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加害の歴史を訪れる【フィリピン編】

加害の歴史を訪れる フィリピン編のメインビジュアル。緑豊かな公園でベンチに座る人々などの風景

アジア太平洋戦争中の1941年、日本軍はフィリピン侵攻を開始しました。
1942年には首都マニラを占領し、米比軍との激しい戦闘が行われました。戦禍では、軍人だけでなく多くの一般市民も犠牲になりました。
そこにはマニラ市街戦やバタアン戦、さらに捕虜収容や「慰安婦」問題など、日本の「加害の歴史」が存在します。

ここでは、フィリピンにおける日本の「加害の歴史」が記憶される場所を6つご紹介します。

以下の一覧をクリックすると、それぞれの場所の説明をご覧いただけます。

1. サンチャゴ要塞(マニラ)
2. メモラーレ・マニラ1945(マニラ)
3. ベイビューホテル跡地(現ベイビューパークホテル)(マニラ)
4. サント・トーマス大学(マニラ)
5. バクララン教会(マニラ)
6. オールドPNRサンフェルナンド駅(サン・フェルナンド)

1.サンチャゴ要塞

マニラの歴史地区にある軍事要塞

石造りの強固なアーチ状の入り口を持つ、サンチャゴ要塞の地下空間(水牢)の跡地。鉄格子の扉と「NOTICE」と書かれた赤い警告看板が設置されている。
Intramuros, Manila 1002, Metro Manila, Philippines

マニラ湾につながるパシッグ川に面するこの要塞は、日本軍政下、憲兵隊本部が置かれていた。要塞内の建物には、市街戦によってできた砲弾や銃撃の跡が生々しく残る。
石造りの地下空間は、かつて反日活動をしていたフィリピンゲリラや、その活動を疑われていた民間人の取り調べをする場所だった。日本軍が拷問したり虐殺したりしていた水牢であり、ここで犠牲になった人の数は約600人とも言われる。

公式HP:https://visitfortsantiago.com//

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2.メモラーレ・マニラ1945

マニラ市街戦での罪なき犠牲者を悼む慰霊碑

メモラーレ・マニラ1945の慰霊碑。手前には英語の碑文が刻まれた黒い石碑があり、その奥に大人や子どもたちがもたれ合うように佇むブロンズの群像が設置されている。
General Luna Street, Intramuros, Manila 1002, Metro Manila, Philippines

マニラ大聖堂の裏手、世界遺産のサン・アグスティン教会近くの公園にある慰霊碑。大人、子ども合計8人がもたれ合うようにしているこの群像は、マニラ市街戦で犠牲になった罪なき市民を表現している。終戦から50年後の1995年、記憶を次世代に伝えようと、市街戦で家族を失った遺族有志らによる団体「メモラーレ・マニラ1945」が建立した。日本軍による住民虐殺が行われた場所のうちの一部、36ヵ所がリストになって刻まれる。

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3.ベイビューホテル跡地(現ベイビューパークホテル)

日本軍による性加害の現場

かつて日本軍による性加害「ベイビューホテル事件」の現場となった場所に、戦後の建て替えを経て新しく建っている「ベイビューパークホテル」の外観。
1118 Roxas Boulevard, corner United Nations Avenue, Ermita, Manila 1000, Metro Manila, Philippines

ここにはかつてベイビューホテルがあった。太平洋戦争末期のマニラ市街戦の最中、数日に渡り日本軍による強かんが行われた「ベイビューホテル事件」の現場だ。数百人の女性がホテルに監禁され、暴行が繰り返された。事件が起きた具体的な経緯はわかっていないが、組織的な事件だったと考えられている。
戦後の大規模な修復・改築、建て替えを経て、現在はベイビューパークホテルという別なホテルが建っている。

公式HP:https://bayviewparkhotel.com/

※注意点 記念碑などは特に設けられておらず、戦跡としての見学・来訪の受け入れは行っていない。

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4.サント・トーマス大学

民間人捕虜収容所にもなった、現存するアジア最古の大学

サント・トーマス大学の歴史ある重厚な石造りの校舎。手前の通路を、白い服を着た学生や人々が歩いて通り抜けている。
1817 España Boulevard, Sampaloc, Manila 1008, Metro Manila, Philippines

1611年創立で400年以上の歴史を持ち、現存する中ではアジア最古の大学だというサント・トーマス大学。
太平洋戦争末期には旧日本軍によって、イギリス人やアメリカ人の民間人を収容する捕虜収容所/民間人抑留所として使われた。マニラ市街戦において米軍が最初に入ってきた場所とされ、アメリカと日本の交渉によって無事に解放が決まった時には、約3500人の人々が収容されていた。

公式HP:https://www.ust.edu.ph/

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5.バクララン教会

消えた「慰安婦像」の台座

バクララン教会に残されている、撤去された「慰安婦像」の黒い台座。正面には、第二次世界大戦中の日本軍による性暴力の被害者を追悼し、正義を求める英語の碑文(IN MEMORY OF THE VICTIMS OF MILITARY SEXUAL SLAVERY...)が刻まれている。
Redemptorist Road, Baclaran, Parañaque City, Metro Manila, Philippines

バクララン教会はフィリピン最大級の国立カトリック教会で、バクラランマーケットの中に位置する。 フィリピンでは2017年に慰安婦像の設置が進められたが、半年後の2018年4月には「排水工事」の面目で政府により撤去されるということが起こった。これは、像設置に「遺憾の意」を表明していた日本への「配慮」と言われている。その後、像を別の場所へ設置しようという動きがあったが、設置の直前、保管場所から像がなくなったという。
ここバクララン教会にも、設置されるはずだった慰安婦像を待つ台座だけが残り続けている。

公式HP:https://www.baclaranchurch.org/

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6.オールドPNRサンフェルナンド駅

バタアン戦「死の行進」の目的地

オールドPNRサンフェルナンド駅の敷地内にある、バタアン「死の行進」の白い記念碑。碑には「DEATH MARCH」の文字や「KM 102」という距離を示す刻印があり、周囲は緑の植物や黒い鉄格子のフェンスに囲まれている。
San Fernando, Pampanga, Philippines

日本軍がバタアン半島を占領した際、捕虜となった米比軍兵士約7万数千人を過酷な環境下で移送した「バタアン死の行進」。道中の飢えや病気、日本軍による虐待・殺害など、収容所での死者も合わせると約3万人が命を落としたといわれる。バタアン半島から約100キロを歩かされた捕虜たちの、徒歩行進の終着点となったのがこのサン・フェルナンド駅だ。捕虜たちはここからさらに貨物列車に詰め込まれ、オドネル収容所へと運ばれた。「死の行進」の道中には1キロごとに白い記念碑(マーカー)が建てられている。

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▼Dialogue for Peopleでは国内外にて戦争・紛争や日本の「加害の歴史」に関する取材を継続的に行ってきました。過去の記事もぜひご覧ください。

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