「虐殺とは、ある日突然起こるものではない」と、ポーランドのアウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館でガイドを続ける中谷剛さんは語る。「私たちの社会は、虐殺に至る何歩前にいるのだろうかと、自問することが大切だ」と。それは決して狂気に取りつかれた一部の人間が引き起こすものではなく、僕たちの社会が構造的に抱える闇の一部なのだ。
そこにいる人々を、僕たちとは違う「排除してもいい存在」だと認識した途端、倫理の痛覚は麻痺し、鮮血は色彩を失う。殺した「それ」は人間ではない。私たちとは違う「悪魔」なのだ。私たちを殺しに来る「敵」なのだ。想像力を持つ人間だからこそ、ときに目の前の人間が「リアルな存在」であることを忘れさせる。しかしその溝を埋めるのもまた、人間の想像力ではないだろうか。前後編となる今回の記事では、対話の閉ざされた「壁」の両側に生きる人々の姿を伝えることで、そこにいる生身の人間の存在を感じ取って頂けたら嬉しい。彼らの置かれた状況から僕たちの社会の問題点を見つめると共に、第三者には何ができるのか、何をすべきなのか考えていきたい。
2019年9月16日深夜。パレスチナ自治区内、ヨルダン川西岸地区へ向かうため、イスラエルのベン・グリオン国際空港に降り立った。空港もなく、四方を壁やフェンスで封鎖されている西岸地区やガザ地区を訪れるには、イスラエルを通過しなければならないのだ。入国後、まずは西岸地区各地へのバスが集まるエルサレムに向かう。その道中、タクシーの運転手が右手に見える山を指さした。「見なよ、あの山肌の墓地を。あの墓、凄い値段なんだぜ」。目をやると、山肌を削った段々の土地に、無数の真新しい墓石が並んでいる。すぐ傍らでは大規模な土木工事が続いており、まだまだ墓地を拡張するつもりらしい。「なんでこんな不便な土地に墓なんか買うんだろうね」と僕が言うと、「エルサレムだぜ、ここは」と、彼の豪快な笑い声が響いた。
「君もあそこに墓地が欲しいの?」と尋ねると、「冗談じゃない。ここは夜寒すぎて寝れやしない」とユーモアで返す。世俗的な彼にとっては、どこに墓があるかより、乗せた客がどれだけ遠くに行ってくれるかの方が大事そうだった。道路の先の暗闇にエルサレムの灯が見えてきた。近代的な高層ビルの奥に佇む、古い城壁に守られた聖地では、何千年もの間、数えきれないほどの殺戮と祈りが繰り返されてきた。世界には様々な「中心」があるが、ここもまた、紛れもなく人類史を揺るがしてきた「中心」のひとつだろう。「ダビデの塔」の側の宿にチェックインし、静まり返る聖地を屋上から眺めた。
エルサレムという街は、東と西に分かれている(※1)。その境目にあるのが、数千年の歴史を誇る「エルサレム旧市街」だ。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、それぞれの重要な聖地が、この城壁に囲まれたわずか1キロ平方メートルの区画の中に存在している。ヘロデ王が建てた神殿の外壁は「嘆きの壁」と呼ばれ、黒い帽子やスーツに身を包んだユダヤ教徒が壁に手を触れ祈りを捧げている。キリストが処刑されたゴルゴダの丘の跡地に建てられたという「聖墳墓教会」では、キリスト教の様々な教派のミサや聖体礼儀が行われており、黄金に輝く「岩のドーム」は、イスラム教の開祖、預言者ムハンマドが大天使ジブリール(ガブリエル)と供に神の元へと旅立った場所といわれ、巡礼者が絶えない。
それぞれの宗教の聖地が「壁」の中で隣り合って共存しているのとは裏腹に、その外側には交じり合うことのない日常が広がっている。ユダヤ系住民(※2)の多く住む西エルサレムには高層ビルが立ち並び、近代的なショーウインドウに囲まれた通りには流線形の路面電車が走っている。目にする看板は英語やヘブライ語で書かれており、老若男女、様々な観光客で賑わっている。2018年には、ベン・グリオン国際空港と西エルサレムを結ぶ高速鉄道が完成し、世界との距離はぐっと近くなった。
その反対側、主にパレスチナ人(※3)が居住している東エルサレムへ行くと、聞こえてくるのはアラビア語となり、石造りの古い町並みが広がっている。きらびやかな西側と比べ、東側ではあちこちにゴミが散乱している。ゴミ収集は本来エルサレム市が行う業務なのだが、東エルサレムにはそういったサービスも来ないのだという。厳しい区画政策により、パレスチナ人居住者が自分の土地に建物を建てることや増築することは制限されており、イスラエル当局による土地の没収や住居の占領は、現在に至るまで続いている。
