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Feature特集

ReCollection―東日本大震災から10年

本記事には東日本大震災による自然災害や死別に関する直接的な表現や写真が含まれています。そうした内容により、精神的なストレスを感じられる方がいらっしゃる可能性もありますので、ご無理のないようお願い致します。

あの日から10年、その年月が長いものなのか、短いものだったのかは、人により様々でしょう。突如として奪われた日常、愛する人々との死別、目まぐるしく姿を変える故郷……。その10年という月日の中には、ひとりひとり違った日々があり、何物にも代えがたい命の物語が刻まれています。僕にとってこの10年は、津波に流された母、そしてその悲しみに打ちひしがれ、数年後に亡くなった父の命を想うことで、生きる意味、死別との向き合い方を考える日々となりました。

2011年3月11日、僕はフォトジャーナリストとして海外で取材をしている最中でした。「日本で大きな地震があったらしい」、そう言われてテレビをつけると、巨大な津波に街々が呑み込まれていく様子が映し出されています。それが現実のことなのだと理解するやいなや、岩手県沿岸の町、陸前高田市に暮らす両親の姿が脳裏に浮かびました。すぐに国際電話をかけるが繋がりません。インターネットで情報を探しますが、やっと見つけたその街の名の傍らには、「壊滅」という文字が添えられていました。

緊急帰国し、東京から車で岩手を目指す途中、父から電話がかかってきました。当時陸前高田市内の病院に勤めていた父は、4階建ての建物の最上階で、患者たちを屋上に避難させている最中に津波に呑まれたのでした。さいわい一命をとりとめ、避難先から電話をかけてきたのです。しかし母の行方は、父にもわかりませんでした。父と合流した僕は、母の消息を求めてあちこちの避難所を訪れました。しかしどこにもその姿はなく、次第に僕たちは「遺体安置所」へと足を運ぶようになります。数百の棺に眠る身元不明の遺体の間を歩き、そこに母の面影を探す作業は、心が麻痺しそうになるものでした。日々、春の訪れとともに遺体は腐食していきます。そのあたりまえの自然の摂理が、こんなにも不条理に思えたことはありませんでした。

震災発生から1か月後、母は川の上流9キロ地点で、瓦礫と泥土の下から見つかりました。変わり果てた姿となった母でしたが、その手には、愛犬の散歩用のリードを、最後まで強く握りしめていました。やっとのことで母の火葬を終えると、父は糸が切れたように、深く暗い悲しみへと沈んでいきました。

日本中、世界中から寄せられる「がんばれ!」という声から逃れるように、父はひっそりと陸前高田市を離れました。前を向けない、復興の役に立てない自分は弱い人間だ、ダメな人間だと、父は自分を責めていたのです。徐々に瓦礫が片付き、街に漂っていた腐臭が薄れていっても、父の心の秒針は、前に進むことを拒んでいるかのようでした。

そんなある日、父が悲嘆に沈む姿にシャッターを切ったことがあります。見ているだけでも、胸が締め付けられるほどに苦しい父の涙でしたが、それでも僕がレンズを覗き込んだのは、それが単に「苦しみ」だけを表しているものではないと感じたからです。人生の伴侶を失う苦しみは、僕には到底想像もできないものですが、この悲しみの深さは、母への愛への深さでもあると気づいたのです。悲しみに沈む日々は、愛する人と生きてきたこれまでの日々を追憶し、その悲しみも喜びも、静かに深く心に染み込ませる時間でもあったのではないでしょうか。

数年後、父は眠るように息を引き取りました。しかしその最後の寝顔は、とても安らかなものでした。きっと今は愛犬とともに、彼岸で母と連れ立ち微笑んでいるのではないでしょうか。突然の自然災害に多くのものを失った父でしたが、この世に生まれ、母と出会い、そして死別を経験したことは、きっと父の心の奥底に、かけがえのない何かを残したのだと思います。そしてその悲しみから生まれた種子は、父からの最後の贈り物として、今も僕の命を支え続けてくれています。

東日本大震災から10年―約2万2千に上る死者・行方不明者(関連死含む)。言葉にすると簡単ですが、その数字の背後には、その何倍にもなる人々それぞれの、違った悲しみの日々があります。心の秒針が時を刻む速度は様々です。ひとりひとりのその歩みに、そっと寄り添う社会こそが、「復興」への礎となるのではないでしょうか。彼岸へ渡ったすべての人の冥福と、その悲しみを慈しむすべての人に、温かな祈りを。


岩手県陸前高田市。直前まで営まれていた日常は、一瞬にして津波に呑み込まれ、破壊された。波音と、吹きすさぶ風、ウミネコの悲しそうな鳴き声だけが、静まり返る市街地に響いていた。

震災から1か月後、母は川の上流9キロ地点で、瓦礫と泥土の下から見つかった。梅のほころぶ季節に、荼毘に付された母の肉体は、黒煙の粒子となり空へと散っていった。

語りかけても声は返ってこない。記憶の中の声色も次第に遠のいていく。手触りも温度もないぽっかりとした虚無が残り、写真の奥の笑顔が、はるか遠くのものに思えた。

最愛の伴侶を失った父は、日々悲嘆の深淵に佇み涙をこぼした。身のよじれるほどの苦痛と、張り裂けそうな思い。しかしその悲しみの深さは、母への愛の深さでもあったのだ。

母は津波警報後、川向かいの避難所を目指し、愛犬二匹を連れてこの橋を渡っていたと思われる。何度もファインダーを覗き込み、耳を澄ます。何かが聴こえてこないかと。

年月と共に瓦礫が整理され、姿を消していく。目に見える傷跡が減っていくにしたがい、どこに手を合わせれば祈りが届くのか、わからなくなる。

あまりにも多くの死に触れると、心の痛覚が麻痺しそうになる。しかしそれと同時に、足元に咲く小さな命の存在に、はかりしれない奇跡を思い、シャッターを切ることも増えた。

色彩の無い瓦礫に埋もれていた市街地が、ある日「シロツメクサ」に覆われた。それはまるで、そこにある傷をそっと包み込むかのようだった。

陸前高田市の灯篭流し。駆け抜けるように海へと向かうものもあれば、ゆっくり、ゆっくりと、川面を離れることを惜しむかのように漂う灯篭もある。

海に近づくと体の震えの止まらなかった父と、友人の漁師さんの船で沖に出た。父は元々、自然と触れるのが大好きだったのだ。数年後、眠るように息をひきとった父は、今は母とともに銀河をめぐっているのだろうか。

多くの命を奪った海は、太古から生命を育んできた「ゆりかご」でもある。それらの命は、何千、何万、何億の夜を越えて、今を生きる命へと繋がっている。

写真の中に閉じ込められた時間は、そこに写る人々へと通じる心の鍵でもある。あの日の悲しみも、喜びも、かけがえのないものとして慈しむ。声が聴こえなくとも、彼岸と此岸の間には、目に見えない何かが流れている。

(2021.3.19/写真・文 佐藤慧)

※本記事に使用した写真及びテキストは、山形総合文化芸術館にて開催された佐藤慧写真展「ReCollection-東日本大震災から10年-」にて展示したものの一部です。

【展示情報】 2021年2月27日~3月18日/ 山形県総合文化芸術館1Fロビー


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