無関心を関心に—境界線を越えた平和な世界を目指すNPOメディア

Articles記事

New

「どちらにも国策ゆえの背景」―福島と沖縄、遺骨捜索が浮き彫りにする不条理

沖縄県糸満市束辺名グスク周辺で発見された、戦没者の全身遺骨に手を合わせる具志堅隆松さんと木村紀夫さん。(安田菜津紀撮影)

蝉と鳥の声が絶えず響く山中は、梅雨明けとはいえ、ところどころ足元はぬかるみ、むせ返るような湿気がこもっていた。沖縄県糸満市束辺名(つかへな)グスク付近では、具志堅隆松さんをはじめ、遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」が活動を続けている。

ふと具志堅さんが、頭上に木々の生い茂る暗がりで足を止める。分かれ道を右に曲がれば、その上は集落の「拝所」だ。

「激戦地だった本島南部では、人の手が加わっていないところを1メートル四方でも掘ってみると、必ずと言っていいほど、戦争の痕跡、砲弾の破片などが出てきます」

そう言いながら具志堅さんが拾い上げたのは、以前発見したという、サビついた砲弾の破片だった。こうした断片が出てくるのは、沖縄戦以後の地層である証拠だ。そこには無数の遺骨が眠っている可能性がある。

山中の地表を掘る具志堅さんと木村さん。(安田菜津紀撮影)



福島県大熊町での遺骨捜索

具志堅さんは40年以上に渡り、戦没者遺骨の収集と、遺族に返す取り組みを続けている。「沖縄慰霊の日」の翌日である6月24日、福島県大熊町から訪れた木村紀夫さんを、遺骨捜索の現場に案内した。

木村さんは、東日本大震災の津波で父の王太朗(わたろう)さんと妻の深雪(みゆき)さんを亡くし、当時小学1年生だった次女の汐凪(ゆうな)さんは行方不明となった。

「自ら捜し続けたい」という木村さんの願いを阻んだのは、原発事故だった。環境省に依頼し、ようやく重機での捜索を開始すると、泥だらけのマフラーとともに、汐凪さんの小さな首の骨が見つかった。震災から6年が経とうとしていた頃だった。

いわき市の老舗旅館「古滝屋」の原子力災害考証館「furusato」に置かれている汐凪さんと遺骨の写真。(安田菜津紀撮影/2022年1月)

木村さんと具志堅さんとの交流は、2021年4月から始まった。ガマや壕に残された戦没者遺骨と向き合う地道な活動に触れ、木村さんは自身の葛藤を具志堅さんに吐露した。娘の捜索をまだ続けたい、遺骨が見つかった場所は慰霊と伝承のために残したい、けれどもそんな思いは「わがまま」だろうか、と。

その言葉に対し、具志堅さんは真っすぐにこう答えた。

「これは人間の尊厳の問題で、あなたには声をあげる権利があるんです。『ひとりの利益のために全体の利益を損なうな』という人がいますが、ひとりの人間を大切にできないのに、社会を大切にできるはずがないんです」

2022年1月、今度は具志堅さんが、福島県大熊町の、汐凪さんの捜索現場を訪れた。

「木村さんの状況を見ないふりはできませんでした。役に立てるか自信はなかったのですが、犠牲者に近づこうとすること、木村さんのやっていることに多くの人が何らかの形で協力することも、慰霊のひとつだと思っています。過去の犠牲者を忘れず手をさしのべるのは自然なことです」と、具志堅さんは当時を振り返る。

大熊町の帰還困難区域内で捜索をする木村さんと具志堅さん。(安田菜津紀撮影/2022年1月)

「役に立てるか自信はない」という具志堅さんの言葉とは裏腹に、捜索作業開始からわずか20分後、遺骨の一部が地中から顔をのぞかせていることに具志堅さんが気付く。汐凪さんの大腿骨だった。あの津波から約11年後、汐凪さんの首の骨を見つけて以来5年ぶりの発見だった。その後具志堅さんは、毎年2度、大熊町での捜索に加わっている。



