官公庁が立ち並ぶ一角から、日比谷公園沿いの道を歩き、地下へと下る。東京メトロ霞ケ関駅と直結しているレストラン街は、午後一時を過ぎてもランチに並ぶ人々の列が途切れず、にぎわいを取り戻していた。コロナ禍の閑散としていた時期を思い返し、ほっと胸をなでおろす。
この東京の「一等地」ど真ん中に店を構えるのが、ベトナム料理店「イエローバンブー」だ。
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細部にまでこだわった「本場の味」
初めて私がこの店を訪れたのは、4年ほど前のことだった。「今日は特に忙しくてね、4回転近くもお客さんが入ったんですよ」と、店長の南雅和さんが出迎えてくれ、ディナーまでの休憩時間を惜しまず、私の取材に応じてくれた。南さんの母国での名前は、ジャン・タイ・トゥアン・ビンさんだ。日本での暮らしが始まってから、約40年にもなる。
「イエローバンブー」という店名の由来は、竹の一種である「金明孟宗竹(きんめいもうそうちく)」なのだそうだ。縁起がいいとされ、古くからベトナムで重宝されてきたものだ。どんなことがあっても力強く伸びていく象徴でもあり、店のコンセプトとも合致する。
この日腕をふるってくれたのは、レア牛肉入りの平打ちライスヌードル「フォー・ボータイ」だった。
もっちりとした麺の上に生の牛肉をのせ、その上から熱々のスープをかけていく。さっぱりとした味のスープにしゃぶしゃぶのような感覚で牛肉をひたしていくので、食べ進めるごとに牛肉に熱が通り、食感が変わる。一緒に添えられているライムや唐辛子を少しずつ混ぜていく味の変化も、この料理の魅力だ。
「南ベトナムは、他の地域と比べて特に味が優しいんです。最初から辛い味つけで出てくるものはほとんどないんですよ」。だからこそ料理に添えて出すソースや調味料など、細部にまでこだわるのだという。
ヘルシーなメニューは周辺のオフィスワーカーたちにも愛され、毎日のように足を運ぶお客さんもいるほどだという。ランチセットはフォーやご飯メニューにデザートもつき、お腹いっぱい食べられる。「フォー・ボータイ」は夜のみのメニューだが、この味が忘れられず、私自身初めての取材以後、何度も来店する「常連」のひとりとなった。
「若いときから料理は好きでね、お客さんが来たら毎回のように自分で食事を作っていたんですよ。皆に食べてもらうのが楽しくて仕方がなかったんです」という南さん。
この店でフォーをすすっていると、故郷の家を訪れた人々を、幼い南さんが嬉しそうにもてなしていた光景が目に浮かぶようだった。「本場の味を伝えるレストランを開きたい」という夢を叶えるまで、どんな道のりをたどってきたのだろうか。それは世界情勢や社会の急激な変化に翻弄され続けた、過酷な歩みでもあった。
「自由なくして、人は人らしく生きられない」
南さんの出身地は、南ベトナムのサイゴン(現ホーチミン)だ。
「私の記憶に残っている街は、日本の昭和時代のような光景と重なるのではないでしょうか。今の子どもたちみたいに室内でゲームをするのではなく、とにかく外で、汗をかいて体全体を使って遊ぶんです」。
路上でサッカーをしたり、草木で即席の遊び道具を作ったりと、南さんの脳裏にも懐かしい風景が浮かぶという。
けれども世界はその頃、東西冷戦期の真っただ中だった。その対立が直接火を吹いてしまったのが、ベトナム戦争だった。1975年4月30日、サイゴンは陥落。北ベトナムが勝利し、社会主義体制となる変化の中、「自由な空気は急激に奪われていくことになった」と南さんは語る。
南さんの祖父、父、叔父は南ベトナムの政権関係者だった。特に父は軍関係者だったため、サイゴン陥落後に逮捕され、山奥の収容所へと連れて行かれてしまった。残された家族も散り散りの場所に移住を強いられ、南さんは祖父母と共に暮らすことになる。
「あの当時は、少し離れた場所に行くにも、公安の許可が必要とされていました。学校でも南出身者と北出身者は分けられていましたし、私たちのような南の政権関係者の家族だった人間が、どんなに優秀な成績を収めても、まともな進学や就職ができるのかも分かりませんでした。このままでは未来が閉ざされていく、という危機感がありました」
ベトナム戦争の終結以前から、すでに多くの人々が国外へと逃れていた。サイゴン陥落後、国外逃亡がもし見つかれば、逮捕されることは必至だった。それでも危険を冒して海を越えようとする人々が、毎日のように犠牲になり続けていた。南さんも、よりよい未来のためには、他に選択肢はないのではないかと思い始めていた。
そんな大きな決断を前に、こっそりと背中を押してくれたのは祖父だった。
「将来のためにはここに残っていても仕方がない。新しい場所で、新しい人生を送るんだ。自由なくして、人は人らしく生きられない」
