に戦前、批准はしなかったものの、署名はしているのだ。「何が国際条約違反になるのか」も心得ていたはずだ。

当時、地図からも消されていた島の「秘密」が徐々に知られるようになっていったのは、1980年ごろからだと正之さんは語る。

「学者さんたちがアメリカの公文書から様々な資料を見つけてきました。毒ガス使用命令書や、陸軍習志野学校で教科書として使われていた毒ガスの実践例などもあります」

陸軍習志野学校案「支那事変ニ於ケル化学戦例証集」は、そのコピーが大久野島にある毒ガス資料館にも展示されているが、詳細は後述する。

長浦毒ガス貯蔵庫跡。(安田菜津紀撮影)

当時、大久野島で働いた人は把握されているだけで約6700人、大部分が近隣住民だった。

「毒ガス製造にあたる人たちの防護服は一人ひとつ配れるほどの数はなく、使いまわしだったうえ、質も悪かったようです。体調が悪くなると倉庫係などに配置換えされ、体調がある程度よくなると、また製造に戻される――いよいよまた体調が悪化すると、“医務解雇”として島から追放され、《ここで見たことは口外しない、破れば軍法会議にかけられても構わない》という念書を書かされ、死刑になる可能性があると脅しをかけられて、解雇されていったそうです」

「戦争遂行」という大義のため、人間を部品のように扱い、使い捨てていくサイクルが、この島にも存在したのだ。

正之さんたちが「幹部用防空壕」の跡地も案内してくれた。コンクリートの頑丈なつくりで、当時は中に電気もつくようになっていたようだ。他方、動員学徒たちは、自分たちで掘った「たこつぼ」に逃げるよう指示されていた。「たこつぼ」とは、1.5メートルほどの深さの小さな穴を掘って、草木を上から被せただけの簡素なものだ。露骨な格差だった。

「戦争は誰を守ろうとしているのか?と、ここを訪れる子どもたちには問いかけます」

正之さんの掲げる写真の上が「たこつぼ」、下が幹部用防空壕内部。(安田菜津紀撮影)



裁かれなかった毒ガス使用

障害を負うことになった人々の支援は、1954年、ようやく軍属から始まっていく。

「その前にもたくさんの人が死んでいきましたし、中には自殺した人もいます。国際条約違反の毒ガス戦のことが知られていくことを警戒したんでしょう。ずっと毒ガス障害を放っておいたんです」

動員学徒にもなんとか医療援助が及ぶようになったのが1975年、軍属との格差が是正されたのが2001年だ。ただ支援は限定的であり、かつ「毒ガス障害者援護法」として法制化されているわけではない。

日本軍の毒ガスは主に中国で使われ、死傷者は8~9万人と推計されている。敗戦にともない、毒ガスは中国に大量に遺棄されていくが、何も知らない現地の人々が戦後、それらに触れ、被害が拡大していくことになる。それでも中国人被害者に対する日本政府からの公的な救済措置はなく、公式の謝罪もないままだ。

本来であれば日本が敗戦を迎えた際、こうした毒ガス使用もふくめて東京裁判で裁かれるべきだった。

「ところが米国がストップをかけます。結局、世界にも日本の中にも、毒ガス戦のことは知らされないままになってしまいました。米国が持つ毒ガス戦の能力を維持したかったのでしょう。東京裁判で日本を裁いてしまえば、自分たちもそれを使いにくくなるから困る。もし東京裁判で日本に責任をとらせ、悲惨な歴史を学んだら、ベトナムで米国はあんなに無茶はできなかったかもしれません」

その後のソ連との衝突をにらんだ米国の「思惑」によって、毒ガス使用とその被害が正面から顧みられることはなかった。そして正之さんの語るように、米国が使用した枯葉剤などの化学兵器が、ベトナム戦争で甚大な被害をもたらすことになった。

この島は日本の敗戦後も、なお、戦争と直結する場所だった。一時、米軍によって島は接収され、朝鮮戦争時にも米軍が利用していた。日露戦争から数えれば、三度の戦争にこの島が深く関わっていたことになる。

発電所跡地で。上が風船爆弾づくり、下がこの場所で行われていた、風船を実際にふくらませる万球テスト。どちらも岡田黎子さんが描いたもの。(安田菜津紀撮影)



中国への謝罪の旅

静代さんが、2022年に96歳で亡くなられた藤本安馬さんのことを語ってくれた。藤本さんが大久野島に行くことになったのは、14歳の時だった。その後、養成工として毒ガス製造に携わることになった。

