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【エッセイ】「表現の自由」は「差別の自由」ではない

「差別発言をする恐れがあったとしても、個別に反論すればいい」――ヘイトスピーチを繰り返す公人のイベント登壇などに批判の声があがると、必ずと言っていいほどそんな言説が飛び交う。

東京大学・五月祭で企画された、参政党・神谷宗幣氏の講演会についても同様の声があがった。もちろん、爆破予告といった暴力的な手段は、誰に対してであろうと用いてはならないことは大前提として記しておく。

この「個別に反論すればいい」は、ヘイトスピーチも「言論」の一部であるかのような「フラット」な扱いをしてしまうことになりかねない。「表現の自由」は「差別の自由」ではないはずだ。

差別はそもそも、力の不平等や権力勾配のもとで起き、属性や存在そのものを否定された人々に沈黙を強いる。名の知れた人物から称賛を受けたり、「権威」ある場に招かれたりすることで「お墨付き」が与えられれば、その勾配はなおさら強固なものになるだろう。「個別に反論すればいい」というのは、その構造的な暴力を踏まえていない。

例えば選挙でもこれまで、「表現の自由」と言えば差別まで自由に吐けるといわんばかりの候補者が後を絶たなかった。昨年の参院選以降はより顕著になったのではないか。

一方で、駅前等でそんな候補者たちのヘイトスピーチに触れないよう、時間をずらして行動する人、そもそも近くに寄ることさえできない人の声を聴いてきた。矛先を向けられた人たちの「自由」はすでに奪われ、侵害されてきたのだ。

それは「ヘイトスピーチを受けた瞬間」の被害に留まらない。その言葉を誰かが真に受けたり、あえて引用したりすることで、再生産され続け、被害が拡大していく恐れもある。そうした差別言動に触れないよう、生活の一部だったSNSを使うことができなくなった人がいた。トラウマを負い、心の平穏を取り戻すことが困難になってしまった人がいた。私自身も今、そのヘイトスピーチの被害にも起因するトラウマについて、長い文章を綴っている最中だ。

「個別に反論すればいい」は、一度放たれたヘイトスピーチによる被害の連続性を軽視する言葉ではないか。

とりわけ公権力者による差別の影響は深刻なものであり、市井のヘイト横行を扇動するものだ。差別の問題はこうした構造を踏まえて考える必要があるのではないか。

Writerこの記事を書いたのは
Writer
フォトジャーナリスト安田菜津紀Natsuki Yasuda

1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『国籍と遺書、兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に』(ヘウレーカ)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

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