子ども時代のアルバムは、1冊しか残っていない。開いてみると同じ服を着た同じ日の写真が何枚も貼られている。撮影された日数だけを考えると、数日分しかないかもしれない。自分に子どもができてから、ますますこの少なさが気になるようになった、と中川智子さん(崔智子さん)は語る。
以前は「愛されていないから」だと思っていた。けれども父の身に起きたことを知った、今となっては分かる。思い出を重ね、写真を残す余裕は、家族にはなかったのかもしれない、と。父親が「スパイ」に仕立てられたと知ったのは、智子さんが30歳を過ぎてからのことだった。
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家族の中に感じていた「空白」
智子さんは1981年、千葉県で生まれ、神奈川県藤沢市の閑静な住宅地で育った。父の崔昌一(ちぇ・ちゃんいる)さんは、1941年に大阪で生まれた在日コリアンの2世だ。
昌一さんが生まれた当時、一家は炭焼きで生計を立てていたものの、父が病に倒れてからは借金がかさみ、ようやく返済をし終える頃に、今度は母が亡くなった。各地を転々としながらも、電気など引かれていない家の中で、昌一さん兄弟はランプの下で勉強を続けた。時には裸足に草履だけを履き、一里の距離を歩いて学校に通っていたという。教師らにも背中を押されて進学を続け、広島大学で山の地質や鉱床を研究した後、東京大学大学院に進学。1964年にはソウルの炭鉱で技師としての仕事を得る。その後、智子さんが生まれる前に、妻と智子さんの兄を連れてまた日本に戻り、私学受験のための塾で仕事をしていた。
「父は本当に真面目で、お酒も飲まず、ギャンブルもせず、何も語らない静かな人でした。今思うと、“語れない”ことも多かったのかもしれません」。
大阪市内で取材に応じてくれた智子さんは、アルバムの写真を見返しながら、家族の歩みを語ってくれた。たった1冊のアルバムの中には、父と兄、智子さんが一緒に納まっている写真が1枚しか残っていない。
物心ついた頃から、父と兄の仲はすでに険悪で、常に緊張状態だった。
「家の中で過ごしていても、兄の父への拒否反応はものすごくて、近づいたら何かが爆発してしまいそうな雰囲気がありました。『お父さんこう言ってたよ』『お兄ちゃんはこうなんだって』と、自然と私が間を取り持つようになっていました」
いつも明るく振る舞おうと努めるのは、幼心には負担でもあった。
一方、9才で突然、異国・日本での生活が始まった兄にとって、智子さんの存在は支えでもあったようだ。
「『智子が生まれてくれて、ようやく話せる人ができたのは嬉しかった、学校に友達がいなかったから、放課後すぐ帰ってきておむつ替えたんだよ』って兄が話してくれたことがありました」
そんな兄が、泣きながら父に何かを訴えているのを度々目にしたことがある。
「私に聞かせないように、そういう時は韓国語なんですよね。普段の家の中では、母が韓国語まじりで私に話して、私が日本語で返す、という生活だったので、分かる単語もあるんです。『来たくなかった』『人生をめちゃくちゃにされた』ということを兄が訴えていることは分かりました」
時折「ぼくのことを見ていなかった」と怒りを露わにする兄を見て、父が家庭から離れていた時期があったのかもしれない、と智子さんは感じていた。家族の中にはいつも、智子さんが知りえない「空白」があった。
「母さえいなければ差別されないのに」が過る日々
一方、母親は常に不安定だった。
「母だけ日本語が堪能ではなく、近所の人とも折り合わなかったんです。韓国だと、正直に物を言ったり、激しい喧嘩をしても納得すれば次の瞬間には仲良くなっていたりしますが、そういう文化のない近所の人から一線を引かれてしまったり、喜ばれると思ってキムチを手作りしても『臭い』と拒絶されてしまったり」
双極性障害による気持ちの浮き沈みが激しい中でも、母は「韓国のオンナは働かなければならない」と、車の下請け工場で、手が真っ黒になりながら仕事をしていた。無理をして働きに出ては、数ヵ月してまた何もできなくなる、ということの繰り返しだった。