福島と沖縄の「重なるもの」を、具志堅さんはこう語る。

「沖縄は戦争被害、福島は原発があったために人災ともいえます。多くの人はあたかも『避けられかったこと』『仕方がなかったこと』だと考えてしまうかもしれませんが、どちらも国策ゆえの背景があります」



福島から沖縄を再訪

そして今年2025年の6月には、再び木村さんが具志堅さんのもとを訪れた。

入口が塞がれた日本軍の壕前にさしかかると、具志堅さんがねじり鎌で地表を掘り始める。この周辺では以前、お年寄りのものとみられる歯、そして乳歯が発見されている。

壕前の地表を掘る具志堅さんと木村さん。(安田菜津紀撮影)

具志堅さんがそっと、小さな乳白色の欠片を拾い上げた。素人目には小石や貝殻の破片と見間違えてしまいそうだが、2歳ほどの子どもの乳歯だという。

「(歯が外で見つかったということは)壕に入れてもらえなかったのかもしれません」

具志堅さんが拾い上げた乳歯。(安田菜津紀撮影)

以前この壕の内部では、日本兵だと思われる骨が複数見つかっている。そうした遺骨が壕内に残り、民間人の遺骨が壕の外で風雨にさらされ続けていること自体が、沖縄戦の暴力のあり様を物語っているように感じられる。

もちろん、この壕で何が起きたのか、詳細は分からない。ただ、壕やガマに避難した住民たちが、ときに危険な入り口近くに追いやられ、ときに外へと追い出された歴史を思わずにはいられなかった。

具志堅さんが線香をたむけ、手を合わせる。

「私たちは戦争で亡くなった人を家族の元に返す活動をしております。骨があまりにも少ないので、(身元特定に)必要なDNAをとることはできないかもしれませんが、できるだけみなさんの気持ちに沿ったことができるよう、努力したいと思います」

壕周辺の、遺骨捜索が続いている岩陰にて。(安田菜津紀撮影)



全身遺骨、その周りに散らばるもうひとりの骨

今年4月、そこからほど近い斜面で、具志堅さんはほぼ全身の、それも埋葬された痕跡のある遺骨を発見した。現場に着いた具志堅さんは、小さな声で語りかける。

「私たちは二度と沖縄や日本が戦場にならないよう願って活動しております。戦争で殺されたみなさんの最期の姿を多くの方が確認することによって、同じことを繰り返さないよう、思いを新たにできるように――。そうした志のある人が、あなたの遺骨を見ることを許して下さい」

祈りのような言葉と共にビニールシートをはがすと、まだ発掘途中の「その人」が地表に横たわっていた。

具志堅さんらが発見した全身遺骨。(安田菜津紀撮影/2025年5月)

身長は160センチ前後とみられ、歯にはほぼ摩耗した痕跡がない。他の骨の状態からも、推定で20歳前後ではないかと具志堅さんは見ている。

顔面の鼻骨周辺は陥没し、上あごの歯も内側にめり込んでいた。口の中には、片手にすっぽりと収まるほどの石が残されている。砲撃の破裂で飛んできた石だと見られている。一緒に見つかった軍服のボタンなどから、日本軍の兵士だった可能性が高い。



具志堅さんが全身かつ埋葬されたらしい遺骨を見つけるのは、那覇市真嘉比(まかび)で捜索を行った2009年以来だという。しかも真嘉比で確認できたのは、ほぼ上官とみられるものだった。若い兵士が埋葬された状態で見つかるのは、非常に珍しいという。

遺骨周辺からは、使用した痕跡のある小銃の薬莢や、ガスマスクの部品の一部も発見されている。

「戦争末期の、緊迫した激戦地での埋葬は大変なことだったでしょう」

全身遺骨とともに見つかった薬莢。(安田菜津紀撮影)