また、東エルサレムに住むパレスチナ人は「住民カード」の所有が義務づけられているが、「生活の中心がエルサレムではない」と判断された場合には、居住権をはく奪されることもあるという。東エルサレムで出会ったアリーさん(仮名)は、ヨルダン川西岸地区のラマッラーに亡くなった両親の自宅があるが、外泊などしたら「エルサレムに住んでいない」と判断され、居住権をはく奪されるかもしれないから帰れないという。
「でもオレたちはまだましなほうさ。西岸にいる親族はエルサレムに来ることすら簡単なことじゃないからな」と、アリーさんは眉をしかめた。この記事の後編で詳しく書くことになるが、パレスチナ自治区領であるヨルダン川西岸地区、そしてガザ地区の住人は、物理的な「壁」や「検問所」により、出入りを厳しく制限されている。著しく自由を制限されているとはいえ、それでも「壁」の外に暮らすアリーさんは、どこかそういった人々に対して後ろめたい気持ちがあるのかもしれない。
分断に次ぐ分断。客観的に見れば、強制的なイスラエルの建国が現在の分断を引き起こした要因であることに議論の余地はないだろう。しかしそれも元をたどれば優生思想や国民国家といった枠組み、世界大戦の影響があり、資源争いや、地政学的争いの結果でもある。いうなれば、有史以来、世界全土で生存競争を続けてきた人類の悲劇が、この地でパレスチナ人の身に降り注いでいるようなものかもしれない。しかし、そうしたマクロの視点で問題を眺めてみても、今ここに生きている人々の苦しみが消えるわけではない。「壁」は現にそこにあるのだ。一体この分断は、どこから修復していけばいいのだろうか。
この状況を、イスラエルに住むユダヤ系住民の人々はどう思っているのだろう。折しも現地を訪れた2019年9月は、イスラエルで総選挙が行われる時期だった(※4)。ネタニヤフ首相は続投後の政策として、パレスチナ自治区内、ヨルダン渓谷と死海北部地域の“併合”を掲げており、もしそれが実現することになれば、違法な「占領」行為を更に加速させることになる。パレスチナ西岸地区を目指していた僕は、その前にここ、西エルサレムで、人々の声に耳を傾けてみることにした。
30代で、ヒップホップが大好きだというタクシー運転手のA氏は、「首相が誰になろうとも構わない。でもパレスチナ政策だけは別だ。あいつらはオレたちを攻撃してくるテロリストなんだから、より厳しく国境線を管理するべきだ。西岸に行くだって?ナイフで刺されないように気をつけろよ」言う。「でも今走っているここ(西エルサレム)だって元々パレスチナの一部だったんですよね?」と尋ねると、A氏は顔をしかめて「そんなことは聞いたこともない」と言った。彼自身はヨルダン川西岸地区に行ったことも、パレスチナ人に会ったこともなく、その印象は日々のニュースによるものだという。
実際、パレスチナ人によるイスラエル兵の襲撃はよく報道されている。後日のことになるが、選挙翌日の18日早朝にも、エルサレムに隣接する地区との間の検問所にて、警告を無視して職員に近づきナイフを取り出した50代のパレスチナ人女性が、イスラエル兵により足に銃撃を受け、搬送先の病院で死亡している。他にも10代の少年少女による同様の事件が2019年内にも何度か起きており、そういった報道にだけ触れていると、「パレスチナ人は恐ろしい」と思っても仕方がないのかもしれない。
しかしいったいなぜ彼らはナイフを手にしたのだろうか。その背景に思いを巡らすよりも先に、そういった人々の素顔は剥ぎ取られ、「テロリスト」という仮面と共に排除の対象となってしまう。実際に生身のパレスチナ人と会う機会も無く、断片的な情報だけ入ってくることで、ますます「壁」は強固になっていくのだろう。
中道左派のイスラエル労働党を支援しているロイさんはこう語る。「我々の政党は社会的弱者のための活動を行っています。現政権は戦争のことばかり考えていますが、国内の社会問題の解決にももっと力を入れなければなりません。最低賃金も上げる必要がありますし、マイノリティに対する理解も促進しなければなりません。パレスチナとの関係ですか?私たちは争いを望んでないのに、彼らが聞く耳を持たないのです。かつて二国家共存案が提示されたときにも、彼らはそこで妥協しようとしなかった(※5)。そうなれば争いは永遠に続くだけです」。