両親は川崎や横浜のような集住地区を避けるようにして、誰も知り合いのいない地域を選んでいた。だからこそ韓国ルーツの一家は、地域の中で目立ってしまう。智子さん自身、出自や育った環境によって、小学校で過酷ないじめを受けることになる。
「母は精神的に不安定なこともあり、子育ても疎かな状態でした。当時の私の写真を見ると、洗面の仕方を教えてもらっていなかったからか、朝食がきれいに洗えていなくて顔にご飯や卵がついたままだったりするんですよね。服も不衛生で、次第に周囲から『あの子いつも同じ服着てる』『汚い』と言われるようになったり。『あの子とは仲良くしない方がいい』と親から言われた同級生たちもいたようです」
小学校5、6年生の歴史の授業では、韓国朝鮮文化が負のイメージを帯びる取り上げられ方をしていた。今度は男子生徒たちから「帰れ」という言葉が浴びせられる。韓国人である自分を、ますます受け入れられなくなっていた。
「母さえいなければ差別されないのに――」、そんな考えまでもが過ってしまう。
「今思うと当時は、母の世話をするので精一杯でした。一日ずっと母が寝ているときもあり、炊事などの家事は、小学生のときには一通りできるようになっていました。母は家のことを、父や兄には絶対させたくなかったようで、私には『女の子がやりなさい』、兄には『勉強しておいてくれたらいいから』、と――。母自身も兄や弟のように進学ができなかったりと、大事にされてこなかったんだと思います。だから『女の子は大事に育てなくていい』という価値観が、無意識のうちにできあがっていたのかもしれません」
不仲な父と兄を見て、母は時折嘆いていた。「お兄ちゃんには苦労させてきた。お母さんはお前じゃなくて、お兄ちゃんだけを大切にする。そうじゃないとお兄ちゃんがかわいそうだ」。そして実際、その言葉通りの育て方をしてきたのだ。
“可哀そうな韓国人”から“不良”というレッテルに
自己肯定感を持てないまま、すり減り、疲弊した心を抱え、智子さんは10代で心療内科に通うことになる。それでも中学校の途中までは、「よき日本人でいなければ」と、成績は上位を保ち、生徒会活動にも参加していた。
「それでも差別はなくならなくて、そうなると人間って、振り切れちゃうんですよね」
いつしか智子さんは、「悪い仲間」と付き合うようになり、夜も出歩くようになっていった。
「その威力ってすごくて、それまでは何をしても“可哀そうな韓国人”でしかなかったのが、“不良”というより強いレッテルが貼られることで、差別やいじめはなくなりました。そういう逃げ方しかできなかったんですよね」
父が中学3年生の時に脳腫瘍で倒れると、いよいよ智子さんも家族も窮地に立たされていく。
「家に帰っても母は『看病疲れた』と言うばかり、心を保てなくなった兄は何もできず、唯一好きだった父は入院して家にはいない――何も希望がありませんでした」
父は智子さんが16歳の時、56歳の若さでこの世を去ってしまう。一家の頼みの綱は、智子さんしかいなかった。智子さんは高校1年の終わりに学校を中退し、近所のスーパーで働くことになる。
こうして幼い頃は母の看病役、その後は一家の“稼ぎ手”としての役割を期待され続けてきた智子さんだったが、18歳のとき、「自分自身の人生を歩みたい」と、藤沢を離れることを決意する。ずるずると続いていた「悪い仲間」との付き合いを一度断ちたい、という思いもあった。目指したのは、一時父も暮らしていたらしい大阪だった。実際に暮らしてみると、湘南地域と違う雑多な雰囲気に、かえって安心感を覚えたという。
昼夜働いてお金をため、高校卒業資格を得る試験に合格した後、大学に進学した智子さんは社会福祉を専攻する。
「人の役に立ちたいというのはずっとありましたし、それでしか自分の存在価値がない、とも思っていた面もあります」
同時に教員免許取得を目指す忙しい毎日を送った。
「教員の必要な資質のひとつとして、敏感さや生徒の様子を見取る力があると思いますが、自分の経験から少し、他の教員とは違う視点から感じ取ることもできるのかな、と思っていました」
「よりよい日本人として生きたい」と、「日本人を見返したい、公務員だったら地元の友だちに勝てるのでは」と、この時、智子さんの中では割り切れない感情が入り混じっていた。