「その人」を発見した後、他にも何か手がかりはないかと周囲を探索していたところ、うつぶせで倒れたままの姿とみられる、別の遺骨が木々の間に散らばっていることに具志堅さんは気が付いたという。今月(2025年6月)初頭のことだ。

具志堅さんの指さす先に目を凝らすと、雨風にさらされ、苔色がかった脛の骨、大腿骨、骨盤、背骨の一部などが転々と残されていた。頭部は発見されておらず、近くに埋もれている可能性がある。見つかった遺骨は地表に露出していたため、風化が進み、中が空洞化してきているのが目に見えて分かる。

全身遺骨の傍から発見された大腿骨など。(安田菜津紀撮影)



娘と沖縄、真逆に見える国の態度

木村さんは常々、「多くの人のために一部の犠牲は仕方がない」かのような社会に疑問を抱いてきた。

「汐凪はあそこにひとりで残っていても、大事にされていると今は感じています。ここは遺骨が簡単に見つかるような状況なのに、国が何もしないということにもやもやします」

木村さんが語るように、汐凪さんの捜索には環境省の協力もあり、最初の発見につながった。その周辺は今も、造成や埋め立てなどはされずに捜索可能な状態で残されている。一方、沖縄の戦没者遺骨に対する国の態度は、それとは真逆に思えるという。

「具志堅さんは、『福島の状況を見て見ぬふりすることはできない』と語りますが、逆に言うと、『福島から沖縄を見ているだろうか』ということは、考えなければならないと思います」

見つかった遺骨を木村さんに示す具志堅さん。(安田菜津紀撮影)



問われる「誰のため」「何のため」

この日の前日まで6日間、具志堅さんはハンガーストライキを続けていた。沖縄戦の激戦地であった本島南部地域に残された戦没者遺骨の混じった土砂が、米軍辺野古新基地建設に伴う埋め立て工事に使われる可能性があり、反対の意を込めての行動だった。

沖縄慰霊の日である6月23日には、犠牲者の名が刻まれた「平和の礎」に入り込んだ警官たちに、「ここには総理大臣は来ないはずです。遺族にとってお墓で、霊域です」と抗議した。その傍らにいた遺族からも「孫や子どもが来ても落ち着かない」と声があがった。

警官たちが礎の中を練り歩き、「警備」という名目で、供えられた線香や飲み物などに手をつける光景は、2023年から繰り広げられている。

県警の担当者と警備のあり方について話し合う具志堅さん。(安田菜津紀撮影)

国や行政の行動は、「誰のための」「何のための」ものなのか。「そういうものだから」という思考停止の積み重ねこそ、人々を危険にさらしていくものであるということは、歴史が私たちに突きつけてきた。

「戦後」80年の地平に立ち、改めて命の尊厳から過去と今、そして未来を考えていく必要があるだろう。

礎の周りを練り歩く警官たち。(安田菜津紀撮影)



Writerこの記事を書いたのは
Writer
フォトジャーナリスト安田菜津紀Natsuki Yasuda

1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『国籍と遺書、兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に』(ヘウレーカ)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

このライターが書いた記事一覧へ

新刊書籍【5月22日発売!】

遺骨と祈り』安田菜津紀・著
(産業編集センター)1,760円(税込)


死者をないがしろにする社会が、生きた人間の尊厳を守れるのか?安田菜津紀が、福島、沖縄、パレスチナを訪れ、不条理を強いられ生きる人々の姿を追った、6年間の行動と思考の記録。今起きている民族浄化と人間の尊厳を踏みにじるあらゆることに、抗う意思を込めた一冊です。

あわせて読みたい


D4Pメールマガジン登録者募集中!

新着コンテンツやイベント情報、メルマガ限定の取材ルポなどをお届けしています。

公式LINEを登録しませんか?

LINEでも、新着コンテンツやイベント情報をまとめて発信しています。

友だち追加

この記事をシェアする