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「市民運動は“アカ”」―付きまとうレッテル、それでも韓国・民主主義を前に進めるため声をあげる(韓国取材報告:前編)

その日もいつも通り、寝つきの悪い夜だった。2024年12月4日早朝、ふとまた目が覚めてしまったパク・ヨンスン(朴泳順)さんは、どうせ眠れないならとテレビをつけた。次の瞬間、目に飛び込んできた映像に釘付けになり、動悸が激しくなった。民主化を成し遂げたはずの現代に、戒厳軍が再び市民の前に現れ、武装して国会に突入しようとしている――。

その前夜にあたる12月3日、尹錫悦大統領(当時)は突如戒厳を宣布し、一切の政治活動を禁止した。

ヨンスンさんの脳裏には、40年前の記憶がありありとよみがえっていた。

自宅でヘグムと呼ばれる楽器を奏でるヨンスンさん。(安田菜津紀撮影)



「5.18に閉じ込められて生きてきた」

1979年10月、独裁体制を敷いた韓国・パク・チョンヒ(朴正煕)大統領が暗殺され、これで時代が変わるだろうと、民主化を求める市民たちは湧き立った。ところが、ほどなくしてチョン・ドゥファン(全斗煥)氏らがクーデターを起こし、「新軍部」を名乗る。軍事独裁体制は、崩れなかった。

1980年5月、光州は民主化運動と、それを弾圧する軍による暴力の渦中にあった。大規模な発砲に打って出た軍に対し、一部市民が自衛のために武器を取らざるをえなくなった。国楽を学ぶ学生として、伝統楽器・伽耶琴(カヤグム)と歌を得意としたヨンスンさんの声はよく通り、27日早朝、軍の制圧直前、市民たちが拠点としていた当時の道庁舎から、街に向けた最後の放送を担った。

「市民の皆さん、戒厳軍が攻めてきます。私たちは最後のひとりまで戦います。私たちを、忘れないで下さい」

この放送直後、戒厳軍が庁舎になだれ込み、連行されたヨンスンさんは、凄まじい拷問を受けることになる。

現在、改修工事中の当時の道庁舎。(安田菜津紀撮影)

当時の市民たちの運動は、日付を取り、「5.18民主化運動」と呼ばれる。4月末、光州の自宅で取材に応じてくれたヨンスンさんは、「私はずっと、“5.18”に閉じ込められて生きている」と、ぽつりと語った。

「私はもともと夢が多く、やりたいことがたくさんあった人間なのに、45年間押し殺して生きてきました。この社会で女性が“前科者”になり、”暴徒”のレッテルを貼られ、学校も辞めさせられれば、まともな生活はできません」



今も巣食うデマ、続くトラウマ

2015年にようやく再審無罪となったが、ときに出身や名前まで偽りながら、ごく最近まで、息をひそめるように生きてきたという。それでも再び声をあげざるをえなかったのは、民主化運動に対するデマが今も絶えないからだ。「アカの仕業」「北朝鮮が介入した暴動」という不当な“レッテル”は、社会に根深く巣くう。

「たとえば評論家のチ・マンウォン氏のような人たちが、今も継続的に5.18を貶めています。光州で生まれ、光州で小中高大学まで通った私を、“北から送られた女優工作員”というのです」

こうした「過激主義者」たちの発言は、民主主義の「毒」だとヨンスンさんは言う。戒厳を宣布した尹前大統領もまた、「北朝鮮に同調する勢力が政権の弱体化を狙っている」と、持論を展開していた。

「12月以前から、戒厳の噂が広まっていましたが、まさか本当に実行するとは驚きでした。ましてや個人的な不満や政治的な理由で、国民を二の次にした独裁的な手段としての非常戒厳はありえないでしょう」

現地報道によると、戒厳宣布からの約10日間で、光州トラウマセンターには、訪問相談84件、電話相談42件が寄せられたという。ヨンスンさんも不眠や不安症状に長年悩まされてきたが、戒厳宣布は、より当時の記憶を鮮明にさせ、とめどなく怒りが溢れたという。

「いつまでこの苦しみが続くのか、自分が死ねば終わるのかと考えたこともあります。けれども私が死んだところで、デマを拡散する人たちがいる以上、ことは終わりません」

全日ビル245の「5.18記念空間」には、様々なフェイクニュースと、それに対する「真実」を知るための展示室がある。(安田菜津紀撮影)

今の願いは、憲法前文への光州民主化運動の精神の明記が実現し、国家暴力に対抗する姿勢がより明確に示されることだ。憲法への明記は、大統領ごとに、あの尹氏さえ当初掲げていたが、いまだ実現されていない。