しかし労働党の唱える社会的弱者の救済という観点から見れば、イスラエルによるパレスチナの占領政策も大いに疑問を感じるものではないだろうか。そう問うとロイさんは、「そうですね…そうかもしれません。私たちもいつか色んな問題が落ち着いたら、パレスチナの人々と共存できる可能性を信じてはいるのです」と、渋い顔をしながらも、彼の着ている“私たちはみな同じ人類”とヘブライ語で書かれたTシャツを指さした。
「休暇でエジプトに行ったことがあるんです。今までなんとなく恐れていたアラブの人々が、本当に親切で優しくて。パレスチナにもそういう人がいるのかもしれませんね。私たちの活動も、決して国内の人々のためだけではなく、人類全ての幸福を願ってのものなのです」と、静かに笑った。それでも、僕が今から西岸地区に向かうと言うと、「安全な場所には思えません。どうかくれぐれも気を付けてくださいね」と忠告を忘れなかった。
もちろんユダヤ系住民の中にも、占領政策に疑問を感じ、パレスチナ人との共存を求める人々もいる。以前参加した「Braking the Silence」という、イスラエルの退役軍人が設立した、兵役中に自ら行った暴力行為を問い直すという団体のツアーでは、アブネルさん(33)が自身の体験を語ってくれた。
イスラエルには徴兵制がある。アブネルさんは、18歳から祖国を「守る」ために働いてきた。配属された先はパレスチナ西岸地区の街、ヘブロン。約21万人のパレスチナ人の住むこの街に、数百人の「ユダヤ人入植地」がある。そしてその入植者を守るという名目で、3,000人もの軍人が配属されている。アブネルさんも国民を「敵」から守るため、この街で任務を続けてきた。治安を維持するという名目で、パレスチナ住民の家に押し入っては占拠し、住人を追い出してきた。
目の前で泣き叫ぶパレスチナ人は、彼にとって排除すべき「敵」でしかなかった。日々パレスチナ人に銃を向けるアブネルさんには、現地住民からは「侵略者」という罵声が浴びせられる。それでも週末になると家族や恋人たちと過ごし、「愛国者」として褒め称えられた。そのギャップはいつしかアブネルさんを苦しめるようになっていった。任務中、射殺されたパレスチナ人の遺体を前に喜ぶ同僚の姿を見たとき、アブネルさんはぬぐいようもない違和感を覚えたという。「彼らは本当に敵なのだろうか。我々のやっていることは本当に正しいのだろうか」。そんな疑問は愛国心の欠如した恥ずべき感情だと抑えつけていた。
その沈黙を破ったのが「Breaking the Silence」だった。イスラエル軍の行為は「占領」であると証言し、現状を広く知ってもらうために、自らがツアーガイドとなり街をめぐる。アブネルさんも軍を退役し、その活動に飛び込んだ。彼らの活動に反発する人々は少なくない。しかしアブネルさんは言う。「目の前の人間を敵と呼び、その尊厳を暴力によって奪う。いつしか自分がそんな怪物になっていた。イスラエル軍の行為は、私たちの心の占領でもあるのです」。
このような声を聴いていると、多くのユダヤ系住民の思い描く“パレスチナ人”とは、想像上の姿でしかないということに気づく。恐怖が憎悪を煽り、その憎悪が更に恐怖を肥大させる。すぐ隣に暮らしながら、「敵」という言葉で心に障壁を築くことで、いつしかそれは物理的な距離や実際の「壁」となり、お互いの素顔が見えなくなってしまうのだ。
しかしロイさんが想像できたように、そしてアブネルさんが気づいたように、その「敵」と呼ぶ人々の素顔を少しでも思い描けたなら、そこには温もりを持った隣人の姿が浮かび上がってくるのではないだろうか。幸い僕は日本人として、どちらの人々にも憎まれる立場ではない。「壁」の向こう側の素顔と出会い、お互いの声に耳を傾けることは、第三者に託された役割でもあるかもしれない。
選挙に沸き立つエルサレムを後にし、ヨルダン川西岸地区へと向かった。
(後編に続く)
(2020.2.2/写真・文 佐藤慧)
※1 東西エルサレム
