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ガザからフィリピンへ―「異国」に避難した人々は今

「ホーリーウィーク(聖週間)」にフィリピンで行われる「十字架の道行」。(安田菜津紀撮影)

数分歩けば全身の汗が噴き出すほどの日中の暑さは、マニラ湾から届く夕刻の潮風とともにわずかに和らぐ。マニラ首都圏の繁華街で家族とともに飲食業に携わるAさんは、絶えず行きかう人の群れと、ギラつくネオンを戸惑うように眺めていた。ヒジャブからのぞく顔には、ときおり疲労の色がにじむ。パレスチナ自治区・ガザ地区から、夫の母の故郷であるフィリピンにたどり着き、1年半が過ぎようとしていた。配偶者のルーツの地とはいえ、ガザの難民キャンプで生まれたAさんにとっては「異国」だ。

「言語の壁は高く、外出する時に不安でいっぱいになります。ガザで毎日聞いていたアザーン(イスラム教の礼拝の呼びかけ)も聞こえません。何より、残してきた家族への恋しさが募ります」

「さよなら」も言えず、生まれて初めてガザの外へ

イスラエル軍による虐殺が加速する前のデータになるが、ガザ地区には約130~140人のフィリピン人が暮らしていたとされる。多くがパレスチナ人と結婚したフィリピン人女性や、その子どもたち(フィリピンとパレスチナのダブルID)だ。家族ごとに背景は異なるが、筆者が取材した数家族はいずれも、パレスチナ人男性がフィリピン留学中に出会った現地女性と結婚した、という経緯を持っていた。Aさんの義母は、フィリピンで多くを占めるキリスト教徒であったが、パレスチナから留学してきた今の夫と出会い、イスラム教に改宗したという。

2023年10月7日、「異変」に気づいたAさんは夫と共にアパートの屋上へ駆けあがった。ロケット弾のせいなのか、空は白煙で覆われている。「戦争」を経験するのはこれが初めてではない。子ども時代にもイスラエル軍が侵攻し、戦車や兵士が街へと踏み込んでくるところを、窓の陰から息を潜めてのぞいていたことがある。当時の記憶はまだ鮮明だった。

攻撃は激しさを増し、夫の家族と行動することになったAさんは、両親らといったんは合流できたものの、すぐに別々の避難を余儀なくされた。それでも当初は「一週間ほどで戻れるのでは」と、淡い期待を抱いていた。海を越え、ゼロから新しい暮らしを立て直すことになるなど、予想だにしていなかった。

ガザ南部からエジプト側へと通じる「ラファ検問所」がイスラエル軍に完全に制圧される前、外国籍者などごく一部の人々が、ガザから「退避」する許可を得ていた。フィリピン政府も働きかけをしてきたとされるが、Aさんのように、フィリピン国籍者の配偶者、つまりフィリピン国籍を持たない家族の避難は難航した。誰が脱出でき、誰がそうではないのか、判断基準も不透明だった。こうして引き裂かれたままの家族もいるが、Aさんは夫たちとともに、検問所を超えた。自分の両親やきょうだいに「さよなら」も言えずに。

こうしてAさんは生まれて初めて、ガザの外の世界へと飛び出すことになる。

残された家族は今もテントに

エジプトからフィリピンへ到着後、政府から一時金の支給はあったものの、その後の公的支援は乏しい。しかし生活基盤の全くないフィリピン国内で、安定的な収入のある仕事を見つけるのは容易ではない。Aさんは家族と共に飲食業で生活をつないでいるが、ゆっくりと寝る間もない日々が続いている。

その上、「イスラエルの攻撃」の余波はフィリピンまで追ってくる。2月末のイラン攻撃以降エネルギー価格は高騰し、仕事や家庭に不可欠なガスは、4月頭の時点で3倍近い値段となっていた。ガソリンを節約しようと、人々は車での外出を控え気味だった。飲食業にとっては二重、三重の打撃だ。

Aさんがガザでの極限状態の中でも、「どうしても持ち出したかったもの」の中に、結婚式の写真やパーティーの映像データがある。夫と二人での、ささやかでも新しい生活に胸を躍らせていたときだった。映像の中で、真っ白なドレスに身を包んだAさんが、親戚に見守られながら母と踊る場面に差し掛かると、Aさんの肩が小さく震えた。ガザに残してきた家族は今も、テントでの厳しい生活を強いられている。

ガザ地区で避難生活を続ける人々のテント。(Aysarさん撮影/2025年3月)

「普通に生きる」ために必死だった

マニラ首都圏から、南へと車を走らせること約1時間半。バタンガス州の小さな街から喧騒を抜け、小高い丘をのぼる。たどり着いた集落の平屋は、窓を開け放つと心地のいい風が吹き抜けていく。キッチンからは、食欲をそそる香ばしい匂いが漂っていた。

「母の料理は、フィリピンの文化とガザの文化の素敵なところを合わせたものなんですよ」

笑顔で出迎えてくれたのは、ガザから避難してきたマハディア・アブ・ダラールさんだ。テーブルにはパレスチナでも広く親しまれている、出来立ての「マクルーベ」が置かれ、白い湯気が立ちのぼっていた。鶏肉やナスなどの野菜、そして数種類のスパイスと一緒に米を炊き、その鍋をひっくり返して大皿に盛りつける料理だ。

一風変わっていたのは、このマクルーベがバナナの葉に包まれていたことだ。これがマハディアさんの言う、二つのカルチャーが「合わさった」馴染みの味なのだという。口に運ぶと、肉の出汁やスパイスの風味に加え、バナナの葉の爽やかな香りも同時に広がる。