「藤本さんはがんを発症されて、余命半年の宣告を受けても、自分が“人道兵器”だと教えられて一生懸命作ったもので被害者が出ていることから、『中国の人たちに謝るまでは死ねない』と語っていました」

藤本さんが訪れた中国、北坦村では、1942年5月27日、地下道に逃げ込んだ村人らに毒ガスが投げ込まれ、犠牲者は約800人といわれる。藤本さんはそこで、心からの謝罪を伝えた。

「肩の荷がおりましたね。楽になりましたか?」と記者に問われた藤本さんは、「ますます私は大きな荷物を背負って帰っています。日本政府に謝罪をしてもらうという大きな荷物を今背負っています」と答えたという。

「自分は毒ガスをつくる鬼だった、と生前におっしゃっていました。その鬼を育てたのは誰か? 軍国主義教育、国家ではないか。戦後の民主的教育の中で人間に立ち返ることができた、だから人間として行動しなければならない、と」

島内を案内してくれた静代さん。(安田菜津紀撮影)



「主体性」を持って責任を語る

当時の大久野島を知る人の中で、今も「語り」を続けている人がいる。

岡田黎子さんは、15歳のときに、この島に動員された。従事させられたのは毒ガスの製造ではなく、風船爆弾作りだったという。空に放たれた巨大な風船爆弾は気流に乗り、実際に米国本土で死者も出ている。

画集を手にする岡田さん。(安田菜津紀撮影)

ある時、島に生えている松をつまようじがわりに使った友人は、その後、歯茎や頬が腫れあがっていった。

「私たちが島から帰る頃には、松が枯死して真っ黒になっていましたね。毒ガスが島全体を覆っていたということなんでしょう」

日本が敗戦を迎える直前、岡田さんたちは毒ガスの原料の運び出しなどに従事させられ、「皆くしゃみが止まらなくなった」という。

「中身の説明はなかったし、戦争中は学徒を毒ガスに関わらせてはいけないはずだったんです」

岡田さんはその後、原爆投下後の広島で救護のために被爆もしている。それ自体も「恐ろしくて忘れられない体験」だというが、これまで一貫して語ってきたのは「加害の歴史」だった。

戦後、徐々に歴史を知っていく過程で、「自分も殺人兵器を作った加害者の一人」だと考えるようになった。画集「大久野島・動員学徒の語り」には、謝罪のメッセージを添えて米国、中国、韓国へ贈った。

岡田黎子さんの画集『大久野島・動員学徒』より。(安田菜津紀撮影)

「自分はやらされた」「あの頃は仕方がなかった」――戦争の中での加害行為や暴力への加担を、こうして「やった」ではなく「やらされた」と語っていく危うさに、岡田さんは警鐘を鳴らす。戦争を拒否するためには、「国の方向にべったりにならないように、自分で判断する主体性が必要」だと語る。

「国がやるからしょうがない、国が兵隊に行けというからしょうがない――そうではなく、自分の責任として感じて、これからの反戦平和を構築し、幸せに人生を全うしてほしい」と、次世代への願いも語る。

岡田さんが従事させられていた風船爆弾づくりは、大久野島の発電所で万球テストが行われていた。その場所は、朝鮮戦争時、米軍の弾薬置き場として利用された。その朝鮮戦争は今も「休戦」状態にある。現代に続く戦争加害に歯止めをかけるため、私たちは何を「主体的に」知る必要があるのだろうか。

発電場跡に残るMAG2の文字。MAGはMagazine(弾薬庫)の略だ。(安田菜津紀撮影)



「抗議」と展示の「変化」

先述の通り、大久野島には竹原市が管理運営する毒ガス資料館がある。ふと、展示の一角に目が留まった。

中国戦線での毒ガス使用の実践例が記述された、「支那事変ニ於ケル化学戦例証集」(陸軍習志野学校)が展示されているところに、下記のような但し書きが貼ってあったのだ。

※一般的に用いられた戦術ではなく、緊急的に対応した稀な事例である。(防衛省防衛研究所)

陸軍習志野学校といえば、毒ガス戦の教育と訓練が行われたとされる場だ。この「化学戦例証集」は、日中戦争開始から1942年までの、日本軍による毒ガス戦の例が56例、掲載されている。

「支那事変ニ於ケル化学戦例証集」に掲載された修水での作戦。「あか筒及びあか弾を大規模に使用し軍の敵前渡河を容易ならしめたる例」として掲載されている。(安田菜津紀撮影)

市の担当者によると、2020年12月に「ある団体の方」から指摘を受け、調査のために当時の市担当職員が「防衛省防衛研究所」へ直接問合せ、同年12月にただし書きを加えたのだという。