初めて知った「空白」の正体
20歳頃、母に「大学で上手くやっている」と報告をしに、一度藤沢へと帰ったことがあった。すると母が、唐突にこう切り出した。
「お兄ちゃんとお父さんが何で仲悪かったか教えてあげようか」
驚く智子さんに、母はこう続けたという。
「お父さん、悪いことしてないけど、悪いことしたから韓国で捕まった」
幼い頃に感じていた家族の中の「空白」は、昌一さんの「収監」だということを、この時に初めて知ることになる。
母はつたない日本語で、「でもね、お父さん本当は悪くなかったから、(アメリカの)カーター大統領が1979年に来るとき、こういう人が捕まっているとカッコ悪いからって出してもらえた」と続けた。
「母からカーター大統領の名前が出てくるとは思わず、きっと本当なんだろうな、と感じました。6、7年も捕まっていたのは殺人なのか未遂なのか、あんな真面目なお父さんでもいろいろあったのかな、と。でも、当時のインターネットではそこまで多くの情報はヒットしませんでしたし、それ以上深く調べませんでした」。
大学卒業後、智子さんは24歳で高校の教壇に立ち始め、目まぐるしく20代の日々が過ぎていく。30代前半で2人の子どもの育児休暇を続けて取った折に、ふと、父のことが恋しくなった。
「そういえばお父さんって、なんだったんだろう」――出るはずがないと思いながらネットで検索をかけると、そこには父の名と共に、見慣れない「政治犯」という言葉が並んでいた。
「在日韓国人スパイ捏造事件」とは
1960年代から80年代、朴正煕、全斗煥の軍事独裁政権下で熾烈を極めた「スパイ摘発」の中で、実際には罪のない在日韓国人たちまでが「北のスパイ」に仕立て上げられ、「アカ」のレッテルを貼られていった。昌一さんの「事件」も、その最中に起きたものだった。
この「在日韓国人スパイ捏造事件」とはなんだったのか――? 事件に関する調査を続け、被害当事者の支援にも携わる立教大学講師の李昤京(り・りょんぎょん)さんが、これまでの研究から明らかになってきたことを語ってくれた。
「2022年までに手に入った資料を私が調べた限りでは、131名のケースを在日韓国人のスパイ事件とみていいのではないか、と考えています。“在日韓国人”というのは、1世として日本に渡った人たちや日本で生まれ育った人たちに加え、1世であれ2世であれ、60年代頃から韓国に“永住帰国”したり、婚姻などによって日本での法的地位を持っていた韓国人も含めています。いずれのケースも、“在日”という歴史的背景がなければこうした事件にはならなかったと考えられるからです」
実際に朝鮮半島の分断の中で、「スパイ戦」が繰り広げられたのも事実ではあり、全員が「捏造」とは言い切ることはできないという。
「ただ、事件の詳細をたどってみると、スパイ事件であるにも関わらず、“起訴猶予”とされた人、つまり『大目に見て帰してあげる』とされた人や、罰金刑で済ませられた人もいます。“スパイ事件”なのに不自然ですよね。中には原審で無罪になった人もいますが、一度貼られた“スパイ”のレッテルはなかなかはがせません。逮捕は大々的に報じられ、『一度捕まった人』『何かあるはずだ』という疑いの目線を向けられ続けることになります」
実際、李さんが確認した131名のうち、41名がすでに再審無罪となっている。
事件の細部は一人ひとり異なる。「スパイ工作をしよう」という意図ではなくとも、「祖国統一と民主化を願って」という志があった人や、「北側を見てみたい」と単に興味を抱いた人が、北朝鮮に実際に渡っていたケースもあり、一様ではない。
そこには、在日コリアンたちが置かれた特殊な立場も浮き上がる。植民地支配を経て、戦後「日本国籍」を一方的に剥奪された上、「祖国」の分断に1世も2世も翻弄されてきた。例え高学歴の大学に進学できたとしても、日本国内での根深い就職差別は、若者たちの未来への選択肢を限りなく狭めていた。ちなみに「北朝鮮に実際に渡った」としても、裁判部が在日の特殊な背景を考慮して、再審請求で無罪になっているケースは複数ある。
では軍事独裁政権は、どのような「思惑」でスパイを捏造していったのか?
