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2022.8.11

【イベントレポート】震災から11年、福島県双葉郡のいまを知る ~D4P Report vol.3 福島取材報告会(2022.7.11)

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

田中 えり Eri Tanaka

田中 えりEri Tanaka

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

田中 えり Eri Tanaka

田中 えりEri Tanaka

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

田中 えり Eri Tanaka

田中 えりEri Tanaka

2022.8.11

イベント情報 #伝える仕事 #災害・防災 #東北

7月11日(月)、「震災から11年、福島県双葉郡のいまを知る ~D4P Report vol.3 福島取材報告会」を会場とYouTube配信にて開催しました。今回は福島県双葉郡に暮らすゲストの方々を交え、東日本大震災にかかわる取材報告を行いました。当日は会場約60名、YouTube配信約200名の方にご参加いただき、これからの東日本大震災被災地や原発事故との向き合い方について、ゲストの木村紀夫さん、秋元菜々美さんと一緒に考えました。
 

今回の取材報告会は数年ぶりの対面企画でした。会場では消毒と検温の実施、参加者どうしの距離を取るなど感染対策を行い、イベントを開催しました。

登壇者プロフィール

■福島県双葉郡 大熊町 木村紀夫さん

東日本大震災で事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所が立地する福島県大熊町で生まれ育つ。津波で家族3人を亡くし、父親と妻の遺体は震災後2か月以内に発見されるが、次女の汐凪(ゆうな)さんの遺骨の一部が発見されたのは震災から5年9か月後。自身の体験から防災と現代社会の豊かな生活への疑問について発信している。

■福島県双葉郡 富岡町 秋元菜々美さん

1998年、福島県双葉郡富岡町生まれ。いわき総合高校で演劇を学び、専門学校在学中に、双葉郡の内陸に位置する葛尾村の一般社団法人で村内ツアーの企画・運営を経験。現在は、自身の経験をもとに富岡町や双葉郡各地を語りめぐるオリジナルツアーを行っている。活動を通して出逢った俳優2人との繋がりから、富岡町に文化拠点を運営中。

 

構造的に通ずる福島と沖縄

Dialogue for Peopleが取材を行ってきた福島県大熊町は、東日本大震災後、全町避難を余儀なくされました。震災直後に行方不明者の捜索が叶わなかっただけではなく、その後も立ち入り制限によって思うように捜索活動ができない状況が続きました。

加えて、大熊町では2014年に中間貯蔵施設の建設が決まりました。中間貯蔵施設の区画は、大熊町で暮らしてきた木村紀夫さんの自宅跡地周辺や、木村さんの次女・汐凪さんの遺骨の捜索を続けてきた場所でもあります。

こうした大熊町の状況は、米軍新基地建設が進められる沖縄でも構造的に同じようなことが言えるのではないか。この思いから、木村さんは沖縄各地で戦争犠牲者の遺骨を捜索する具志堅隆松さんのもとを訪れました。その縁から、今年1月には具志堅さんが大熊町を訪問し、汐凪さんの捜索を行いました。その詳細な様子については以下の記事をご覧ください。

【関連記事】

■遺骨の語る声なき声 ―沖縄戦戦没者遺骨と新基地建設―(2021.4.27)
■祈りの場、そして伝える場所に――福島県大熊町、約10年9カ月を経て見つかった娘の遺骨(2022.1.17)

 

2022年1月、大熊町での捜索活動の様子

今年の4月には具志堅さん、木村さんに加えて秋元さんも沖縄の遺骨捜索現場を訪れました。

「非常にたくさんの課題が突き付けられている2つの地ではありますが、ここから生まれていった経験の分かち合いや連帯が、どのような『伝承』の分かち合いとして見出せるのか。私自身これからも取材を通じて見続けていきたいと思います」(安田)

その後、登壇者の方々から福島県双葉郡の今をお話しいただきました。
 

急速に変わりゆく町

木村紀夫さんは大熊町の置かれている状況について、復興拠点である大熊町役場、繁華街近辺、中間貯蔵施設エリアの3つに分けてお話しくださいました。
 

木村紀夫さん 

大熊町役場のある大川原地区の復興拠点では、2019年春に一部避難指示が解除されたことを皮切りに、昨年から新庁舎を中心として、非常時用のシェルターや、「交流施設linkる大熊」などの交流施設や、「温浴施設 ほっと大熊」といった商業施設がオープンし、大熊町ゆかりの飲食店
も再開されています。来年の春には教育施設も新設されるようです。

