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書籍『遺骨と祈り』プロローグ抜粋―死者を蔑ろにする社会が、生きた人間の尊厳を守れるのか

2022年12月、辺野古の海で。(安田菜津紀撮影)
2025年5月に刊行した『遺骨と祈り』から、プロローグ部分を抜粋して掲載しています。

「テンノウヘイカがいたのはこの洞窟だ」

あまりに明瞭なその“テンノウヘイカ”の発音に、一瞬、戸惑うほどだった。2024年6月、私はオーストラリアの北に位置する東ティモールへ取材に来ていた。

岩手県ほどの小さなこの国は、主にティモール島の東側を占め、2002年に独立を果たしたばかりだ。長らくポルトガルの植民地支配を受け、アジア・太平洋戦争中、日本軍により3年半、占領された。

ラウテン県の沿岸に残るトーチカ。(安田菜津紀撮影)

村人たちが「テンノウヘイカの洞窟」と呼ぶ場所は、ラウテン県の山間にある。細道をバイクで駆け抜けたどり着いた小さな集落は、背の高いココナッツの木々の間を牛たちがのんびりと歩く、いかにも平穏な農村だった。

事情を知った住民たちがすぐに、民家からほど近い、青々とした茂みに囲まれた洞窟に案内してくれた。入り口はすでに、土砂で埋まっていた。

なぜその日本兵が、村人たちに“テンノウヘイカ”と呼ばれるようになったのかは分からない。兵士たちがしきりに口にするその言葉から、「司令官はテンノウヘイカ」という認識が広がったのかもしれない。少なくとも記録上、周辺に日本軍が駐留していたことは確かだ。近隣に「慰安所」が作られたことも、兵士たちの残した証言などから浮き彫りとなっていた。従軍した医師の手記には、「慰安婦」として集められた女性たちを、顔や体の特徴をもって「ドジョー」「フナ」と呼んでいたことが記されている。「アジア解放」を大義として掲げていた軍は、現地住民たちをこうして未開人扱いした。

村人たちはまた、空からの恐怖にも脅かされることになる。当時、4、5歳だったという老齢の男性は、「イチ、ニ、サン、シ、ゴ!」と覚えている日本語の数を羅列し、静かにこう語った。

「夕方になると日本軍を狙うオーストラリアの飛行機がやってきて、木の下や豚小屋に身を隠した。恐かった」

当時の記憶を語ってくれたペドロ・コウティーニョさん。(安田菜津紀撮影)

この島に駐留した主力部隊のひとつ、「第48師団」は、約5千台もの車両を有する「機械化師団」だったが、当時のティモール島には自動車を活用できる道は乏しく、総延長1千キロにも及ぶ道路工事が必要とされた。他にも、海や空から迫る連合国軍に備えるため、沿岸各部にはトーチカが築かれた。その多くが今も潮風の中、打ち捨てられている。スパイ視した住民の「処刑」や虐殺、戦況の悪化による食糧不足や強制労働によって、日本占領期のティモール島では1万人から最大で約4万人が亡くなったと見られている。主要道路も、各地の「遺構」も、住民たちの血を吸い込んでいる。

集落の裏山には、村人たちが掘らされたという日本軍の地下壕が残る。木にロープをくくり、慎重に下へ下へと降りる。5メートルほどの深さの穴から、壕の奥へと道は続いていた。湿った黴かび臭くささが鼻をつく。その暗がりへ歩み出すと、蝙こう蝠もりが数匹、頭の上をかすめていった。廊下のような通路の周りにいくつか部屋はあるものの、落石に行く手を阻まれ奥へと進むことはできなかった。

日本軍の地下壕の入口。(安田菜津紀撮影)

足元に目を凝らすと、白骨らしき細かな塊が散らばっていた。一瞬ぎょっとするが、大きさからすると小動物の死骸かもしれない。壕の穴に落ち、自力では這い上がれず、蟻地獄にはまったまま命が尽きたのだろう。

しかし何か、日本兵たちの手がかりはないだろうかと、またじっと、土の上を見つめてみる。そして、思う。「具志堅さんなら、どこに目を配るだろうか」と。

具志堅隆松さんは沖縄で長年、戦没者の遺骨収集を続けている。ティモール島の海の青さや、まとわりつく湿気の匂い、山を覆う植物たちの影形がどこか沖縄を思わせ、私はいつしか具志堅さんの活動現場を訪れた時のことを思い返していた。

沖縄県糸満市の旧日本軍構築壕で遺骨の捜索を続ける具志堅さん。(安田菜津紀撮影)