1949年、第一次中東戦争後の停戦協定により、イスラエルとヨルダンはエルサレムを東西に分断し分割統治をおこなった。その後1967年の第三次中東戦争で、イスラエルは東エルサレムを占領、ユダヤ教の聖地である「嘆きの壁」を奪回し、占領した周辺地域も組み込み、現在の形となる。パレスチナ自治政府は東エルサレムを将来の首都と宣言しているが、実質イスラエルの支配下にある。イスラエルはこの占領した東エルサレムも含めた「エルサレム」を首都と宣言しているものの、国際社会はそれを認めていない(1980年の国連安全保障理事会決議476は、イスラエルによる東エルサレムの占領は法的に無効であるという見解を表明している)。しかし2017年、アメリカのトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認め、アメリカ大使館をテルアビブから移転。イスラエルの占領行為を認めた形となり、パレスチナの人々からは抗議の声が相次いでいる。
(参考リンク)
国連安全保障理事会決議476 (1980)
※2 ユダヤ系住民
イスラエル人とは、イスラエル国籍を持つ人々を差すが、全員がユダヤ人(ユダヤ教徒)ではない。イスラエル国籍を持ち、かつユダヤ教徒でもある人々のことをここでは「ユダヤ系住民」と書く。日本の外務省がイスラエル中央統計局(2016年発表資料)から引用したデータによるとユダヤ人が約75%、アラブ人その他が約25%となっている。
(参考リンク)
外務省 イスラエル国基礎データ
※3 東エルサレムに居住するパレスチナ人
1967年の第三次中東戦争により東エルサレムを“併合”したイスラエルは、その域内に住むパレスチナ人約65,000人に対して「市民権」を与えると提案(戦争前はヨルダンの統治下であったため住人はヨルダン国籍を持っていたが、それは破棄しなければならない)。しかし、イスラエルによる占領行為の承認を望まないほとんどの人々はこれを拒否した。代わりに導入されたのが「居住権」を示すIDカードである。「居住権」を持つパレスチナ人は合法的にエルサレムに住むことが可能であるが、それは裏を返せば、「居住権」をはく奪されれば追放されるということである。記事中にあるように、「生活の中心がエルサレムである」ということを証明できない場合、IDカードをはく奪されることも起こり得る。
(参考リンク)
駐日パレスチナ常駐総代表部
※4 イスラエルでの総選挙
2019年9月17日、イスラエルでは前代未聞の「やりなおし総選挙」が行われた。同じ年の4月に行われた総選挙で、ネタニヤフ首相率いるリクード党は、定数120のイスラエル議会で35議席を獲得。過半数を上回るために連立政権の樹立を模索していたが、合意に至らず組閣に失敗、再選挙を行うことになった。しかしその結果、またもネタニヤフ首相率いるリクードと、元軍参謀総長のベニー・ガンツ氏率いる野党連合「青と白」の議席が拮抗、リクードは過半数を占める連立政権へ6議席足りず、組閣を断念した。代わりにガンツ氏が連立政権の樹立を目指したが、こちらも失敗に終わり、イスラエルでは今年3月、3度目となる総選挙を控えている。
※5 二国家共存案
1947年、パレスチナの委任統治に限界を感じたイギリスは、問題の解決を国連に託すことになった。その結果国連はパレスチナをユダヤ国家、アラブ国家、エルサレム(国連の管理下)に分割する案を採択(賛成33、反対13、棄権10)。ふたつの国家の共存というと聞こえはいいが、人口1/3以下、土地も6%しか購入していないユダヤ人に全土の2/3を与えるという、パレスチナ側にはとても容認できない提案だった。その後度重なる戦争を経て、1993年、ノルウェーの仲介により「オスロ合意」が成立、イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)がお互いの存在を認め、平和への道を模索し始めることとなる。しかしその矢先、オスロ合意を推進したイスラエルのラビン首相が暗殺され、右派政党リクードのシャロン氏が後任に就く。和平交渉は停滞し、その間にもイスラエルによるパレスチナ人の土地への入植地の拡大は続いた。911アメリカ同時多発テロの翌年2002年8月に、当時のシャロン内閣により「自国民の平和を守るため」、ヨルダン川西岸地区に分離壁が建てられ始めた。また、2020年1月28日、アメリカのトランプ政権は、二国家共存を前提とする中東平和案を公表。しかし、ヨルダン川西岸地区の占領地に作られた入植地のほとんどをイスラエルに組み込む、パレスチナ難民の存在を認めない、パレスチナの非武装化など、極端にイスラエル寄りの和平案となっており、パレスチナの人々の反発は強まっている。
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