その周辺には平屋の復興住宅も整備され、現在ではおよそ1,000人が暮らしていますが、そのうち震災以前から大熊町に住民票がある人は300人弱。大熊町の人口が1万1,000人のため、ほとんどの住民が帰還できていない状況です。
 

置き去りにされた町民の意思

繁華街にあった大野駅は、2020年に常磐線の運行が再開、駅周辺は除染とともに建物の解体が進み、新しい街に作り替えられています。ほとんど無傷だった大熊町図書館も昨年秋に議会の全会一致で解体が決まり、これには解体の見直しを求めて署名運動も行われました。

「住民の中で反対運動が行われることは、大熊町の中では画期的なことだったと思います。(中略)解体が決まったことは、図書館の前に置かれていた三角コーンに書かれているのを見て、初めて知りました。多くの町民がそのような状態でした。何も知らない間に決められてしまっていました」

図書館をはじめ、商店街に中学校と、大熊町の思い出が人知れず消えていくことについて、木村さんは次のように話します。

「そこに行くと、その頃の様子・感情が湧き上がってくるんですが、無くなることによって、なかなか思い出せないような状況になっています」
 

救えるかもしれない生活、そして命

木村さんの自宅跡地がある中間貯蔵施設エリアは、除染された土の入ったフレコンバックが保管されており、2045年まで暮らすことができません。「原発事故がなかったら学校も再開されていたのに」。木村さんは東日本大震災での出来事を「原子力災害」として伝承しています。

同時に津波の教訓として「救えるかもしれない命を助ける」お話をされているといいます。地震発生当時、汐凪さんは児童館で遊んでいたところを木村さんの父・王太朗(わたろう)さんとともに自宅に車で引き返すことになり、その後行方不明となりました。「小学校の学童の人が、『ご自宅は海から近いけれども、大丈夫ですか』と一声掛けていたら…皆さんがもし学童のスタッフだったら、このような“声掛け”もできる事の一つなのかもしれません」。伝承活動の中で、そう木村さんが語りかけたところ、「たとえマニュアルにないことでも、臨機応変に動こうと思った」との若者の声が返ってきたといいます。

2020年頃から汐凪さんの遺骨の見つかった近くの松の上で、震災前には見られなかったミサゴが暮らすようになったといいます。「昨日捜索に行った時には新しい命が生まれていて、一生懸命飛ぶ練習をしていました。自然が復活してきているんですよね」。

人々の暮らしを豊かにすると思われていた原発が無くなった大熊町で、自然との共生が進みつつあるようです。真の豊かさとは何か、立ち止まって考える必要があるのではないでしょうか。
 

うつろいゆく風景

秋元菜々美さんからは、Googleストリートビューを活用して富岡駅や中央商店街の変遷をお伝えしていただきました。
 

秋元さん

秋元菜々美さん

震災前の富岡駅は、ステンドガラスがある赤い屋根のかわいい駅だったそうです。それが21.2mもの津波によって全て流されてしまいました。2017年には元の駅の北側に新しい駅舎ができ、周辺には2021年に浜街道と国道6号線という内陸につながる道路を結ぶ、「汐橋(うしおばし)」が完成しました。既に防潮堤の建設も終わった一方で、富岡町には現在でも2人の行方不明者がおり、新たな捜索が難しくなっているようです。

「原発被災というものもあり、捜索に対してなかなか声を上げづらいのが本音の部分なのかなと思います」

中央商店街周辺は避難指示の解除をきっかけに建物の解体が急速に進み、商店街があったことは想像できないくらいの風景になっています。
 

土地の記憶

富岡町には7月時点で2,000人が生活しており、ようやく震災前の人口の1割を超えたそうです。しかしかつては「東洋一の変電所」と呼ばれた新福島変電所も解体が決まり、2044年には原発の排気筒も姿を消します。

「その頃には人々は福島に原発があったことを忘れるのではないか」と秋元さんはいいます。

富岡町には慰霊の場所がなく、人が来ても手を合わせる場所がなかったそうですが、地元漁師の方の訴えでようやく実現に結びつきました。復興に“ケア”の視点を欠かさないためにも町の姿を遺す、という選択肢も必要なのではないかーーその思いを伺った記事は、こちらからご覧いただけます。

秋元さんは、ツアーのみならず「演劇」という形で富岡町の仲間と伝承活動を行っています。「うつほの襞(ひだ)/漂流の景」というタイトルの作品の上演を通じて、「その場所に今無くなってしまったものをあるかのように感じられるように、富岡町にあって欲しいものを映し出せるように」創作を続けているといいます。
 

         

