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長崎・被爆体験者訴訟で浮き彫りになった「司法と政治の貧困」

「われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられない」――1963年、米国による原爆投下を「国際法違反」とした「原爆裁判」の判決にはこうあった。裁判官のひとりであった三淵嘉子さんがモデルとなっているNHKドラマ『虎に翼』でも、この言い渡しのシーンが放映された。ドラマの裁判は幕を閉じたが、現実世界での原爆に関する訴訟は今も続く。どれも、「政治の貧困」がもたらす不作為が問われてきた。

9月9日、長崎地裁で「被爆体験者」が続けてきた訴訟の判決が下された。後述するが、それは被爆者と認める原告と認められない原告を分断する内容だった。

2024年9月9日、長崎地裁に入廷する前の原告たち。横断幕中央の帽子をかぶっている女性が原告団長の岩永さん。(安田菜津紀撮影)



被爆者と線引きされてきた「被爆体験者」

長崎の「被爆地域」は、原爆投下時の行政区域をもとにしている。爆心地から12キロ圏内で原爆に遭っても、国の指定する「被爆地域」外にいた人々は「被爆体験者」として、被爆者と線引きされてきた。

被爆当時、9歳だった原告団長の岩永千代子さんは、爆心地から約10.5キロのところにいたという。同じ家族の中でも、旧市内にいた姉は被爆者だ。

当時、近隣に水道設備はなく、井戸水や、近くの岩場の水を汲んで、生活用水にしていた。岩永さんもバケツいっぱいの水をせっせと自宅の甕(かめ)に運んでいたという。

原爆投下から1週間ほどして、岩永さんの体に異変が表れる。歯茎から出血し、顔がぱんぱんに腫れた。のどにいがいがした感覚を覚え、圧迫感を感じることもあった。直後の症状に留まらず、大人になってからも、放射線の影響が疑われる症状に次々と見舞われ、50代になってからは「甲状腺異常」と診断されている。

判決後の集会で示された被爆地域、被爆体験者の地域を示す地図。黄色で示されている部分に該当するのが被爆体験者。(安田菜津紀撮影)



広島「黒い雨」訴訟後も残る「差別」

8月9日、長崎への原爆投下から79年という日、首相と被爆者団体との面会の場で、被爆体験者の参加が初めて叶った。

テーブルをはさみ岸田首相と向き合った岩永さんは、この場で直接声を届けることができなかった被爆体験者が描いた絵を示し、彼女たちの体験を伝えた上、はっきりとした口調でこう語った。

「総理に申し上げます。私たちは被爆者ではないのでしょうか」

「私たちは、政府に抗議しているのではありません。余命短いからと哀れみを請うているのでもありません。ありのままを伝えているのです」

2021年、広島の「黒い雨」訴訟の高裁判決は、内部被曝の高い危険性を指摘した上で、原告84人全員を被爆者と認めた。判決文にはこうある。

《黒い雨に放射性降下物が含まれていた可能性があったことから、雨に直接打たれた者は無論のこと、たとえ雨に打たれていなくても、空気中に滞留する放射性微粒子を吸引したり、混入した飲料水・井戸水を飲んだり、付着した野菜を摂取したりして微粒子を体内に取り込むことで、内部被曝による健康被害を受ける可能性があった――》

つまり、科学的証明を原告側に求めず、原爆の放射線により健康被害が生じたことを否定できなければ「被爆者である」という判断だった。翌年4月からは被爆者認定の新基準運用が始まったものの、「たとえ雨に打たれていなくても」という高裁判決に反し、「黒い雨」を浴びたと確認できること、そして一定の疾患を発病していることが条件とされてしまった。そしてこの新基準運用でも、長崎の「被爆体験者」は対象外だ。

岩永さんは岸田首相にこう続けた。

「広島の黒い雨体験者を被爆者と認め、既に手帳を交付しています。同じような状況の私たちを認めていないのは、憲法14条の法の下の平等に反し、これは差別です」



岸田首相から、具体的な言葉はなく……

岸田首相は一通り出席者の話を聞き、被爆体験者についてはこう語った。

「政府としては被爆体験による疾患などへの医療費の助成を行うとともに、昨年4月から一部のがんも助成対象に追加するなど、被爆体験者の支援に努めているところ」

「被爆体験者」の健康被害は否定されてきた一方、「精神的な影響」のみは認められ、精神疾患やその「合併症」に限り医療費が補助される支援事業が行われてきた。確かに首相が語ったように、2023年4月からは、7種のがんについても医療費助成の対象にはなっているが、政府が正面から被害を認めてのものではない。

