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ガザから引き離されて(前編)―死別と離別、不安定な生活

「アラブの春」で人々が集ったタハリール広場。(安田菜津紀撮影)
※この記事は、壮絶な体験や死別、離別に関する内容が含まれています

言葉ばかりの「停戦」が掲げられて3ヵ月以上が経つ。ガザ保健当局によると、「停戦」後に殺害された人数は2026年1月中旬時点で440人を超えるという。2023年10月以降の死者は7万1000人を超えている。

ガザ南部からエジプトへと続くラファ検問所は、2024年5月、イスラエルによって「制圧」された。その翌月、在エジプト・パレスチナ大使館はワシントンポスト紙の取材に対し、推計で11万5000人が、2023年10月以降にガザを離れエジプトで暮らしているとしている。



わずか6時間の距離で続く惨劇

「昏睡状態から目が覚めたとき、隣にいた友人が『お悔やみを――』と言いました。その瞬間に、自分の家族に何が起きたかを知り、絶望的な衝撃を受けました」

マハディ・アシュラフさんと出会ったのは、2025年12月、住宅や商店が立ち並ぶカイロ市内の一角だった。ガザではスパイスやタヒーナ(ゴマペースト)の工場を経営し、食品などの流通も手がけていた。兄弟たちと力を合わせて築きあげてきた事業は誇りだった。

「しかし戦争が、すべてを奪い去りました」

カイロ市内で取材に応じてくれたマハディさん。(安田菜津紀撮影)

ある日、ガザの自宅で激しい爆撃に見舞われたマハディさんは、2ヵ月間もの間、完全に意識を失い、昏睡状態に陥った。目覚めたときには、全くなじみのないガザ南部の病院のベッドの上にいたという。マハディさんは当初、北部のシファ病院に搬送されたものの、イスラエル軍が同病院に侵攻したため、意識不明のまま南へと移送されたのだ。

「意識が戻ってからも、自分がどこで怪我をしたのかさえ、最初は思い出せませんでした。シファ病院にいた頃の記憶が断片的に残っているのですが、夜中に目が覚めては再び眠らされるという繰り返しでした」

スマートフォンには、病院のベッドで横たわる自身の映像が残されていた。いくつもの管につながれたその体には、いたるところに深い傷が刻まれている。そして娘たちや息子、両親や兄弟たちの変わり果てた姿も映し出されていた。

父、母、そして8人のきょうだい全員、そして幼い娘ふたりが殺害されたと知ったのは、意識を取り戻してからだった。瓦礫の下敷きになり亡くなった家族もいれば、20メートル近く離れた大通りまで遺体が吹き飛ばされた家族もいた。

「長女は頭に破片が刺さる重傷を負いながらも、しばらくの間は生きていました。親族は『彼女のためにも、早く天国へ行けるように』と語りかけたそうです。苦しみ続けるよりは、そうなった方が彼女にとって幸せなのだと」

マハディさんのスマートフォンに残されていた動画には、苦しそうに腫れあがった顔をゆがめる、包帯に巻かれた血まみれの長女の姿が残されていた。

破壊された自宅周辺の写真。(安田菜津紀撮影)

現在、マハディさんの妻と息子は、ガザ北部に残されている。妻もまた爆撃で背骨や足に重傷を負い、今も自力で歩くことができず、カテーテルによる排尿が必要だ。

「ガザ北部にいる家族とは、距離的にわずか6時間の距離にいますが、今の状況では6年、あるいはそれ以上の月日が流れたかのように遠く感じます」

そう語ると、マハディさんはしばらく押し黙った。視線の先には、今はもう直接触れることができない家族たちの写真が並べられていた。

殺害された家族たちの写真を前に。(佐藤慧撮影)



エジプトの状況

ガザでの虐殺が加速して以降、欧米などのパスポート保持者や、医療的な緊急のニーズのある人々に加え、大金を支払い、何とかエジプトへの越境を試みる人々がいた。越境手段のひとつをあげると、カイロに本社を置くとある会社に「調整」の料金を支払うというものがある。金額は吊り上がっていき、大人ひとりあたり5,000ドル(当時のレートで約75万円)、子どもはその半額が要求されていた。

「組織犯罪・汚職報告プロジェクト」(OCCRP)などの調査報道によると、同社はエジプトの諜報機関や軍との強いつながりがあり、汚職の温床になってきた疑いが指摘される。

しかしイスラエルがラファを制圧して以降、越境は非常に困難となっている。

医療ニーズがある人々の「許可」も追いつかず、WHOの発表によると、2024年7月から2025年11月にかけ、待機中に1,000人以上が亡くなったとしているが、実際にははるか多くの人命が奪われているという指摘もある。

ガザから避難した人々の中には、大学に通い、学生ビザを取得した人もいるが、エジプトでは「外国人留学生」として扱われ、地元学生より高額な学費の支払いに追われる家族もあった。

こうした一部の人々を除けば、ガザからの避難者は短期滞在しか認められず、居住許可証を得られていない。つまり公的福祉の利用や銀行口座の開設など、日常に不可欠な権利が制限されたままだ。

国連の中では、パレスチナ難民支援は「UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)」が担ってきたが、エジプトは自国内でのUNRWA の活動を受け入れていない。エジプトに生きるガザの人々は、難民としての保護を受けられていないまま、不安定な生活を余儀なくされている。

リモートワークなどで何とか家計をやりくりする人、貯金を切り崩したり、海外にいる親族に頼ったりしている人など、私たちが出会った避難者たちも厳しい日々を送っていた。

これらはガザからエジプトに逃れてきた人々の全般的な状況であり、置かれている立場は一人ひとり異なる。しかし戦禍から逃れた先の異国で生活を再建することは、誰しもにとって容易なことではない。

