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Feature特集

被爆と出自、70年近く隠し続けた。今なぜ、自身の名で被爆体験を語るのか。

頭を圧するほどの強烈な日差しが容赦なく降り注ぐ8月最初の午後。広島記念平和公園の木々の間からは、耳の中でこだまするほどのセミの声が響いてくる。うだるような暑さの中でも、慰霊碑に手を合わせに来る人の姿が絶えない。いまだ引き取り手のない遺骨、7万柱が供養されている原爆慰霊塔の前に差しかかったとき、日傘を差しながらゆっくりと歩いていた李鐘根(イ・ジョングン)さんが、噛みしめるように語った。「あの混乱の中で、姉を探しに行くことさえできなかったんです。だからここを訪れる度、姉の名を呼ぶんですよ」。1945年8月6日、陸軍の被服支廠(ししょう)で働いていた鐘根さんの姉は、今も行方がつかめないままだ。
 

平和記念公園内の原爆慰霊塔

鐘根さんは16歳の時、当時勤めていた広島鉄道局に出勤途中、爆心地から約1.8キロの場所で被爆した。その体験を人前で証言し始めたのは、2012年、80歳を超えてからだった。「自分の体の火傷にね、ウジがわくんですよ。それが恥ずかしくて、なかなか話すことができなかったんです」。地球一周の船旅をしながら被爆証言をするピースボートのプロジェクトに参加するまで、その痛みを誰かに話したことはなかった。鐘根さんが語れなかったのは、被爆体験だけではない。「ピースボートに乗るために、本名が書かれているパスポートが必要だったんです。その名前を人前で名乗ったことはありませんでした。それがなければ、通名の江川政市で証言をしていたかもしれません」。最初は必要に迫られるような形で、民族名を名乗ることになったという。
 

李鐘根さん。原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)前で。

鐘根さんの父の家族は農家として生計を立てていたが、日本の植民地支配下での生活は苦しく、1920年に日本に渡ってきた。1928年、島根県で鐘根さんは生まれた。広島で暮らし始めたのは、鐘根さんが1,2歳の頃だった。どのように、誰と日本に渡ってきたのか、父は語りたがらなかった。鐘根さんも、深くは尋ねなかった。「差別されるのが嫌で、できれば自分は日本人になりたかったから」と、当時の心境を語る。両親は家では母国の言葉を使い、母はチョゴリを着て過ごしていた。それにも反発して、鐘根さん自身は日本語で話していたという。

小学校時代、子どもから大人までもが、鐘根さんの出自を取沙汰し、理不尽な暴力を加えていった。誰かクラスメイトが泣いていれば、無関係のはずの自分のせいにされる。キムチの入った弁当を学校の暖炉で温めると、その匂いが教室に広がり、教師に弁当箱ごと窓から捨てられたこともあった。道端で男に呼び止められ、小便をかけられたこともある。

「なんで朝鮮人というだけで、こんなにいじめられるんだろう、という疑問は持っていました。でも、子どもだったから、屈辱とか差別だとか、そういうことがまだ、分からなかったんです」

就職時も、出自のことは職場に隠していた。学校から「職場に出すように」と言われた封筒をこっそり開けると、備考欄に「朝鮮人」と書かれていた。消しゴムでそっと消して、広島鉄道局に提出した。両親には職場の場所を告げなかった。父や母が訪ねてくることを恐れたからだ。
 

相生橋から臨んだ原爆ドーム。原爆投下はこの橋を目標にしたといわれています。

8月6日朝、出勤途中に突如光線が走り、目の前の光景がオレンジ色に見えた。とっさにその場に伏せ、橋の下に避難すると、「真っ赤になっとるで、火傷じゃないか」と身を寄せていた男性に声をかけられた。「そのおじさんも火傷しているんですが、気づいていないんですよ。自分も顔を触ってみて、初めて痛いなあって感じて。気が動転していて、それまで気づかなかったんです」。熱線を浴び、顔や首の後ろに火傷を負った。ズボンがめくれていた左足のかかとの上には、こぶし大の水膨れができていった。職場に行くと、「火傷には油がいい」と車両整備に使う工業用の油を同僚たちが塗ってくれたものの、堪えきれないほどの痛みに涙が出た。

「家に帰ってみると、父も母もいませんでした。職場がどこかも分からないのに、とにかく私を探しに行ったようです。わら草履で歩き続け、焼けただれた人々が線路伝いに帰ってくるのを目にした母は、“もう行ってもだめだ、生きていないだろう”と諦めて引き返し、夜遅くに帰ってきました」

鐘根さんの体は、職場で塗られた油が汗で流れ、真っ黒になっていた。それでも「生きとったかあ」と震える声で叫んだ母は、鐘根さんを抱きしめ、「アイゴ(ああ)、アイゴ」と泣き続けた。
 