「問い」を共有すること

トークセッションでは、会場・オンライン双方からお寄せいただいたたくさんの質問をもとに対話を重ねました。

ー「伝承活動をするうえで大切にしていること」は何でしょうか。

木村さん: 問いを与える、一緒に考えることを大切にしています。教訓やその場で起こった出来事を伝えるだけでなく、『あなたならこの場面でどうする?』と、考えをぶつけあっていくことを伝承の中でやっていければと思っています。

秋元さん: できるだけ当たり前の日常の話を取り入れるようにしています。震災とは、福島県の特別な場所で起こったことではなく、どんな地域でも起こり得ます。そして、日常や伝統が途切れる出来事でもあったと思います。『あなたは自分の周りの“危険の種”にどれだけ気づけているのか。それに対して疑問を持てているのか』ということを考えるきっかけになれば良いなと思います。

安田: 東日本大震災から時間が経てば経つほど、さまざまな報道で主語が大きくなっていると感じます。秋元さんが仰ったようなお話の一つひとつにも生活が宿り、命が宿っているけれども、取りこぼされがちになってしまう。メディアとしてどのように発信していくか改めて考えなければならないと感じました。
 

ー復興とは何かをずっと問い続けています。公共にはお金が投入され、見た目はきれいになっていきますが、そこに「暮らし」は成り立っているのか知りたいです。

秋元さん: 正直に言えば、今も考え中です。私としては、すごく大きなことをしなくても良いのではないかと思っていて、失われて当たり前の日常を一人ひとりが当たり前のように取り戻していける、頑張らなくても日常を送れる状態になることがまず一つ。(中略)もう一つは、伝承のテーマを考える中で浮かんだことなのですが、『自分たちが豊かに暮らすために生まれてきた技術とどう向き合うか』が原発事故後では大事になると思います。

安田: とても大切なスタンスだと思います。解体の是非の話でも、早く答えを求めがちです。しかし、これまでの生活が積み重なった自宅や思い出の場所って本当に簡単に整理がつくものなのだろうか、ということを考えた時に、早く答えを出すばかりが大切ではないですよね。

木村さん: 私は『復興』は考えられないと思います。防潮堤を作ることが今の世の中では『復興』になっていて、『捜索してよ』と言えない人がいる。そういう人たちが表に出てきてないんじゃないかと思います。
 

過去を見なければ未来も作れない

ー震災の爪痕を残していくことに対して、辛い思い出を想起させる、復興に繋がらないといった反対の声を上げる町民の方もいると思います。町民どうしの意識の違いにどのように向き合いたいと思いますか?

秋元さん: 私自身この活動をしていて後ろ向きだと捉えられる部分もありますが、『過去を見なければ未来も作れない』と思っていますし、それなしに作られた街をすごく脆く感じてしまいます。地震や火山活動も多い国ですし、過去を顧みずにまちづくりをしたところで、人間よりももっと大きな自然の力によって破壊されてしまうのは目に見えています。
なので、これからのまちづくりをあなたが考えてください、ではなく一緒に考えていこう、と周囲に問いかけていくことが必要だと思います。避難をしている最中でインプットの時間がそれぞれ違っていて、どのような情報を得てどのような考えに至ったかもそれぞれ異なると思うので、意識の擦り合わせは長い時間を掛けて行っていくことが大事だと思います。

木村さん: 若い世代の人が率直に意見を言えるような場を作ることが自分たち世代の責任。田舎はすごく縦社会なんですよ。上の人間が上から押さえつけて、下の人間が顔色を窺うという雰囲気が伝わってくるんですよね。
この間長野の小学生が来て、一緒に今の大熊町の問題を考えようという機会があったんですね。『中間貯蔵施設のごみは自分たちの町で受けましょう』と言う子もいたりとか、『危険性はどうする?』『皆で分担しましょう』など、さまざまな意見が交わされました。こうした話し合いを、実際にしていけたら最高だなと思っています。

取材報告会では、ゲストのお二人がたびたび「一緒に考えましょう」と仰られていたことが印象的でした。「自分はそれほど被害を受けていなかったから」「当時のことをよく覚えていないから」という理由で東日本大震災や原発事故への関心が薄くなってしまうこともあるかも知れませんが、「過去を見なければ未来も作れない」という秋元さんの言葉もあるように、11年前の出来事を自分ごととして向き合う必要があるのではないかと改めて感じます。
 

         

(2022年8月10日/ 文 Dialogue for Peopleインターン 中越百合子、 校正 佐藤慧)

 

中越百合子(なかごし・ゆりこ)
Dialogue for People インターン。大学でのワークショップをきっかけに陸前高田市の福祉作業所と交流を持つようになった。震災当時は小学校4年生。


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2022.8.11

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