エジプト政府側には、「ハマス関係者」が紛れ込むことへの警戒感や、財政難の中でスーダンやシリアなどからの難民・移民を受け入れてきた経済事情などもあるが、とりわけ1979年にイスラエルと「和平条約」を締結して以降、米国からの軍事・経済的援助に大きく依存してきた背景がある。

そうした「政治的意図」も重なり、確かにエジプト政府はガザの人々を冷遇しているが、これが「エジプトの全責任」であるかのように語るのは本質ではなく、むしろイスラエル側のナラティブをなぞってしまうことでもある。根本原因は、占領とジェノサイドを続け、人々がガザから意に反して避難せざるをえない状況を作り出したイスラエル側にあることは、改めて強調しておきたい。

夜のカイロ中心街。(佐藤慧撮影)



国際法上のジェノサイド

その後取材を続け周辺国に赴く中で、2026年1月にイラク北部クルド自治区で、ガザ出身の医師、サウード・ハリルさんと出会った。地理的にも政治的にもパレスチナとは「距離」があるクルド自治区だが、不妊治療の技術と経験がかわれ、首都アルビルの病院から声がかかったのだという。ガザで不妊治療センターを継続させながら、2020年から、アルビルとガザとを往復する生活を続けてきた。

アルビル市内で取材に応じてくれたサウードさん。(安田菜津紀撮影)

「一度ガザに帰れば、アルビルに戻ってくることは容易ではありません 。23年の軍事侵攻以前から、移動の自由が極度に制限されていたため、私は常に他の医師たちの助けを借りながら、この生活を続けてきたのです」

2023年10月、娘の大学が始まる時期に合わせ、家族だけが先にガザへ帰郷した。サウードさんも年末にはガザへと戻り、家族と過ごす計画を立てていた。侵攻が始まったのは、家族が帰還してからわずか2日後のことだった。

「あの日以来、私はここで一人きりになり、家族はガザに取り残されたまま、精神的に追い詰められる日々を送っています 。ガザでは、私が心血を注いだ美しい家も、多額の資金を投じた不妊治療センターも破壊されました」

サウードさんのセンターとは異なるが、2023年12月、ガザ最大の不妊治療クリニックであるアルバスマ体外受精クリニックが攻撃され、約4,000個の胚、1,000個の精子サンプルおよび未受精卵が破壊されたと報じられている。2025年3月に公表された国連調査委員会(COI)の報告書では、《イスラエル治安部隊はクリニックの機能を知っており、そこを標的にして生殖機能を破壊する意図を持っていた》と述べられている。

1948年に国連総会で採択された「ジェノサイド条約(集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約)」では、《当該集団内部の出生を妨げることを意図する措置をとること》もその行為として定義されており、この軍事侵攻が国際法上の「ジェノサイド」にあたることも指摘されている。



私たちの挨拶は「あなたの上に平和を」

「家族さえ無事なら他は問題ないと自分に言い聞かせていますが、親族の身に起きたことはあまりに過酷です」

約半年前、サウードさんの姉の息子は、豆や米、砂糖などのわずかな支援物資を受け取りに行った際、イスラエル軍のスナイパーが待ち構える「死の罠」と呼ばれる境界付近で頭を撃たれ、37歳で亡くなった。兄の息子は2023年7月に結婚し、市場へ出かけたまま、妊娠したばかりの妻を残し行方不明となった。

「戦争中に娘が生まれましたが、父親である彼は今も戻らず、死んだのか拘束されたのかさえ分かりません。何の消息もつかめないのです。ガザには、彼のような行方不明者が無数にいます」

アルビルでの日常生活も、ガザや家族の記憶に終始支配されていると、サウードさんはうつむく。

「ショッピングモールや子どもたちと遊んだ場所へ行くと、思考が止まり、立ち尽くしてしまいます。チョコレートを見るだけで、それを欲しがった娘の声を思い出し、胸が締め付けられます。スマホには家族の写真が溢れていますが、この1年間、私はそれを見る勇気がありません。ふと画面に写真が現れると、耐えきれずに携帯を放り出してしまいます」

アルビルの城塞前広場。(安田菜津紀撮影)

この2年あまり、妻と子どもたち、年老いた姉は、何度となく移動を余儀なくされてきた。

「避難を繰り返すたびに、重いマットレスや鍋を自分たちで運ばなければなりません。トラックを頼めば数千ドルもの法外な費用がかかることもあり、ガソリンも十分にありません。結局、持ちきれない思い出の品をその場に捨てていくしかなく、一度置いてきたものは二度と取りに戻れません」

家族たちは今、屋根だけが残り、壁も窓もない半壊した自宅に、防水シートを張って日々をしのいでいる。

「何より痛ましいのは子どもたちの変化です。10代後半という、人生がこれから始まるはずの若者たちが、極限の恐怖とストレスから、幼い子どものようにおねしょをしたり、夜中に叫びながら母親に飛びついたりするのです 。私の兄弟姉妹もガザにいますが、街の破壊により道路が遮断されているため、それぞれが互いに会うことすらできません」

最後にサウードさんはこう強調した。

「人間にとって最も大切なのは人権であり、尊厳であると信じています。私たちの挨拶『アッサラーム・アライクム』は『あなたの上に平和を』という意味です。平和こそが私たちの望みのすべてなのです」

取材に応じてくれたサウードさん。(安田菜津紀撮影)

Writerこの記事を書いたのは
Writer
フォトジャーナリスト安田菜津紀Natsuki Yasuda

1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『国籍と遺書、兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に』(ヘウレーカ)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

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