バナナの葉の香りが漂うマクルーベ。(安田菜津紀撮影)

父はパレスチナからの元留学生であり、フィリピン人の母と結婚。マハディアさんはフィリピン国内で生まれ、3歳の時に家族でガザへと移った。幼い頃、石蹴りや縄跳びをした路地裏を覚えている。けれども当時から、日常には暴力が溢れていた。かつてイスラエルの入植地はガザ内部にもあり(“占領のコスト”を担い切れず2005年に撤退)、近隣の住民がスナイパーに撃たれるのを見たこともあった。

「メディアの中には、私たちパレスチナ人を“死を愛する人間”や“動物”のように描くものがありますが、私たちは“生きるために死を覚悟”しなければならなかっただけなのです。“天井のない監獄”に閉じ込められ、電気が1日数時間しか届かなくても、人々は集まって食事をし、ダブケ(伝統舞踊)を踊り、歌い、学ぼうとしてきました。“普通に生きる”ために、私たちは必死でした」

大学在学中に知り合った夫と結婚し、UNRWA(国際連合パレスチナ難民救済事業機関)の運営する学校で、英語や美術を教えた。向き合う子どもたちの環境は過酷だった。

「2014年のイスラエル軍の大規模な攻撃で、私の学校の子どもたちも殺害され、空席だらけになりました。残った子どもたちの中にも、家族を全員殺され、たった一人生き残った子や、『弟たちのためにどう料理をしていいかわからない。僕が親にならなきゃいけないのに』と泣きついてくる子もいました」

遺体の確認もできないほどの爆撃

2023年10月の虐殺加速後は、ガソリンが手に入らないため調理用オイルで車を動かし、居場所を転々としながら、辛うじて南部ラファへと逃れた。

「幼い私の子どもたちに、1日ビスケット1枚、水はコップ2〜3杯しか与えられない日もあり、『ママ、お腹が空いた』と言われても、どうすることもできませんでした。国境へ向かう道中では、私たちの隣を走っていた車が爆撃されました。焼き殺された人々を見た子どもたちは、今でもPTSDに苦しんでいます。水浴び用の水も汚染されていたため、検問を超えた後は、感染症で入院することになりました」

マハディアさんは、4歳だった長男、1歳4カ月だった長女らとエジプトへ避難したが、夫は「病気の両親を置いていけない」と、ガザに残った。

子どもたちと何とかフィリピンに到着して2週間後、「アル・フランジ家が爆撃された」と、夫の家族の名がニュースから飛びこんできた。夫の兄の子どもたち3人は、ばらばらに吹き飛び遺体の確認もできず、妊娠中だったその母親は、体を切断されていた。マハディアさんの夫は瓦礫の下から引きずり出され、医師が不足する医療崩壊の中で弟が頭の傷を縫い、一命を取り留める。けれども年末、今度は義理の妹とその夫も爆殺される。

「義理の妹ワラァは作家・研究者で、ガザの美しい日常を描いた本を出版していました。イスラエルは私たちを人間として描く者を嫌い、ターゲットにして殺すのです」

歴史の「正しい側」に立ってほしい

翌24年2月に夫もフィリピンへとたどり着いたが、難民認定の判断は保留中であり、正規の仕事には就けずにいる。子どもたちはパスポートもなく避難してきたため、学校への登録にも手間取った。今はマハディアさんがオンラインで絵や刺繍商品を売り、なんとか生き延びている。弟のマフムードさんたち同様、描くことは、マハディアさんにとって、トラウマを和らげる時間でもある。

マフムードさんの描いた絵。左側はフィリピンの文化や島々を、右側はパレスチナの文化や紋様、オリーブなどを表現している。(安田菜津紀撮影)

『エルサレムの心』と題したマハディアさんのカラフルな絵には、多様な宗教バックグラウンドの建物がひしめき合う。

「シオニストがすべてを破壊する前のパレスチナを描いたものです。教会、モスク、シナゴーグが隣り合い、平和な夜の光が灯っています。赤や緑など“抵抗”を表すパレスチナの色を使っていますが、それは“平和のための抵抗”です」

マハディアさんと『エルサレムの心』。(安田菜津紀撮影)

マハディアさんの家の壁には、英語、アラビア語で曜日や月の数え方を示す表が貼られている。故郷から遠く離れてなお、子どもたちにはガザの記憶を留めてほしいと願っている。

「私たちの抵抗の一部は“忘れないこと”です。子どもたちに、ガザがどれほど美しい場所だったかを伝えていきたい。そして彼らには、今日死ぬかもしれないと怯えることなく、自由に世界を旅し、自分たちの物語を語り、平和に生きてほしいと願っています」

日本政府は、ガザでの虐殺後もなお、少なくとも241億円分のイスラエル製軍事品を購入してきたことが分かっている。マハディアさんの家族たちの命や生活を奪ってきた責任は、日本政府にもある。こうした現状について、マハディアさんはまっすぐにこう語った。

「最終的に政府が何を決定しようとも、人々の良心がそれを乗り越えることができると固く信じています。 時には政府の意向に反してでも、自分の信念のために立ち上がらなければならない時があります。私の義理の妹ワラァがかつてこう語っていました。『もし人生で何も成し遂げられなかったとしても、私が自分の信念のために立ち上がったことを人々に覚えておいてほしい』と。彼女はその後殺されましたが、日本のみなさんが歴史の“正しい側”に立ってくれることを、心から願っています」

Writerこの記事を書いたのは
Writer
フォトジャーナリスト安田菜津紀Natsuki Yasuda

1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『国籍と遺書、兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に』(ヘウレーカ)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

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