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2022.9.27

何をもって「おわった」といえるのか / D4Pメディア発信者集中講座2022課題作品 吉田梨乃

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

2022.9.27

#media2022

2022年8月、熊本県水俣市を訪れた。戦後の経済成長を牽引した企業チッソによる工場廃水の水銀が引き起こした文明の病、「水俣病」事件。人々が豊かさを追い求めた裏側で生まれた犠牲と、現在まで残る遺産をこの目で見て、少しでも学びを深めたかった。学校の授業で水俣病について学んだきり関わる機会がなかった人々とともに考えたい。いったい事件は何をもって「おわった」といえるのだろうか。筆者とともに、水俣散策の旅へと誘う――。
 


2022年8月23日。秋の兆しを感じる少し肌寒くなった東京から、まだ真夏日和がつづく熊本県水俣市を訪れた。

戦後の経済成長を牽引した企業チッソによる工場廃水の水銀が引き起こした文明の病、「水俣病」事件。人々が豊かさを追い求めた裏側で生まれた犠牲と、現在まで残る遺産をこの目で見て、少しでも学びを深めたかった。

大学院でアメリカの奴隷制を研究する私は、一見「水俣病」とは繋がりがないようにも思える。しかし、石牟礼道子さんの『苦海浄土―わが水俣病』(1969年)との出会いが、その意識を一変させた。この文学作品は、近代文明への根底的な批判、それを支えてきた人々の罪への弾糾、そして極限状態に置かれても輝く魂と人間の尊厳を描き、当時、経済成長がもたらした「豊かさ」に酔いしれていた人々に大きな衝撃を与えた。

私が学んでいる奴隷制は、近代資本主義において力をもった者が利益を享受した一方で、それに翻弄された人々には様々な犠牲と苦痛が加えられ、何世紀にもわたる経済的な構造として続いていった歴史がある。

近代文明の「豊かさ」を追い求める裏側で起きた水俣病事件は、奴隷制と「構造的な共通性」をもっているのではないだろうか――。『苦海浄土―わが水俣病』は私にそれを確かめさせるかのように、水俣の地へといざなった。
 

       

静かな波にゆったりとなびき、鏡のように水に照らされた日の光が映る海。この海と対岸に広がる島々は、事件が起きる前からこの地に生きる人々に恵みを与え、多彩な漁師文化を発達させてきた。生きるために欠かせなかったこの豊かで美しい海が、人々の日常の営みと共同体を破壊するとなど、いったい誰が想像したであろうか。
 

     

工場廃水を排出し、水俣病の原点となった「百間排水口」。そのすぐ側には、お地蔵様と碑石が安置され、誰かが数日前に供えたばかりの仏花があった。その前で手を合わせ、力強く咲く花々を見つめると「花を決して枯らせない」という強い意志とともに「水俣病を忘れない」という誰かの声が聞こえてくるような気がした。
 

    

2018年、水俣病犠牲者の慰霊式。企業チッソの後藤社長は「私としては患者の救済はおわっている」と発言した。 1969年、かつて水俣病は「見舞金」という形で補償問題を処理し、「おわった」とされたことがある。しかし、その後も9年間、水銀は排出され続け、さらなる被害の深刻化へとつながった。

朝日新聞デジタル2018年5月1日付「水俣病『救済終わっている』チッソ社長発言 慰霊式後に」

この病は地域の分断を根深いものとさせ、人々に深い傷を刻ませた。そして、水俣病の公式確認から半世紀が経つ今日もなお、解決に向けた課題は残されたままだ。水俣病は決して「おわった」歴史上の出来事ではない。

いったい事件は、なにをもってすれば「おわった」といえるのだろうか。この「おわった」という言葉は、何かを終着させたい一部の誰かにとって、都合のよいように使われてはいないだろうか。それは、誰かの瘡蓋を無理やり剥がし「傷は完治された」ものだとし、もはやその傷跡さえ「ないもの」だとさせる行為のように思えてならない。
 

水俣最後の日。丘を少し登り、眼下に不知火海が広がる地に佇む「水俣病歴史考証館」を訪れた。地域の中で孤立した患者と家族の拠り所を前身とした「水俣病センター相思社」が運営する民立民営の博物館だ。

ガイドのSさんは言っていた。「支援者や患者以外の人が水俣病について語ることができるようにならなければ、水俣病はおわらない。市民に深い傷が残されてしまったからこそ、自分は『伝えること』で、変わっていく空気感をつくる一助になりたい。」と。私にはSさんのように、人々の声を『伝えること』はできるのだろうか。

水俣の地を去る前、不知火海の前に建つ「水俣病慰霊の碑」で手を合わせた。側に立ち並ぶ碑石の数々。その中のひとつに、目を閉じ、苦痛の中に封ざれたような顔をした碑石を見つけた。大きく空いた口は、海に向かって何かを叫んでいるように見える。
 

    

水俣病について学びはじめたばかりの私には、この叫びの声が何か、その声に秘められた想いのすべてを汲み取ることはできなかった。

でも私は、この碑石の叫びの声がはっきりと聞こえるようになるまで、誰かの「おわった」という言葉にかき消される「おわっていない」という小さな声を拾い、耳を傾けていきたいと思った。水俣病を「おわった」事件としない空気感をつくる一助となるため。そしていつかすべての人にとって、本当に「おわった」といえるようになる日がくるまで。

「構造的な共通性」をもつ奴隷制を学ぶ私が水俣病といかに向き合うべきなのかを考え続けること、そして関心の火種を灯し続けることをこれからも止めないでいたいと思う。
 

何をもって「おわった」といえるのか

    ▶︎形式:写真と文章
    ▶︎対象:学校の授業で水俣病について学んだきり関わる機会がなかった人、水俣病を「おわった」出来事であると思っている人
    ▶︎制作:吉田梨乃


    こちらは、D4Pメディア発信者集中講座2022の参加者課題作品です。全国各地から参加した若者世代(18~25歳)に講座の締めくくりとして、自身の気になるテーマについて、それを他者に伝える作品を提出していただきました。
     

 
 

2022.9.27

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