「大統領選挙が6月3日に決まっていますよね。実はそれが、慰めになっています。とにかく、再び民主主義が動き出すのだと考えることができますから」



89年生まれでも戒厳は「暗い記憶」

戒厳宣布当日、「身を挺して軍を阻止し、反対の声をあげる人々がいたからこそ、民主主義は維持され、国家暴力に対抗できました」と、ヨンスンさんは強く語った。まさにその渦中で奮闘していた若者たちがいる。

「武器など持たない市民が、軍の装甲車やバスを取り囲み阻止しました。戒厳が宣布されたことだけでなく、こうして市民が素手で抵抗したことも衝撃的でした」

そう語るのは、1,700余りの市民団体の集合体「尹錫悦即刻退陣社会大改革非常行動」で、事務局長を務めたシム・ギュヒョプさんだ。尹氏が退陣した今、集合体は「内乱清算社会大改革非常行動」(以下、「非常行動」)と名を変えている。内部で中心的に活動するメンバーは、それぞれの市民団体に所属しながら、この実行部門に「派遣」されている。

ソウル市内で取材に応じてくれたシム・ギュヒョプさん(左)とパク・ミンジュさん。(安田菜津紀撮影)

民主化後の1989年生まれのギュヒョプさんにとっても、歴史教育やこれまでの活動を通し、戒厳は「恐ろしくて暗い記憶」として刻まれていた。そして同時に、「リアルな感覚も存在していた」と言う。

「たとえば韓国には国家保安法があり、私が所属する市民団体も、戒厳の前にこの法が適用されて、事務所に強制捜査が入りました。文在寅政権のとき、統一部(国家行政機関)の許可を取って南北の交流事業をやろうとしたにも関わらず、それについて捜査をするというのです」

尹大統領は、国会で通過した法案に拒否権を乱発していたため、戒厳前には「拒否権を拒否する全国非常行動」という大きな集会が続き、12月3日、ギュヒョプさんは週末のデモに向けての準備を進めていた。

「戒厳の一報を聞いて、これは家に帰っている場合ではない、ひとまず国会に行かなければと思いました。ただ、全員逮捕される可能性もあり、国会に行くチームと、バックアップ対応するチームに分けました」

国会に向かうチームだったギュヒョプさんがそこで目にしたのが、極寒の中、戒厳軍に毅然と対峙する市民たちの姿だった。



男女の行動差、メディアの影響も懸念

その週末デモには、若年世代の姿が目立ち、通信データの分析などから、20代の女性の参加率が最も高かった(18.9%)と報じられている。

「朴槿恵政権の弾劾集会は、80年代に大学に通った60年代生まれの世代、つまり民主化運動に加わっていた、40代、50代の年齢層が中心でした。今回の集会は20代、30代の女性が圧倒的に多く、アイドル応援棒を持って参加する姿もあり、ファンダム文化が集会に加わってきたのは大きな変化」とギュヒョプさんも感じているという。

1997年生まれのパク・ミンジュさんは、「非常行動」で行進の責任者や司会、集会の企画を担ってきた。

「ファンダム文化はコミュニティを通じてアイドルの情報を交換したり、“共にある文化”だと思っています。それが運動とマッチしていたのではないかと思います」

ただ、それだけでは語り切れない構造の問題も存在していると、ミンジュさんは指摘する。

「何よりも韓国には、男女の賃金格差、女性がどうしても社会的に出世することができないガラスの天井など、性差別的な構造の問題があります。女性たちはそこに問題意識を持ち、討論もしてきました。だからこそ社会問題に対する機敏さに、男女で差があるのではないかと考えています」

2022年9月14日、地下鉄新堂駅のトイレで、女性駅員が、ストーキング行為を繰り返していた男性同僚に殺害される事件が起きた。「フェミサイドをやめて」「ここは男だけが守られる社会」――駅出口の壁は、追悼や憤りの言葉を記したカードで埋め尽くされていた。(安田菜津紀撮影)

その女性差別を大いに利用したのが尹氏だった。徴兵制のある韓国では、「軍隊に行っても加算点がなく男性差別だ」、「男性こそ被害者だ」といった不満が一部にあり、尹氏もそれを煽るように、大統領選中から「女性家族部廃止」などを打ち出してきた。戒厳後の週末、最も参加率が高い20代の女性に対し、20代男性の参加率は最も低い3.3%だったとされる。

