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第3回:「やまと性」について立ち止まって考えてみる―ローレンス吉孝の「あぎじゃびよ〜通信」

グレーのタイルに落ちていたレインボーの紙と草履(田口ローレンス吉孝撮影/2025年)

2025年11月29日。青山学院大学スクーンメーカー記念ジェンダー研究センターが主催したシンポジウム『「やまとフェミニズム」を解体する ―私たちのフェミニズムが人種主義・民族主義・植民地主義と決別するために。―』に、登壇者の1名として参加してきた。

表題の「やまとフェミニズム」とは、同じく登壇者の1人である文化人類学/民俗学、ジェンダー・セクシュアリティ研究の専門家である荒木生(あらき・うぶ)さんが考案したものだ。そして、このシンポジウムは、「現在の日本におけるフェミニズムを人種主義・民族主義・植民地主義の視点から問い直す」ことを企図して開催された。

つまり、「日本のフェミニズム」あるいは「日本人フェミニズム」とは言わずに、あえて「やまとフェミニズム」と名指すことで、フェミニズム内にある植民地主義や人種主義の問題を問い直そうということである。イベントでは、ホワイトフェミニズムへの批判という文脈が提示され、日本のフェミニズム内に似たように存在する「やまとフェミニズム」を問い直す発表、やまと性と白人至上主義との関係から見える学術領域の植民地主義的構造、在日コリアン女性たちをめぐる社会運動から「日本のフェミニズム」そのものを問い直すという3つの研究発表が行われた。

シンポジウムでの講演の様子(青山学院大学スクーンメーカー記念ジェンダー研究センター提供)

このように、日本社会のさまざまな学術領域、社会運動内、個々人の持つイデオロギーや発想、政治空間での言説等の中に、「やまと性」を見出す視点は非常に重要であると私は感じた。

「日本の」「日本人」ではなく、「やまと」とあえて言うことで浮き彫りになるのは、

  1. 沖縄、アイヌに対する植民地主義の問題
  2. ミックスルーツ、在日コリアンや外国籍者など外国にもルーツがある人々をめぐる社会問題

に横たわる「やまと性」「やまと中心主義」である。

この視点は、近年ますます深刻化する日本国内の人種主義と排外主義を理解するのに役立つ。

「ファースト」とされるのは、いったい誰か?

私がこの「やまと性」を浮き彫りにする視点で思い出したのは、あの沖縄の熱い日差しの中で目にした「日本人ファースト」「日本をなめるな」という政党ポスターである。

ここで
「ファースト」といわれている「日本人」
「なめるな」といわれている「日本」に、
「沖縄人」
「沖縄」は
含まれているのだろうか?

「No」
その答えはすぐに頭に浮かんでくる。

「ファースト」「なめるな」は、沖縄をいまだに支配している米国と日本の植民地主義に向けられてはいないからだ。

日本をなめるな、日本の土地を取り戻せ、日本を取り戻せ、というなら、
なぜ米軍基地に向かってそれをしないのだろうか。

ここから明確にわかるのは、
「日本人」を最優先し他を排除しようとする排外主義と人種主義の政党メッセージは、日本と米国の植民地主義を肯定する範囲で、成り立っているということだ。

つまり、「日本人ファースト」といった言説は、あくまでも

  1. 排外主義
  2. レイシズム
  3. (単一人種としての)やまと至上主義
  4. 植民地主義

を前提とした、
「やまと人ファースト」であるということだ。

この「やまと人ファースト」という政治的・社会的イデオロギーは決して近年新しく始まったものではなく、これまで歴史的に構造的な排除や抑圧を引き起こしてきた。

「白人至上主義」を模倣する「やまと至上主義」

そして、この「やまと人ファースト」は、究極的に「やまと人」の優位を目指すのではなく、あくまでも(米国の)白人の利益を超えない範囲で目指しているという点も重要だ。

それは、日本の保守政党や極右政党の多くが、米国や欧州の白人至上主義による排外主義を模倣し、追従するような姿勢から明らかである。

「日本人ファースト」という言葉が、トランプの「America first」を模倣していることなどはわかりやすいだろう。
(国際関係の中、自国優先主義の文脈で「アメリカ(という国)ファースト」を掲げるトランプ政権に比べ、「日本人(という民族・人種)ファースト」を掲げるのは誤用と言えるが…)