「自分だったらどこに身を隠したいと思うか、考えてみて下さい」

具志堅さんはそう言って、小さな窪地や岩陰をくまなく見て回っていた。

ティモール島が孤立し、兵士たちが辛うじて脱出を図ろうとしていた頃、沖縄では米軍が本島に上陸した。

本物の「テンノウヘイカ」のもと、アジア各地の前線では、日本兵たちが現地住民に多大な犠牲を強いながら、飢えと渇きとマラリアで息絶えていった。沖縄は日本の「国体」を守るため、時間稼ぎの「捨て石」とされ、激しい地上戦が約20万という命を奪い去っていった。

私が初めて沖縄を訪れたのは、高校の修学旅行だった。ところが当時何を見聞きして何を体験したのか、ほとんど思い出すことができない。それほど高校時代の学びは「受け身」で、私はただその数日を、沖縄を「消費」するために費やしてしまった。

大学生になり、たまたま知人に誘われて、学内で行われたトークイベントに出向いた。

30人ほどしか入らない小さな教室でも、客席はまばらにしか埋まっていなかった。ゲストスピーカーだった青年は、辺野古で基地反対の運動に加わっているという。沖縄戦を経験したおじい、おばあたちが体を引きずって座り込みへと出向き、嗄れるまで声をあげていること、国がいかに理不尽な基地建設をこの集落に押し付けているかということを、彼は熱を帯びながら語り続けた。衝撃だった。どれもこれも、知らなかったこと、知ろうとしてもいなかったことばかりだった。

その衝撃を受けたまま、私は次の休み、辺野古に向かっていた。バスターミナルのおじいたちが話すうちなーぐちも、それをかき消す戦闘機の轟音も、車窓から見えるフェンスで断絶された街並みも、高校生の時、「聞いていた」「見ていた」はずなのに、あの時の自分は関心さえ払っていなかったのだ。これが直球の差別でなくて、何であろうか。本の字面としてただ眺めていた「植民地化」という言葉を、私は沖縄へのまなざしの中で内面化していたのだ。

抗議活動に加わっている人にインターネットで連絡を取り、国道から坂道を下って、その「拠点」であるテントにたどり着く。促されるがままに海上保安庁の船と対峙するゴムボートに乗り、慣れないひれをつけて海に飛び込んだ。ぎこちなく足をばたつかせる私の泳ぎ方は、巡視船に乗っている男性たちに心配されたほどだった。

2022年12月、辺野古の海で。(安田菜津紀撮影)

陸に上がりダイビングスーツを脱いでも、濡れたままの髪が海風に冷える。一緒に辺野古を訪れた大学の後輩が一人、海には出ず、テントで待っていてくれた。すると彼は浜の方を見ながら、周りに聞こえるような声でこう言った。

「随分大きな湖なんですね」

一瞬、血の気が引き、体が固まった。彼は「辺野湖」という湖に来たのだと思っていたのだ。

2023年2月、キャンプシュワブのゲート前で。(安田菜津紀撮影)

今振り返ると、私に「血の気が引いた」と言う資格などあったのだろうか、と思う。

「忘れない」「寄り添う」という言葉が、いかに思いあがったものなのかを考えるようになったのは、随分と後になってからだ。ただ現地を消費して東京へと戻っていけるのも、辺野古で何が起きているのかを知らずに日々を過ごせるのも、全て「踏んでいる側」だったからだ。

私が修学旅行に出かけ、やれ紅イモだ、海ぶどうだとはしゃいでいた年にも、本島中部で海兵隊上等兵による女性暴行事件が起きている。私がせっせと受験勉強に励んでいた年、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した。それはどれも皮膚の外側にあり、痛みを感じずにいられる特権に、私は爪の先までどっぷりと浸かって生きてきた。それに気が付いたばかりの自分が、無自覚な人間を嘲ったり糾弾したりする資格などあるだろうか。

2022年4月、糸満市、平和祈念公園にて。(安田菜津紀撮影)

あの「テンノウヘイカ」が自らを人間だと「宣言」し、「本土」が戦後を迎えてからも、沖縄は切り離され、米軍政下に置かれた。そして「本土」の中でもまた、中央と周縁という権力勾配は根深く残った。「末端」扱いされた土地土地に、中央が求めながらも忌避するものが押し付けられていく。原発もそのひとつと言っていいだろう。

2011年3月まで、私はあまり疑問も抱かず、その周縁化された地で作られた電気を吸い上げ、便利な生活を享受していた。東日本大震災が起きた日、私は東京さえ揺さぶったあの激しい地震を経験していない。フィリピンの農村部でのどかな時間を過ごしていた。

日本から次々と不穏な情報が飛び込んでくるものの、「震災」の全容は輪郭さえまだ見えなかった。

ところがすぐに、成田空港への乗り入れをキャンセルする航空会社が出始めた。地震だけが原因ではない。東京電力福島第一原発での事故を受けてのことだった。幸い私が帰国する便は予定通り就航した。日本に戻ると、東北道を北上し、岩手県陸前高田市に向かった。夫の両親が、この街で暮らしていたからだ。