祖父は南さんにこう、語りかけてくれたという。
木造船で海へ、諦めかけたその時…
密航計画が漏れないよう、他の家族にさえ相談を一切しないまま、1983年8月、14歳だった南さんは単身、木造船へと乗り込んだ。いかにも頼りないその漁船は、長さ13メートル、幅4メートルほどで、通常なら30人も乗れないような大きさだった。そこに乳児も含め、105人がぎゅうぎゅうになって乗船したのだ。
「日本の朝の通勤ラッシュの電車よりも、もっと過密だと思って下さい」
身動きもとれないような船内で、食料も水も、あっという間に尽きていった。海へ出て4日目、このままいつまでも漂流し続けることになるのかという諦めの空気が、船内に漂い始めていた。薄暗く視界のおぼつかない早朝に、南さんたちは船らしい小さな灯りが彼方に揺れているのを見つけた。
「皆体力はほとんど残っていないはずだったにもかかわらず、どこからか力が湧いてきて、立ち上がって手を振って叫びました。〝助かる〞というよりも、〝ああ自分はまだ生きている〞という喜びだったと思います」
南さんたちの船を発見したのは、沖縄水産高校の実習船だった。定員75人の船に、実習生たちがすでに69人乗船していた。南さんたち105人を乗せれば、定員の倍を優に超えてしまう。それでも当時の船長は、南さんたちを助けることを即座に決め、次の寄港地まで日用品や食べ物を分け合って過ごしてくれたのだ。
実習船でフィリピン・マニラに上陸した後、南さんは、難民となった人々を一時保護のため収容する長崎の「大村難民一時レセプションセンター」へと移る。その後、日本赤十字社が設置した沖縄の本部国際友好センターで約8カ月間を過ごし、東京都品川区の「国際救援センター」で定住のための支援を受けることになる。
サイゴンが陥落する1975年以前から、インドシナ三国と呼ばれるベトナム・ラオス・カンボジアから多くの難民が日本にも逃れてきていたものの、公的支援は追いついていなかった。国際救援センターは、南さんが日本に逃れた年と同じ1983年に、日本での自立支援が受けられる場としてようやく日本政府が開設したものだった。
ゼロから始まった日本語学習
日本に来るまで、南さんの中での日本のイメージはほとんどないに等しかった。
「ましてや日本の文字や言葉なんて想像もつかなかったです。最初に覚えたひらがなだけではなくて、まさか漢字を使うなんて知りませんでした。それを幼稚園レベルから始めて、1年で覚えなければならないんですよ」
センターでは日本語だけではなく、ゴミの分別など、暮らしに必要なことや文化も学んでいった。言語の難解さに戸惑いながらも、日常の中には新鮮な驚きもあったという。
当時は自動改札機がなく、駅の出入り口には常に駅員が立っていた。「あの人たちの能力には驚かされましたよ! 何人ものチケットをぱっと見ただけで、〝お金が足りません!〞とすぐ判断できるなんて。見るたびに感動してしまいました」と、今はほとんど見られない光景を振り返って楽し気に笑った。
その後、電子基盤を作る会社に入社し、発注書類などをしっかりと読み込めるようにと日本語の勉強を独自に続けた。その姿勢が評価され、16歳にして現場リーダーを任されるまでになった。会社に信頼されているのは嬉しかった。それでもさらに勉強を続けたいと仕事を辞め、奨学金を得て、高校、大学と進学し、建設業・電気設備系の会社に就職する。日本国籍を取得したのもこの頃だった。
「南雅和」の名に込められたもの
当時パスポートのなかった南さんは、国から発行された「再入国許可証」で国内外を行き来するほかなかった。ところが大学卒業後にイタリアに渡航したところ、ビザが添付されていたにもかかわらず「再入国許可証」が何かを認識してもらえず、「これは偽物だ」と警察を呼ばれてしまう事態になったのだ。そうした不便さを解消するためなのはもちろんのこと、「第二の故郷としての日本で、日本人として生きていきたい」という気持ちが強くあった。
日本国籍取得の際の名前は、難民支援に尽力してきた故・犬養道子さんが考えてくれたものだ。
「南ベトナム出身だから〝南〞。若い頃は戦争ばかり経験してきたから、日本でこれから平和に生きてほしい、という願いが〝雅和〞には込められているんです」
夢の実現までの道のり
その後、南さんに、思わぬ形でベトナムへと戻る契機が訪れた。会社の海外事業部の一員として、ベトナムに駐在することとなったのだ。最初に訪れたのは1994年、故郷のある南部ではなく、北部だった。ベトナムではまだ外国人の滞在が厳しく管理されていたため、親族の所在はぼんやりとつかめていたものの、訪れることもままならなかったという。
その頃から南さんは、ベトナム料理店を開きたいという夢を抱いていた。「あそこのお店がおいしい」と聞けば、必ずそこに足を運んだ。