その「ある団体」とは…? 竹原市の担当者に尋ねても、「団体名については回答致しかねます。主な活動内容等も詳細に存じておりません」という回答が返ってくるのみだった。

果たしてここに収められている事例は、防衛研究所の見解通り、「緊急的に対応した稀な事例」なのだろうか。

中央大学名誉教授の吉見義明さんは、この「ただし書き」に疑問を呈する。

「致死性ガスは、国民党軍に対しては常用ではありませんが、実験的に使用したり、日本軍が危機的な状況になった時に使用していて、これは緊急的な使用といえるでしょう。共産党支配地域に対しては、致死性ガスを常用とまではいえないですが、かなり使用しているようです。一方、嘔吐性ガスは、中国戦線で、とくに1938年の武漢攻略戦以降常用しています」

「例証集」には、その嘔吐性ガスである「あか剤」を用いた作戦例が並び、大規模使用した例も含まれている。

1938年4月、閑院宮参謀総長が嘔吐性ガスの使用を許可する大陸指第110号を発令し、その「使用法」についてこう記されている。

「瓦斯使用の事実を秘匿し、其痕跡を残ささる如く注意するを要す」

これは嘔吐性ガスの使用が国際法に反するおそれがあることを、参謀本部が認識していたことを示しているとされる。

実は展示の内容が、「指摘」を受けて変わった例が他にもある。かつてアサヒグラフに掲載された、第六師団の写真だ。

『アサヒグラフ』に掲載された写真。(安田菜津紀撮影)

  

竹原市の担当者は、写真について、実際に「抗議」があったことを認め、毒ガス資料館の展示から2020年10月頃に外したと回答した。問題はこの写真自体への認識だ。

「旧日本軍の毒ガス戦の写真ではないと認識しております。この戦闘において毒ガスが使用された事実もございません」――竹原市の担当者からは、こんな言葉が返ってきた。

正直、この回答には驚いた。写真については、20年以上も前に「決着」がついていると考えていた。吉見義明さん著『毒ガス戦と日本軍』(2004年 岩波書店)に詳しいが、この写真自体は『アサヒグラフ』(1939年10月18日号)に掲載された、新墻河渡河作戦(1939年9月)のものであることが分かっている。

この光景を別の地点から撮影した写真を1984年10月、朝日新聞が「修水」で行われた作戦のものであると誤って掲載した。これに対しサンケイ新聞が、場所の誤りを指摘するだけではなく、「毒ガスではなくただの発煙筒の煙」であるという旧軍人たちの証言を大きく報じたのだ。果たして毒ガス資料館にかつて展示されていたこの写真も、「ただの発煙筒」なのだろうか。

しかし第十一軍の報告にも、「瓦斯(ガス)放射」(第一一軍司令部「呂集団軍状一般」)を行ったことが記されている。また、『毒ガス戦と日本軍』では、町尻部隊編『第六師団転戦実話』赣湘編(1940年)に掲載された兵士たちのこの日の体験記録を紹介している。

始めて見る化学戦です(平山宮栄伍長)


瓦斯(ガス)は友軍陣地を覆ひ始めました。早速、防毒面のお世話になりました。(府本良一軍曹)


未だ霧の様に瓦斯が残って居ますので、脱面の命令が出ません。頭がズキンゝと痛み出し、次第に感覚が痺れて来ました。(桑原信二)

その他、毒ガスが一部逆流し、物資運搬のため徴発されていた現地住民が被害に遭ったことや、ガスマスクが与えられなかった新兵がガスを吸って目も見えず口もきけなくなるほど苦しむ様子が細かに記されているものもあり、嘔吐性ガスの「効果」が示されている。

この写真のキャプションには「我が猛攻に炎々と燃える新墻河対岸を望んで進む皇軍の勇士」とあるが、燃えているのは「対岸」ではないことが写真を見れば分かる。吉見さんはこう記している。

「煙は対岸から出ているのではない。火災だというのもウソで、軍の検閲をパスするため、毒ガス使用の事実を隠す方便であることは明らかだろう」


「渡河部隊の所在を隠すために煙幕を併用することが普通なので、この煙の中には発煙筒の煙もあると思われる。しかし、これらの写真にあか筒から放射された毒ガス(嘔吐性ガス)も写っていることは確実なのである」

「防衛省の見解だから」「新聞で報じられていたから」――それを単に鵜呑みにしない「主体性」を持てるかが、現代を生きる私たちに問われているのではないだろうか。



Writerこの記事を書いたのは
Writer
フォトジャーナリスト安田菜津紀Natsuki Yasuda

1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『国籍と遺書、兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に』(ヘウレーカ)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

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