「炭鉱労働者たちは消耗品だった」―遺骨捜索続く長生炭鉱、韓国遺族会会長の思い

薄曇りの空から、時折小雨がぱらつく日だった。春先とはいえ、海風はまだ、かすかな冷たさを宿している。海岸からは排気・排水筒である2本の「ピーヤ」が並んでいるのが見える。2025年4月、この日は山口県宇部市の長生炭鉱で、日韓のダイバーたちによる合同潜水調査が行われ、韓国から駆けつけた遺族たちも、固唾を呑んでその様子を見守った。
長生炭鉱は、かつて床波海岸に存在した海底炭鉱だ。戦時下の増産体制のもと、多くの石炭産出が求められる中、事故は起きた。1942年2月、坑口からおよそ1km奥へ入った坑道の天盤が崩壊。海水が浸水し、183名もの坑内労働者が犠牲となった。そのうち136人は、植民地支配下であった朝鮮の人々だった。冷たい海に呑まれた遺体は、海底に眠ったままだ。
「長生炭鉱」は別名「朝鮮炭鉱」とも呼ばれるほど、労働者の大部分を朝鮮の人々に依存し、「安価な労働力」を踏み台に成長してきた企業だった。
「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」(以下、刻む会)は、2024年9月、長年の調査を経て、市民から募った資金をもとに、水没した炭鉱へとつながる坑口を発見した。しかし市民のみの自主的な活動に任せるだけでは、あまりに負担が大きい。そもそも戦時下で起きた事故に対し、なぜ公権力側が動こうとしないのか。
刻む会は戦前の名簿を頼りに朝鮮半島の住所に手紙を送り、1992年には韓国で遺族会が結成された。当時、20歳だった叔父の楊壬守(ヤンイムス)さんが犠牲となった、韓国遺族会会長、楊玄(ヤンヒョン)さんに、4月末、韓国・大田で今の思いを聞いた。
Contents 目次
どんなに辛い思いをしたのだろうか
――叔父の楊壬守さんのことを、ご家族からはどう聞いていましたか。
祖母から聞いたのは、「日本で徴用され亡くなった」ということだけでした。孫にあまり不吉な話をしないという風習もあり、それ以上、詳しいことは語りませんでした。
私自身は、1947年の生まれです。叔父は41年に、19歳で日本へ渡り、20歳で亡くなったとのことです。その後、日本からの手紙で長生炭鉱のことを知り、1993年には、実際に日本に行きました。叔父がどのような状況で連れていかれ、どんな環境で働いていたか、全く想像もしていませんでした。

韓国・大田でインタビューに応じる楊さん。(安田菜津紀撮影)
――初めて日本に向かうとき、どんな思いを抱いていましたか。
初めて日本へ向かう船に乗った時、とても気分が悪かったです。亡くなった叔父や多くの犠牲者たちが、船でどんなに辛い思いをしたのだろうかと考えると、胸が締め付けられました。私たちは、寝る場所もある旅でしたが、あの時、炭鉱へ連れていかれた人々の道中は、そんなものではなかったのですから。
――叔父さんが連れていかれた当時の状況で、どんなことが分かっていますか。
私の叔父もそうだったようですが、連行される時、田舎には炭鉱の募集人が来ていました。村ごとに割り当てがあり、必ず誰かが連れていかれます。(※1)
地域の巡査が労働者を集める村を決め、適当に人を選んだといいます。あるいは募集の際に、「日本に行けばたくさん食べられて、お金も稼げる」と説明し、騙して連れて行きました。田舎は重税で生活が苦しかったので、何が待ち受けているかも知らずに、そうした言葉につられていったのです。
当時叔父が住んでいた慶尚北道から釜山まで、汽車やトラックで、まるで荷物のように連れていかれたそうです。そして日本への連絡船に乗せられ、家畜用の船底に押し込まれ、トイレもまともにいけない状況で海を渡り、運ばれたと聞いています。
労働者の暮らす建物は高い壁に囲まれており、見張りも厳しく、出入りは制限されていました。どれだけ働いても、賃金もまともに払われず、脱走する人もいましたが、そうした人々はすぐに捕まり、酷いリンチをうけ、見せしめのために殺される人もいました。(※2)
(※1)1939年から「自由募集」方式、1942年から「官斡旋」方式で朝鮮人労働者が動員されていったが、「募集」「斡旋」も実際には供出人数が指定され、郡・面の職員や警察官らを背景に、意志に反する連行・動員が行われていたことが指摘されている。
下記は『昭和15年4月起 集団渡航朝鮮人有付記録』に残されている、「長生炭鉱」の鉱務課から朝鮮人労働者に対して行われた訓示の内容であるが、ここには戦争遂行という大義の元、働けば家族を楽にさせられるほどの賃金が得られるかもしれないこと、注意していれば誠に安全であることが記されていた。
皆様ヨク御出デニナリマシタ。サテ、皆様モ、カネテ御承知ノ通リ只今日本ハ戦争ヲ致シテ居リマス。就キマシテ吾々モ戦地ニコソ立タズ共第一線ニ居ル心持チデ、銃後ヲ守ラネバナラナイ重大ナ責任ガ御座マス。戦地ニハ、鉄砲ヤ大砲ヤ弾丸ヤ軍艦ナド、色々ナ機械ヲ沢山造ラネバナリマセン。其資材ヲ造ルニハ、第一ニ石炭ガ必要デス。其石炭ヲ掘ル皆様ノ一人一人ガ戦争ヲシテ居ル心持チデ一生懸命ニ作業ニ努メナクテハナリマセン。
ソレガ即チ産業報国デアリ、忠義トナリ、出炭賞与ヲ戴クトカ、或ハ意外ニ沢山ノ金儲トナリ、御家族ノ方ヲ内地ニ呼寄セラセテ楽シク暮ラストカ、又送金ヲシテ喜バセルトカ、云フ様ニナルノデス。(中略)
炭鉱ハ注意サエシテ居レバ誠ニ安心シテ作業ノ出キル所デアリマス。出典:「日本の長生炭鉱水没事故に関する真相調査」
(※2)元 長生炭鉱労働者 申世玉(シン・セオク)さんの証言
長生炭鉱の寮の中に入ったとたん、周囲は人の背の高さの二倍くらいの高い板で囲まれ、どれほど力があってもよじ上れないような塀でした。寮から逃げて、運悪く捕えられ再び連れ戻された時には、素っ裸にされ「鉱夫たち、皆みなさい、リンチがあるから」と言って、木刀ではなく革の帯を持って、命が亡くなる程リンチされました。出典:「証言・資料集【1】 アボジは海の底」