また「Japan is Back」を掲げて総裁選を勝ち抜いた高市早苗首相が、横須賀基地でトランプの横で演説し米国に従来通り追従する姿勢を示した光景も記憶に新しい。

やまとナショナリズムには、白人至上主義が内面化されているのだろう。

「やまと性」ということで浮かび上がる、植民地主義、レイシズム、白人至上主義を直視し批判していく必要性が、ますます高まっている。わたしたちは今、そのような社会的状況の中にある。

ポジショナリティ、精神的な疲れ

壁に広がる植物(田口ローレンス吉孝撮影/2025年)

このイベントは非常に重要であった。
そして同時に、私個人の経験として、「めちゃくちゃ疲れてしまった」という点も書いておきたい。

普段、私自身のメインテーマである「ハーフ」や「ミックス」と呼ばれる人々の経験について発表するタイプの講演では経験しないような精神的な疲れと緊張を、このイベント中には感じていた。実際に、イベント中はずっと左こめかみあたりに偏頭痛が起こっていた。

特に、やまと性、白人性、そして沖縄という三つのルーツが交差するポジショナリティの中で、私が何を発言すればよいのか、一言一言に緊張が走る。複雑に絡まり合う支配/被支配の磁場の中で、私の意識はゆらぎ、足場を失っていく感覚がある。孤独でもあるし、私の言葉に耳を傾ける人々の注目が恐怖にさえ感じる。(といっても、運営スタッフの皆様のご尽力もあり、会場は全体的に安心安全な場所となっており、その中で自分自身の経験を語ることができたのはとてもありがたかった。恐怖を感じるのは、その場が原因だったのではなく、これまでの私自身の人生経験からくるものである。)

そのなかで、自分自身の考えや経験について語っていく。

また、男性身体として生きる人間である私がフェミニズムについて語る際には、家父長制を維持させている立場にある者という自覚と言及が必ず必要であると考えている。女性身体とみなされることで日本社会で経験される/晒されうる様々なタイプの差別・抑圧・マイクロアグレッション、性的消費、街頭でのキャットコール、じろじろとした眼差しなどなど、を経験せずに済んできたし、学校・家庭・職場・街頭・公共空間など社会の様々な場面において構造的な優位性を享受してきた。
そして同時に、その家父長制と異性愛中心主義に長い間苦しめられてきたノンバイナリー(バイジェンダー)の人間として、自分自身が「やまとフェミニズム」にどういった立場で発言をすることができるのか/あるいはするべきではないのか、といった点で悩み続けてもいる。

本当はこういった悩みも含めて、イベントの場で自分の考えを吐露すべきだったのかもしれない。
しかし、頭痛もあり、私はそういった自身の立場性に関する考えについてなかなかうまく語ることはできなかった。ロキソニンはそんなに効いておらず、こめかみをもみながら、今の状態でできる発言を必死に絞り出すような時間だった。

公共の場で、
沖縄について語るのは正直むずかしい。
やまと性について語るのも正直むずかしい。
そして、自分のジェンダーアイデンティティについて語ることはもっとむずかしい。

でももっと自由に語ることができれば、とも思う。
頭痛が起きないぐらい、自由に。
自分が自分のままでいることができたら、
自分が自分のままで話すことができたら、とも思う。

と同時に、果たしてそうすることが必要なのか、
それが私に求められていることなのか、
とも感じる。

こじつけな感じもするが、
こういうときにこそ、「あぎじゃびよ〜」という言葉はつかいやすい。

あたまがいたい、あぎじゃびよ〜
レイシズムと排外主義、あぎじゃびよ〜
自由でいたい、あぎじゃびよ〜

苦しみと、痛みと、叫びをこの言葉と共に吐き出して。
今日まずはゆっくりと休みましょう。

いつでも寝たい時に寝る(田口ローレンス吉孝撮影/2025年)

(2026.1.9 / 執筆・写真 田口ローレンス吉孝)

Writerこの記事を書いたのは
Writer
社会学者田口ローレンス吉孝Taguchi Lawrence Yoshitaka

専門は社会学・国際社会学。著書『「混血」と「日本人」 ―ハーフ・ダブル・ミックスの社会史』(青土社、2018年)、『「ハーフ」ってなんだろう? あなたと考えたいイメージと現実』(平凡社、2021年)。「ハーフ」や海外ルーツの人々の情報共有サイト「HAFU TALK」を共同運営。

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