実は今にいたるまで、国による徹底的な検証や正式な説明はない。ただ、時代背景を踏まえると、複合的な理由が推察できるという。
1960年代までには韓国内で活動していた「固定スパイ」が、周囲の人の通報などから次々と逮捕されていく。「申告した相手がたとえ無辜の人であっても、申告者には“褒賞金”が支払われました。こうして“飴”を与え、『スパイと疑ったら申告しろ』という国民同士が監視をする社会が作り上げられていきました」
国軍保安司令部が自らの功績を讃えるために編纂した内部資料『対共三十年史』などによると、1965年の日韓国交正常化にあたり、公安機関は朝鮮総連経由での工作活動の可能性に目をつけ、物理的な意味での「軍事境界線」のない日本で暮らす在日コリアンたちを「北朝鮮との関わりを持つ脅威」と位置付けていたようだ。
また政権側には、不都合から目を背け、民主化運動を委縮させるために「スパイ」を利用しようとする意図も見え隠れする。「軍事独裁政権が危機にあるときに、“スパイ逮捕”に国民の関心を向けさせ、『安保の危機だ』『民主化などもってのほか』という圧をかけていったとも考えられます。何か大きな市民の運動やうねりがあったときに、そうした逮捕を発表するケースも実際に見受けられました」
加えて韓国の防諜活動をしている組織同士を競争させ、成果をあげさせた背景も李さんは指摘する。
「とりわけ80年代にはそれが激しくなっていき、杜撰な捜査や取り調べがさらに目立つようになりました。再審無罪になった人たちのケースをたどってみると、その事件で昇進、勲章をもらったと思われる捜査官たちがいる――つまり、私利私欲なんですよね」
「自白」の強要の過程で、筆舌に尽くしがたいほどの凄まじい拷問が加えられていたことも明らかになってきた。
死刑求刑と有罪判決、家族の孤立
1973年、智子さんの父、昌一さんは、陸軍保安司令部によって突如「逮捕」された。この年は、1971年の「維新憲法」への反対運動を抑え込もうという動きが激化した時期でもあった。2ヵ月以上の取り調べを受けた末に、「北朝鮮のスパイ」として起訴される。そもそも保安司令部は軍の機関であり、軍人や軍関係者以外の民間人を捜査する権限はないはずだ。昌一さんのようなケースは、その時点で「不法逮捕」「不法監禁」と言える。
当時の記録などによると、昌一さんがラジオで北朝鮮の放送を聞いたことが「指令を受けた」ことにされ、韓国の新聞を読んだことまでもが「情報探知」とされている項目も見受けられる。それも、物証のない「自供」のみによる起訴だった。
「検察が主張する“告訴事実”も、当時の国家保安法の拡大解釈であるという判例が今ではすでに積み上げられています。昌一さんの“告訴事実”もまさにお決まりの定型で、当時の政権の“しもべ”のような裁判所でも、一審では『スパイ行為は未遂に終わった』などと無罪が出ています。つまり、最初から罪がないということなんです。それでも高裁で有罪になってしまうのが“軍事独裁”なんですよね」
昌一さんの逮捕、起訴は家族にとっても青天の霹靂だったはずだが、検察からは死刑が求刑され、高裁で懲役15年の判決が下されてしまう。
智子さんの母が語った「カーター大統領」の話を裏付ける資料を、李さんが探し出してくれた。カーター大統領は1979年6月30日に韓国を訪れており、その年の10月の新聞記事は、多くの人々が仮釈放されたことを伝えている。「カーター大統領自身が、この問題に関心を示していたようで、この年の8月に昌一さんも仮釈放されています」。
激動の時代にあり、「民主化闘士の政治犯」として捕まった人々の苦難が大きく注目されるが、そうした「政治犯」の語りばかりが強調されることで、零れ落ちてしまう人たちがいると李さんは語る。