これは「合併症と発がん性の関連を研究する事業」として位置付けられ、医療費はその「研究協力」への対価として支払われるという、なんとも歪んだ仕組みだ。そして受けられる支援には、被爆者となお、格差がある。岩永さんらが求めてきたのは、そんな「小手先」の解決策ではない。

「政府として早急に課題を合理的に解決できるよう厚生労働大臣において長崎県、長崎市を含め具体的な対応策を調整するよう指示をいたします」

この日、岸田首相はこう述べるに留め、具体的な「進展」への言及はなかった。会合の終了が司会者からアナウンスされると、我慢できず声をあげた人がいた。

「被爆体験者は、被爆者じゃないんですか!」

被爆体験者を長年支援してきた、被爆2世の平野伸人さんだった。しばらくその様子を、苦笑いのような表情を浮かべ見ていた首相は、やがて立ち上がり、平野さんの元に歩み寄った。平野さんによると、「厚労大臣にしっかり指示をする」という趣旨のことを述べたという。

平野さんに歩み寄る岸田首相。(安田菜津紀撮影)

この「歩み寄り」の動画がネット上で拡散されると、「これはいい対応」「評価できる」というコメントも見受けられたが、果たしてそうだろうか。

岩永さんは、岸田氏が首相となった当時、広島選出の政治家が首相になったと喜び、大いに期待していたという。しかし2021年の就任から3年が経った今なお、岩永さんたちは裁判で争わなければならない状況に置かれている。

岸田首相の振る舞いも、その後、厚労大臣が続けて話を聞き、出席者にやはり歩み寄ったのも、関係者からは「水俣病患者のマイクを切って批判を浴びたばかりだから手厚く対応しているのだろう」という冷ややかな声も聞かれた。

岸田首相が総裁選「不出馬」を表明したのは、この面会のわずか5日後だった。



高まっていた期待、法廷での戸惑い

そして9月9日の判決だ。2007年から始まっていった被爆体験者の先行訴訟は、2019年までに敗訴が確定していた。爆心地から12キロ圏内に「いた」にも関わらず被爆者として認められないのは「著しい不平等」であると訴えたが、放射線による「急性症状」があったと推認できないなどと判断された。

そして原告の一部が2018年以降、被爆者認定を求め再提訴し、放射性降下物(放射能を帯びて降ってくる灰やチリなど)の影響について、1945年9~10月に米・マンハッタン調査団が測定した残留放射線量の報告書などを証拠とて訴えた。2021年の広島「黒い雨」訴訟の判決を踏まえ、長崎地裁がどう判断するのかが注目された。

被告側である長崎県・長崎市は「原告の主張する健康被害は当時の食糧難や環境衛生などで発症し得る」として、訴えを退けるよう求めてきた。

判決の日は、被爆体験者が岸田首相と面会して、ちょうど1ヵ月の日でもあった。傍聴席の平野さんは、落ち着かない様子で言い渡しを待ちながらこう語る。

「この1ヵ月でもできることがあったはず。首相を辞めるにしても、約束は守ってほしい」

原告44名のうちすでに4人の方が亡くなっている。長い闘いを経てきた被爆体験者たちが、今日こそ望んでいた判決を手にできるのか――。広島高裁で優れた判決が出された後だっただけに、期待は高まっていた。

判決言い渡し時、淡々と原告の番号が読み上げられ、被爆者と認める内容が言い渡された。一瞬、平野さんがガッツポーズをとる。けれどもそこで読み上げられた原告番号は飛び飛びだ。最初の読み上げから漏れた番号に「棄却」が突きつけられ、理由が伝えられることなく閉廷を迎えた。これはどういうことなのか…? 傍聴席にも原告席にも戸惑いが広がった。