震災直後の陸前高田市街地。(安田菜津紀撮影)

勤めていた県立病院の4階で首まで波に浸かりながらも生還した義父は、私たちと合流し、ともに自宅の跡地や避難所を回った。鉄筋造りの病院の官舎は原形こそ留めていたものの、窓ガラスはほぼ見る影もなく、浜辺に生えていたのであろう松がそこかしこに突き刺さっていた。倒れ込んだ本棚の上に、津波で浮き上がったからか、二人がけのソファーがのしかかっている。海底や川底から巻き上げられた汚泥で黒々とぬかるんだ床は、気温が上がるごとに生臭くなっていった。義母の姿はどこにもなかった。

義理の両親が暮らしていた病院官舎の中。(安田菜津紀撮影)

丘の上の公民館に物資を届けに行くと、ちょうど炊き出しのカレーが中庭でふるまわれていた。皿からたちのぼる湯気の白さが、冷気の中でくっきりと浮かび上がる。温かな食事を頰張る時だけ、避難者たちの顔が少しだけ緩む。ふと、食器を片付けようとしていた女性たちの会話が耳に入ってくる。

「裏山の水、使わない方がいいかね? ほら、あの原発の……」
「んだね、放射能ってのがどうなってるんだか……」

義母の遺体は約1ヵ月後、川の上流9キロ地点の瓦礫の下から見つかる。トラウマを負った義父はその後、陸前高田市で暮らし続けることができなくなり、2015年、身を寄せていた親戚宅で息を引き取った。

葬儀などの連絡のため、義父のスマホを夫とのぞくと、発信履歴に同じ番号が並んでいた。義母のものだった。絶対につながらないと分かっていながら、義父は何度も、何度も、義母に電話をかけていた。会いたい、話したい、声が聴きたい、その一心だったのだろう。

義母の遺影と。(安田菜津紀撮影)

義母と10代のころから人生をともにしてきた義父にとって、愛情の深さの分だけ、悲しみも深かったはずだ。ただ、私たちはそれでも、自分たちの足で「捜す」ことができた。

火葬前に「さよなら」を伝えることができた。それは、全ての被災地での「当たり前」ではなかった。行方不明者があまりに多くいたからというだけではない。原発周辺から避難を余儀なくされた人々は、自ら捜索をする道をもぷっつりと絶たれていた。

その原発が立地する、福島県双葉郡大熊町に暮らしていた木村紀夫さんと出会ったのは、被災地の取材を通してのことだった。木村さんは東日本大震災の津波で、父、妻、次女の行方がつかめなくなるも、事故によって翌日には街から離れなければならなくなった。

娘の汐凪さんの慰霊碑に手を合わせる木村さん。(安田菜津紀撮影)

この本は当初、具志堅さんと木村さんの交流のみに焦点を当てて編もうとしていた。ところが2023年10月、イスラエルによるパレスチナ自治区・ガザ地区への軍事侵攻が始まる。国内での取材を続けながら、来る日も来る日もガザにいる友人たちの身を案じ、SNSに流れてくる残虐な映像が目に飛び込んでくる度、怒りに震えた。本気で歯止めをかけようともしない日本政府の姿勢に業を煮やしながら、思う。あの戦争と、戦後の日本社会と、現代の虐殺、その全てが一本の線でつながっているのではないか、と。

ガザの友人が自宅前で撮影した一枚。

沖縄への負担押し付け、福島からの搾取、そしてガザ、パレスチナで起きている民族浄化、私はどれに対しても、この社会構造の中で「踏んでいる側」に立っている。

社会は踏まれている側ばかりに何かを求める。「もっと我慢しろ」、あるいは「もっと声をあげろ」「もっと怒れ」と。時に「憎まない」ことの美徳まで求められ、非暴力を掲げれば称賛される。けれども本来必要なのは、「踏んでいる側」から変わることなのだ。

その特権構造の真ん中にいる一人として、その軸足を忘れず、取材で出会った人たちのことを綴っていこうと思う。

首里城に咲いていた「ゆうな」の花。(安田菜津紀撮影)

【好評販売中!】

遺骨と祈り』安田菜津紀・著
(産業編集センター)1,760円(税込)


死者をないがしろにする社会が、生きた人間の尊厳を守れるのか?安田菜津紀が、福島、沖縄、パレスチナを訪れ、不条理を強いられ生きる人々の姿を追った、6年間の行動と思考の記録。今起きている民族浄化と人間の尊厳を踏みにじるあらゆることに、抗う意思を込めた一冊です。
Writerこの記事を書いたのは
Writer
フォトジャーナリスト安田菜津紀Natsuki Yasuda

1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『国籍と遺書、兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に』(ヘウレーカ)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

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