「高級店ではなく、屋台など小さなお店を好んで訪れていました。あまり大きなところに行くと外国人向けになってしまいますから。庶民の味をもっと学びたかったんです。おいしい料理が出てきたときは、お店の人に〝この味はどうやったら出せるのか〞と必ず尋ねていました」
研究し、ノウハウを学び、場所を探し、準備期間は7年を要した。2011年に今の場所で
「イエローバンブー」を開いた後も、味の鍛練は欠かさないという。
「ベトナム料理が食べたい、とわざわざ来てお金を払ってくれているんだから、日本人好みの味に合わせるのではなく、本場の味を再現したいんです」
お客さんに声をかけては感想を聞き、食べ残した人がいればなぜ完食しなかったのか、徹底的に考え続ける毎日を送った。
言葉にならない再会
こうして念願のお店は開けたものの、南さんにはもうひとつ、果たしたい夢があった。自分を救出してくれた、沖縄水産高校の実習船の船長との再会だった。
「あそこでもしも無視されていたら、私は今、ここでお話しできていなかったでしょう。どこかの海の底に沈んだり、サメのえさになっていたりしたのかもしれないのですから」
当時はまだ日本語が分からなかったものの、船体に書かれていたローマ字の「SHONANMARU」という名前だけは鮮明に覚えていた。お店を訪れたお客さんにも、「何とかお礼を伝えたい」とたびたびその船の話はしていた。
転機は2018年のことだった。「イエローバンブー」を訪れた沖縄の高校教師が、南さんか
ら聞いた「SHONANMARU」の話を地元新聞社に伝え、ついに縁がつながったのだ。当時
の実習船「翔南丸」船長の宮城元勝さんは75歳になっていた。南さんはすぐに、沖縄行きを決めた。
那覇へと降り立ち、かりゆし姿で出迎えてくれた宮城さんを固く抱きしめた。
「36年ぶりの再会は言葉になりませんでした。この感謝は言い表しようがないほどなんです。自分の家族と久しぶりに再会したかのような感覚でした」
2020年2月、何十年も東京に足を運んでいなかったという宮城さんが、「イエローバンブー」を訪れ、当時共に逃れてきた南さんの仲間たちと料理を囲んだ。何度となく御礼を伝えると、宮城さんは「人を助けるのは、人類共通の使命ですから」とはにかんだという。「命の恩人」をとっておきの料理でもてなすという夢が叶った、かけがえのない日となった。
日本の難民受け入れは「進歩がなく悲しい」
南さんをはじめ、日本が当時受け入れたインドシナ難民は1万人を超えた。あれから40年が経ち、むしろ難民受け入れの門戸が狭まっている。2021年の難民認定率はわずか0.7%に過ぎない。「進歩が見られず悲しい」と南さんは率直に語る。
「逆の立場で、もしも自分が外国で受け入れられなかったときの気持ちを考えてほしいんです。難民は誰も難民になりたいと思っていません。迫害で生きていけない、暮らせないからやむを得ずやってきたんです。〝残りの人生を、なんとか日本で暮らしたい〞とここへ来ている人たちに対して、日本政府の考えはあまりに古いものです」
南さんたちが日本語を学んだ「国際救援センター」は、2006年に閉鎖されている。自身を受け入れたことに感謝をしているからこそ、今の難民政策に対するもどかしさも深い。
「地獄」のような日々の先に
2020年春、南さんは新たな困難に直面した。新型コロナウイルスの感染が広がり、「イエローバンブー」も客数は激減。最初の緊急事態宣言で南さんに電話した時は、「地獄です」と切羽詰まった様子が受話器越しにひしひしと伝わってきた。あれだけ過酷な海の旅を乗り越えてきた南さんが「地獄」という言葉を使うのは、よほどのことのはずだった。
その後も、年末年始の忘年会、新年会、年度の変わり目での送別会、歓迎会のシーズンにことごとく緊急事態宣言やまん延防止等重点措置が重なり、全身全霊をかけて開いた店が、閉店の危機に瀕していた。
それでも、古くからの友人や常連たちが、「こんな時こそ」と、折を見ては店に顔を出した。私もSNSなどで「イエローバンブー」の窮状を発信すると、「ここ行ったことあります」「とっても美味しいですよね、応援したい」という反響が相次いだ。そして今、店内は再び活気を取り戻している。
南さんが指摘するように、日本の難民政策はこの数十年で進歩せず、むしろ後退の一途をたどろうとしている。けれども南さんの店は、友人や同僚、家族と共に食の喜びを分かち合う、大切な拠点となってきたのだ。そんな足元からの輪の広がりこそが、「共に生きる」未来を築いていくのではないだろうか。
※この記事は朝日新聞社「論座」に2019年10月に掲載した記事を加筆、修正したものです。
(2023.4.25 / 写真・文 安田菜津紀)
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