韓国人原爆犠牲者慰霊碑の前に立つ鐘根さん

火傷の経過は思わしくなかった。傷口には容赦なくハエがたかり、ウミが流れ出る。「ウジ虫をわかした状態でお前は世の中に出ていけるだろうか」、と母は嘆き、思わず「パルリチュオラ(早く死ね)」と口走ることもあった。「本心ではないと思いますが、耐えきれなかったんでしょう」と鐘根さんは振り返る。キュウリをもらって貼ってみたり、芋をすって塗ってみても、火傷は一向によくならなかった。

そんな中で、鐘根さんの家の前の農道を伝って畑に通っていたおばあさんが、植物性の油を差し入れてくれたことがあった。「私が大きな声でうなったり、母が泣いたりするのが聞こえたんでしょう。油も当時は貴重です。母が一滴も粗末にしないようにと塗ってくれました」。皮膚は少しずつ、回復に向かっていった。「まだまだ差別が残っていたときに、あのおばあさんの優しさが身に沁みました。証言をするときも、このことは必ず話すんです。“優しくしたことは忘れていくかもしれないけれど、優しくされたことは忘れてはいけないよ。私はあのおばあちゃんがいなかったら、ここにいないよ”と」。

鐘根さんが職場に復帰したのは、翌年の2月になってからだった。体は元気になっていたものの、肌にはまだ、火傷の痕跡が残っていた。同僚たちは、肌が焼けただれたりという熱戦などの直接的な被爆をしていなかった。やがて、「原爆がうつるらしい」「江川の傍にはなるべく行かないようにしよう」という声が耳に入ってくるようになる。仕事中も、自分だけが別の作業を振り分けられ、孤立していくのを感じていた。それでも鉄道の仕事が好きだった。

決定打だったのは、正規雇用のために戸籍の提出を求められたことだった。提出すれば、出自が職場に知られることになる。「“また戸籍のことを言われるのでは”と思うと、心臓がどきどきして、仕事が手につかないんですよ。憧れの仕事を辞めなければならないのは、言葉に表すことができないほどの悔しさでした」。被爆した翌年の6月ごろ、やむなく職場を去った。
 

韓国人原爆犠牲者慰霊碑前での慰霊祭で

2012年、ピースボートの地球一周の船旅を知ったのは、新聞の告知を見たことがきっかけだった。「最初に参加しようと思ったのは、実は地球一周に惹かれたからで、証言活動をしよう、ではなかったんですよ」と、鐘根さんは少し恥ずかしそうに笑った。

船出の日、横浜の港で、何千人もの乗船者を代表して、鐘根さんは出港の挨拶をした。大勢の観衆を前に、最後にはっきりとした声で「李鐘根」と名乗った。あの時の清々しい気持ちは、今でも忘れがたいものだという。

被爆体験は、語ることだけでも苦痛を伴うものだろう。加えて鐘根さんは、朝鮮半島にルーツを持つ人間が証言をするという難しさに直面する。朝鮮半島に対する日本の搾取の構造や戦後補償の問題に触れると、「日本にいながらなぜ日本の悪口を言うのか」という反発を受けることもあった。

植民地支配下の朝鮮半島で、生活基盤を失って渡日を余儀なくされた人々、労働力不足を補うために連れてこられた人々、鐘根さんのように二世となる世代など、敗戦時には200万人以上の朝鮮人が日本にいたとされている。韓国原爆被害者協会の推計では、広島と長崎で被爆した朝鮮半島出身者は約7万人にのぼるという。そんな朝鮮半島出身者の苦しみが、この社会で伝わっていないことを鐘根さんは痛感していく。

日本の人々と手を携えて核廃絶を目指していきたいと、鐘根さんは願っている。日本政府には核兵器禁止条約に批准してほしいと考えている。ただ、自分たちの立場から声を大にしてそれを求めれば、「内政に干渉するな」というバッシングが起きるのでは、という恐れもある。ヘイトスピーチを巡る日本の状況は、ヘイトスピーチ解消法が施行されてもなお、深刻な状況にある。

それでも、2012年から人前で証言を始めたことで、鐘根さんの日々は大きく変わった。「何も話せなかった自分が、人前でこうして証言を重ねてきて10年近く。それまでは電話がかかってきても、“江川です”と名乗っていたのが、最近では“李です”と答える。それが、私にとっては人生最大の贈り物だと思っています」。

広島市では、被爆体験証言者の思いを受け継ぎ伝えていく「被爆体験伝承者」の養成を続けている。鐘根さんは90歳をこえ、養成に携わるのは今年で最後にしようと考えている。今、その研修を受けているうちのひとりが、鐘根さんの娘さんだ。こうして未来へのバトンは今、世代を超えようとしている。

 

証言活動の際、通名と本名が書かれたカードを持ち、なぜ民族名を名乗るようになったのか、これまでのいきさつを語る

(2021.8.5 / 写真・インタビュー 安田菜津紀)

※公開後、一部文言を修正しました。

※2022年7月、李鐘根さんがご逝去されました。ご自身の歩みを聞かせて下さったことに感謝申し上げるとともに、氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 


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