またすぐ宇部を訪れる予定だという楊さん。(安田菜津紀撮影)
消耗品として扱われていた労働者
――現場を目にしたとき、何を感じましたか。
ピーヤと、草に覆われた坑口周辺を初めて見た時、崩れ落ちるような衝撃を受けました。事故当時、「夫が死ぬなら私も死ぬ」と嘆く家族たちを、憲兵たちが統制し、中で生きている人たちもいるかもしれないのに、入口をふさいでしまったと聞き、ショックを受けました。
その頃、日本にとって石炭は重要なエネルギー源でした。武器を作るにも何をするにも、石炭しかない。国を挙げて石炭増産に力を入れており、割り当てられたノルマを達成しなければ、食事も与えられないような状況だったと聞きます。なのでみな、死に物狂いで石炭を掘っていたのでしょう。本来、当時の規定でも、海底面から40メートルに満たない場所での採掘は認められていなかったはずです。それでもノルマ達成のため、鉱夫たちは奥へと掘り進んでいったのです。
炭鉱で働く人々は、完全に消耗品として扱われていたのです。「死んだらまた募集してくればいい」というように。人間として、どれほど悔しかったでしょう。犠牲になった方々のことを考えると、本当に無念でなりません。

楊さんのアルバムから。93年には13人の遺族会が宇部を訪れ追悼行事を行った。(安田菜津紀撮影)
――昨年は坑口が発見されました。
初めて見た坑口から続く坑道は、幅が2メートル20センチ、高さが1メートル60センチほどで、私の身長とほぼ同じ高さです。そこにトロッコが通り、両側はやっと人がひとり通れるくらいの狭さです。当時の人々の話によると、練炭や水筒を持って坑口に入ると、まるでモグラのようだと感じたそうです。奥の採掘場も、いつ崩れるか分からない。うつ伏せになって作業するような場所もあり、まさに奴隷のような労働だったのだろうと思いました。
市民の寄付によって坑口が開かれたことは、素晴らしいことだと思います。政府がどれだけ人道主義を主張しても、市民のほうがよっぽど人道的です。ですが本来、もっと本格的な作業を、日本政府がやらなければならないでしょう。
――2004年に韓国の盧武鉉大統領(当時)が小泉純一郎首相(当時)に遺骨返還を求め、翌年から遺骨返還協議が始まりましたが、その後は滞っているのが現状です。
政府は「人道主義」「現実主義」「未来志向」などを掲げますが、その「現実主義」は目に見える遺骨のみに向けられ、見えないものは探さないという姿勢になってしまっています。
長生炭鉱ではまだ、犠牲者の遺骨も見つけられていませんが、その尊厳を回復しなければなりません。日本政府による謝罪ももちろん必要ですが、二度と同じ過ちを繰り返さないよう、誓わなければなりません。遺族だからと、賠償を求めているわけではないのです。みな同じ人間として、その尊厳を守りたいのです。

遺骨捜索の始まった長生炭鉱の坑口前の式典にて。前列右が楊さん。(安田菜津紀撮影)
国策による死の責任
廬武鉉大統領・小泉首相との日韓首脳会談が開かれた翌05年5月、第一回日韓政府協議において「双方は、朝鮮半島出身の旧軍人・軍属及び旧民間徴用者等の遺骨の問題に対しては、①人道主義、②現実主義、③未来志向の三つの原則に基づいて取り組んでいくことに合意した」と外務省は発表している。
厚生労働省は、自治体や雇用企業、寺院などに遺骨に情報提供を呼びかけたが、調査範囲は限られていた。過去、軍人・軍属の遺骨返還は一部で実現したことがあるものの、労働者らの遺骨が政府間で返還されるには至っていない。
2016年に制定された戦没者遺骨収集推進法は、遺骨収容を「国の責務」と定めているが、「戦没者」とは扱われていない長生炭鉱の犠牲者たちは、その法の外に置かれているのが現状だ。
けれども長生炭鉱の「水非常」が起きたのは、まさに「戦争遂行」が掲げられた国策の渦中だ。なぜ彼らは死ななければならなかったのか、その検証と反省は十分なのか、それを抜きにして「戦後」という言葉を用いることができるか。「公」としての責任が改めて問われている。

宇部の海岸に突き出たピーヤ。こちらからも市民が調査を進めている。(安田菜津紀撮影)
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フォトジャーナリスト安田菜津紀Natsuki Yasuda
1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『国籍と遺書、兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に』(ヘウレーカ)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。
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