「なぜ彼らが日本から離れざるを得なかったのか――つまり植民地支配や日本の責任、その後も続く在日への差別が見えなくなってしまうんです。政治状況に強い思いを持っていた人もいますが、そうした社会意識がなく捕まった人もいます」
当時の新聞報道を見ても、親族や知人らは「政治的な関心はほとんどない」と昌一さんのことを語っている。
こうした一連の捏造事件は、家族や親戚まで深刻な被害を広げていく。昌一さんの場合は、広島大学時代の学友たちを中心に「救う会」が立ち上がっていたものの、当時はまだ、日本でそうした救援会が横断的につながるネットワークがなかった。韓国内でも、民主化運動で逮捕された人々の救援運動が盛んになる前のことだ。つまり、被害者家族が非常に孤立する時期だった。
こうして家族は韓国の監視下で逃げ隠れ、日本でも孤立し、恐怖心を和らげるだけのつながりもなく過ごしてきたのだ。昌一さんが語らなかった過去を少しずつ紐解いていくと、植民地時代から地続きの、過酷な歩みが見えてくる。
今も巣くう「韓国は恐い国」
智子さんは父の身に何が起きたのか知りたいと、韓国の軍事政権について調べていくにつれ、「だからか」「そうか」と、するすると家族の過去のすべてがつながっていった。
「全部、不思議だったんですよ。家族が日本に来る必然性はなかったはずですよね。でも本当は、“韓国にいられなかった”んですよね」
思えば父は、「若い頃にずっと冷たいところに座っていたり、汚い環境にいた」と語っていたこともあった。生涯ひどい痔や水虫に悩まされてもいた。こうしたバラバラに存在していたピースが、一気に合わさっていった。
過去を知った「衝撃」よりも、智子さんの中では「嬉しい」という感情がわきあがった。
「本当に嬉しかったんです。全部に納得がいって。それまで、なぜうちの家族はこうなってしまったのか、なぜこんなに苦労しなければならなかったのかと、母と兄にはネガティブな感情しか持てていなかったのですが、『仕方なかったよね』『よくやってきたな』って思えるようになったんです」
智子さんの母にとって、ある日突然、夫の行方がつかめなくなり、その身柄が拘置所にあると知ったときの衝撃は計り知れないものだったろう。母の親戚は父の逮捕後も、それほど冷たく母たちを突き放したりはしなかったものの、『迷惑がかかるかもしれない』と思ったのか、3歳に満たない兄を連れ、あえて各地を転々としていたようだ。日本に来ても集住地区を避け、母は孤独の中を過ごしてきたはずだ。
当時味わった恐怖は、今も母と兄の中に巣くい続けている。
「父のことで2人に連絡をしても『絶対に関わってはいけない』『韓国は本当に怖い国。電話が盗聴されていたら殺される』『お前の仕事がだめになる』ばかりなんですよ。この時代にあっても、です。辛いからと、知っていることもほとんど、母は話してもくれません」
この20年あまりの間、母は自身の母親や兄を亡くしている。それでも葬儀や墓参りはおろか、韓国に一度も帰国ができていない。年金ももらえず、智子さんの仕送りでなんとか生活をつないでいる。
智子さんは、父の歩みをたどりながら、母と兄、2人の人生にも思いを巡らせてきたという。もしもこの不当逮捕が起きなければ、母はここまでの苦労に見舞われることはなかったのではないか。韓国で暮らし続けることができれば、兄の将来はもっと可能性に満ちていたものではないか、と。
父の立場は、「仮釈放」で終わっている。父と同じように「スパイ」に仕立てられてきた当事者たちに背中を押され、2019年12月31日、智子さんは父の無罪を求め、再審裁判の請求に踏み切った。
「父はもうこの世にいませんが、父の名誉回復はもちろん、母や兄の人生を取り戻してもらいたいと思っています。母や兄の抱く恐怖は、私が何を言っても変わらないかもしれません。でも、韓国政府から正式に謝罪をしてもらって、韓国で過ごせる日々をもう一度取り戻してあげたいなって」