原告に分断を持ち込んだ判決

結論としては、被爆者として認められたのは、わずか15名(うち2名はすでに亡くなっている)だった。原告団長である岩永さんの名もその中にはない。

支援者らに支えられながら裁判所を後にした岩永さんは、「なんだか力が抜けちゃった」と落胆の色をにじませた。

15名はいずれも、「平成11年度原子爆弾被爆未指定地域証言調査」で「黒い雨が降った」証言が多く残っている、現在の長崎市の東部(東長崎地区)にいた。そのことを持って「蓋然性が高い」と判断されたのだ。

しかし雨は放射性降下物のひとつの形態でしかない。雨は肯定され、灰やチリなど他の降下物が否定されるのはなぜなのか、報告集会でも疑問の声が絶えなかった。

原告弁護団の足立修一弁護士は広島「黒い雨」訴訟でも代理人を務めている。

「広島高裁判決を後退させてしまった。あの判決にのっとれば、長崎でも全員が認められるはずだった。広島は爆心地から40キロ先まで影響が認められ、被爆者手帳も交付されている。ところが長崎は、12キロの範囲ですら、放射性降下物がばらまかれたことをなかったことにしてしまう――分断を持ち込む極めて悪質な判決だ」。

中鋪美香弁護士は、「合理的な根拠や一定の科学的根拠」の立証責任を原告側に求める内容に疑問を呈する。

「広島高裁判決は被爆者援護法の1条3項(原子爆弾が投下された際又はその後において、身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者)の解釈について、“可能性が否定できない”ということを示せれば足りるのだとして、原告の立証責任を転換あるいは軽減さていました。ところが長崎は、高度の蓋然性を原告が証明しなければならないとして、広島よりも厳しい内容になっています」

体を支えられながら長崎地裁から出てくる岩永さん。(安田菜津紀撮影)



なぜ「黒い雨」が基準なのか?

なぜここまで、「雨」にこだわる判決になったのか――?

先述の通り広島の高裁判決では、原爆の放射線により健康被害が生じたことを否定できなければ、「たとえ雨に打たれてなくても」被爆者として認める内容だった。ところがその後の被爆者認定の新基準運用では、「黒い雨」を浴びたと確認できること、そして一定の疾患を発病していることが条件とされてしまった。政治判断は「雨」に固執し、認定の範疇を判決よりも狭めたのだ。

「新基準に合わせるように判決を作り上げたように読める」と中鋪弁護士は分析する。しかしこの判断が固定化されれば、「黒い雨」だけが放射性降下物のように伝わってしまうのではないか。

岩永さんは記者団と支援者らを前に、「分断されたのは意味不明。判決は不合理そのもの。(爆心地から12キロ圏内に限らず)まだ埋もれている人もたくさんいる。疑わしくは救うという姿勢で望んでほしい」と語り、こう続けた。

「私たちは超高齢者ですが、ひるまない。先生たちと死ぬまで戦う」

判決後の集会で発言する岩永さん(左)。(安田菜津紀撮影)



顧みられてこなかった内部被曝

岩永さんは従前から、内部被曝被害について訴えてきた。日米両政府の思惑の中で、残留放射線、内部被曝の被害がどのように「なかったこと」にされてきたかは、下記記事に、奈良大学教授・歴史家の高橋博子さんのコメントと共に記している。

原爆投下の批判をかわしながら、核開発を推し進めようとする米国は、残留放射線や内部被曝について把握しながらも、表向きにはそれを否定し、「原子爆弾は、威力はあるが残酷な兵器ではなかった」というストーリーを作り上げていった。

そして日本政府もまた、そのストーリーをなぞり、むしろ補強していく。核兵器の非人道性を訴えるどころか、その“威力”を重視し、有効性を米国とともに世界に発信してきたのだ。こうした国家の「大義」からこぼれ落ちる被害は顧みられてこなかった。

長崎での判決を読んだ高橋さんに、下記のようにコメントを寄せて頂いた。

司法の貧困を嘆く

司法と政治の貧困を嘆かざるを得ないような判決である。「長崎被爆体験者」の「被爆者健康手帳等交付事件」の判決文を読んで、「西山地区」をはじめとする地域への放射性降下物を認めるよう判決を下したことは当然だと思ったけれども、それ以外の原告の訴えを却下したことに対しては、被告側が提供している被ばく者切り捨て政策そのものを適用していると思った。広島高裁での判決と違うところは内部被曝を認めていないところである。これは2021年7月の菅首相の談話を踏襲したものではないか。