「ただ、若い男性たちがみな、嫌で現場に来ていなかったとは考えていません。現場に来ていた方もいますし、現場に来るまでに何かしらの葛藤が存在したと考えます」と、ミンジュさんは語る。

「実際に同じ年代の男性に聞いてみると 、集会に関心がないのではなく、たとえば弾劾で自分の生活で何が変わるのか確信が持てない、それなら集会に行く時間を使って、就職のための勉強をしたり結婚の準備をしようと、それぞれが孤軍奮闘していたように思います」

加えてメディアが「戒厳に反対する人には女性が多い、賛成する人には男性が多い」という枠組みを、必要以上に作り上げてしまったことも懸念しているという。

「戒厳に反対する集会に20代の女性が多く参加したのは事実ですが、メディアがあたかも、“戒厳に反対するのは女性たちの空間”かのように報じたり、逆に保守的なメディアが“弾劾に反対する集会、尹を支持する集会が保守の男性の居場所”なんだと位置づけてしまい、性別によって分かれたかのように報じてしまったことも影響しているのではないかと思います。こうして尹政権を支持する集会に来る20代、30代の男性が、本来の姿よりも大きく、サンプルのように扱われているのではないでしょうか」

3月8日に尹前大統領が拘置所から釈放されたことを受けて、それに抗議するデモが翌週光化門前広場で行われた。(写真提供:曺美樹さん)



「最小の綱領と最大の連帯」

どのように「断絶」ではない社会を目指していくのか。それは「非常行動」の理念にも表れている。1,700もの市民団体が行動をともにするのは容易なことではないが、 「最小の綱領と最大の連帯」を原則にしているとギュヒョプさんは語る。

「様々な運動のスタイルや意見があり、それを最大限合意しようとしてきたので、外からは進みが遅く思われたかもしれません。ただ、そうした議論を重ねることで、意味のある運動ができるのではないかと考えています」

ただ、「速度」に対するジレンマを、ギュヒョプさん自身は抱えていた。非常行動では、瞬く間に拡散するフェイクニュースに対応するメディアチームも作っているが、「市民運動は“アカ”だ」といった言説は常に付きまとう。購読者の多い既存メディアが、市民運動を反国家勢力かのように扱ってきたことも一因だとギュヒョプさんは分析する。

一方、ミンジュさんは「必ずしも速度が重要だとは思わない」という。

「尹氏に同調したような人たちが、“選挙に中国人が介入した”、“スパイがたくさんいる”と様々なフェイクニュースをばらまいて嫌悪感情を煽ってきましたが、彼らは結局、尹氏の罷免を防ぐことはできなかったでしょう」

これまでの歴史も振り返っても、戒厳は南北分断の実情を背景に、「北朝鮮が攻めてくる」等を建前として宣布されてきた。現代における「民主党政権になれば北朝鮮に国を乗っ取られてしまう」といったフェイクニュース氾濫の背景に、「“アカ”は殺してもいい」等の“反共の情緒”が残る限り、問題は拡大再生産されていくとミンジュさんは指摘する。

「“100年の積弊”という言葉があります。韓国では100年間、一部の勢力が人々を弾圧して、生活を苦しめてきました。その人たちは政権を維持するための手段として、市民運動が北朝鮮に操られているなどと言ったり、女性嫌悪を煽ったり、貧しい人とより貧しい人との間で葛藤問題をわざと引き起こして、自分たちの権力強化につなげてきました」

光州民主化運動の中心地となった、旧道庁舎前の広場。(安田菜津紀撮影)



日本の植民地支配と地続きの今

ミンジュさんが言う「100年」には、当然、日本の植民地時代も含まれている。力と恐怖で民主化を求める声をねじ伏せようとしてきた韓国の軍事政権は、日帝による支配構造が受け継がれてしまったものだ。韓国の国家保安法も、元をたどれば日帝の治安維持法を下地にしている。

尹氏の戒厳宣布後、「韓国の民主主義は脆い」などと、見下すような言説が一部で見受けられたが、そもそもそれは日本の歴史や社会と地続きの問題であり、「隣国の政局の問題」と切り離せるものではない。

民主化を市民の手で成し遂げてきた歴史を経て今があるが、その過程で多大な犠牲を強いられたこと、ヨンスンさんのように、今も苦しみの中にいる人々がいることを、置き去りにしてはならないだろう。



Writerこの記事を書いたのは
Writer
フォトジャーナリスト安田菜津紀Natsuki Yasuda

1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『国籍と遺書、兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に』(ヘウレーカ)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

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