ところが再審請求後、世界中がコロナ禍に見舞われていく。日韓の間には、厳しい水際対策が敷かれ、社会は停滞していった。それは司法も例外ではない。2021年12月、智子さんは一日も早い再審開始決定を求め、嘆願書を提出している。それでも韓国の裁判所から、いまだ音沙汰はない。
「困難」を「可能」にする道のり
李さんはこう語る。
「再審が始まるまで、とにかく時間がかかります。家族にとってそれ自体が、もう一度同じ刑を受けるような辛い時間です。その間に亡くなってしまう当事者の方もいました。再審が始まっても、いまだに国を援護する検察が、“スパイ”と決めつけてくるような態度をとることもあり、二次加害を受ける苦しい過程になります。もう一度捜査資料を見たり、法廷に立つのが恐くて踏み切れない人もいます」
再審無罪になることも重要ではある一方、二度と繰り返さないために求められるものはなんだろうか。
「特別法を作り、一括で被害者を救済するのが理想ではありますが、そこにいたるまでの検証・謝罪という“土台”がないんです。なぜ捜査官たちは無辜の人たちをスパイにでっち上げたのか、なぜ検察は捏造を黙認したのか、なぜ裁判所の判事たちは無罪を訴える人たちの声を無視したのか、権力との関係性も含めてすべてを検証した上で、大統領がそれを認め、一人ひとりに謝罪する過程が必要でしょう。再審無罪は“終わり”ではなく、その“はじまり”のはずです」
そこまでにたどり着くのは決して容易ではない、困難な道のりだろう。それでも、再審請求を通してひとつずつ実態を暴き、判例を作ることで、次にその道を歩む人が「少し、楽になる」と李さんは感じている。
「周囲や社会が『今の韓国で同じ目に遭うことはないですよ』『大丈夫ですよ、話していいんですよ』という環境を作っていかなければ、被害者が一人で名乗り出るのはとてもとても難しいですよね。これまで、先に再審無罪となった人に勇気づけられたり、説得されたりしながら、『私もやってみよう』という人たちが少しずつ増えていきました。その過程が“困難”を可能に近づけるのではないかと思います」
よりよい社会のために「考えてみませんか」
叶うのであれば再審が始まった後、自らの言葉で、法廷での証言をしたいと智子さんは語る。
「韓国政府からしたら民間人の小さな事件かもしれませんが、それがどれだけ多くの人に大きな影響を与えたのかを分かってほしいと思っています。それに、日本でも政治に振り回された人権侵害は起きているので、日本の人も含め、よりよい社会のために考えてみませんか、と伝えたいとも思います」
智子さんは教壇に立つ高校で、生徒たちに人権教育として、マイクロアグレッションや見えない差別についても伝えている。マイクロアグレッションとは、「女性“なのに”すごいね」「外国人に見えない、日本人に見えるから“大丈夫”」など、日常の中に埋め込まれた「小さな攻撃」だ。その教育の中で、自分の生い立ちやルーツについても最後に生徒に語っている。
「皆、私のこと3年間そういう風に見たことなかったでしょ、でも実はちくちくした言葉で痛んでいることもあるんだよ、社会に出ても、もしかしたらここに当事者の人がいるかもしれない、ということは考えてみて、と話をします」
こうした市井の差別は一見、小さなもののように見えて、見過ごされていけば巨大な人権侵害へとつながるリスクを常にはらんでいる。智子さんの家族に起きたことは果たして、「遠い過去」の出来事なのか。私たち自身の問題に引き寄せて、受け止めたい。
※崔昌一さんの生い立ちに関しては、「崔昌一さんを救う会」編纂の資料に基づく。
2024年6月2日 追記:2024年5月24日、韓国のソウル高裁は、不法拘束で得た自供に証拠能力がないとし、崔昌一さんの再審で無罪を言い渡しました。
(2023.3.2 / 写真・文 安田菜津紀)
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