内部被曝については被告側の論説をそのまま踏襲していて、独自に検証・判断しているとは思えない。例えば、マンハッタン管区調査団のデータが地上1メートルで計測していないから信頼できない(マンハッタン調査団は地上5cmの高さで放射線の線量率を測定)、としているところである。「長崎被爆体験者」の平均年齢は85歳。原爆投下当時5歳、ということになる。「e-Stat 政府統計の総合窓口 統計で見る日本」によると、1948年の5歳の平均身長は 103.7cmなので、1メートル上で測るということは、5歳の子どもの頭のてっぺんあたりを測るということになる。原告団長の岩永千代子さんも当時9歳だったので、平均身長は121.9、ということは、決して子どもたちへの影響を反映した高さではない。またこの距離だと、内部被曝に深刻な影響のあるアルファ線やベータ線は届かない。マンハッタン計画での測り方の方がより信憑性があるのではないだろうか? 実際NHKスペシャル『原爆初動調査:隠された真実』(初回放送2021年8月9日)で紹介された海軍報告書でも、「放射線測定器を地上1メートルの所から、地上5センチへ移動させると測定器の針は倍増した」とある。

また、乳製品を食していないから内部被曝はないとする、かなりずさんな論理となっている。乳製品の調査については1950年代の核実験の影響調査の結果、豊富なデータがあるのであり、それ以外の食品には内部被曝の影響がないという論拠にはならない。



政治の貧困を嘆く

米軍は残留放射線調査を実施してきたが(1950年の調査も含めて)、日本政府は残留放射線の調査を包括的にも継続的にも行なってこなかった。1975年にABCC(米政府が設置した原爆傷害調査委員会)から放射線影響研究所(RERF)に代わり、日米共同運営機関となった時、日本側は厚生省が、アメリカ側はエネルギー省という核開発機関が予算を提供してきた。日本政府としてABCCの資料を受け継ぎ、その内容を把握する責任があるはずだが、それを行っていない。

1950年に米軍とABCCによる広島・長崎の残留放射線(Fallout)調査が実施された。2021年2月に第一種健康診断特定地域検証委員会の第2回において増田善信構成員が、私の論考に基づいてその関連資料を請求し、2021年3月に厚生労働省側がその調査について提出するまで、この調査そのものが無かったことにされてきた。つまり、政府側は関連資料を隠してきておいて、「科学的論拠がない」と言っているのである。

2024年、長崎被爆地域拡大協議会は日本政府へさらなる文書の検証と開示を求めた。その要望に対して厚生労働省は「米国の機密文書の開示について、厚生労働省として回答できない。ご指摘の資料については、現在、民間事業者に委託して捜索しているところである。国防総省特殊兵器計画、テキサス医療センター図書館カールテスマーABCC所長のコレクションについては、どのようなものか承知しておらず、お答えできない」と回答した。「どのようなものか承知していない」のであれば、どのようなものなのかなぜ調べないのだろうか?

政府側が強調してきた「原爆放射能による健康影響を受けたとする科学的知見」。この理屈が成り立つためにはこれまで日本政府側でも充分なデータに基づいて被災者である日本国民の命に関わる調査をしてきたことが前提だと思うが、それを日本政府はしてこなかった。米軍機密資料については、収集のための努力をするどころか「回答できない」としてきた。厚生労働省が管轄する放射線影響研究所に関連するカール・テスマーABCC所長の資料さえ把握していない、という回答である。

日本政府の被爆者行政のあり方として、極めて不誠実であり、政治の貧困そのものである。これ以上被爆者に対して不必要な苦しみを与え続け、切り捨てるような非人道的行為を直ちに止めるべきである。

冒頭で触れた『虎に翼』の原爆裁判でも、内部被曝を思わせるような描写はなかった。

被爆体験者の平均年齢は約85歳だ。ただ岩永さんの「余命短いからと哀れみを請うているのでもありません」という言葉を思い返したい。公権力が方針を改めなければならないのは、被害者が「高齢だから」ではない。「政治の貧困」によって救済すべき責任と向き合ってこなかったことを、根本から正す必要があるのではないか。



Writerこの記事を書いたのは
Writer
フォトジャーナリスト安田菜津紀Natsuki Yasuda

1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『国籍と遺書、兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に』(ヘウレーカ)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

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