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2020.3.12

国籍と遺書、兄への手紙

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

2020.3.12

Essay #Yasuda

自宅にて、兄に抱っこされてご満悦

なぜだろう。30代になってからふと、亡くなった家族のことを思い出すことが増えたように思う。もしかするとそれは、当時の兄の年齢を、私が追い越してしまったからかもしれない。

兄が亡くなったのは、中学卒業を間近に控えた春だった。「前を向いて歩きなよ。過去は変わらないんだから」。当時の友人たちが、私にそんな言葉をかけてくれたのを覚えている。落ち込んでいる私を、何とか励まそうという精いっぱいの言葉だったと思う。その気持ちには今でも大きな感謝を抱いている。

けれども「過去は変わらない」というその言葉が、なぜか心に引っかかり続けた。

私の兄は母親が違い、兄の母親は私が生まれる前に他界していた。13歳年が離れた兄は、なぜかいつも父に対して「です、ます調」の敬語を使っていた。「家族なのになんでいっつも敬語使ってるの?」不思議に思って幾度か彼らに尋ねてみた。

父も兄も、ただ笑って私を見つめ、何も答えてはくれなかった。

次第にこれは聞いてはいけないことなのかもしれないと思うようになり、私はいつしか尋ねるのをやめた。その一方で、丁寧な言葉を使い続ける兄の姿を見て、何だか父が兄を突き放しているように思えてきてしまった。

その後、私の母と父は離婚。小学校3年生から、私と妹は父と離れ、母と暮らすことになる。兄は既に社会に出て自立していたため、父とも兄とも会話する機会はぐっと減っていった。

韓国、済州島に咲いていた菜の花(2015.3.30)

兄が亡くなる一年前、中学二年生の時、父が亡くなり、戸籍を見る機会があった。その時、私は初めて父が在日韓国人であったことを知った。そして一緒に暮らしていた当時、父が兄を認知(※婚姻関係にない男女の間に生まれた子どもを、その父または母が自分の子であると認め、法律上の親子関係となること)していなかったことも分かった。

父はなぜこうも兄に冷たい態度をとり続けてきたのだろうか。父は兄を家族として見ていなかったのだろうか。益々不信感が募り、「父は本当に子どもたちを愛していたのか?」という疑問さえ湧いてきた。そんな「過去」を振り返るのは、苦痛でしかなかった。

募る一方だった疑問を晴らしたかったからだろう。そこから私は「在日」と呼ばれる人々の歴史や文化、国籍について調べるようになった。恥ずかしながらここで初めて、朝鮮半島と日本の間の歴史や、朝鮮半島にルーツを持つ人々が直面してきた困難を詳しく知ることになる。

私が高校生になった頃、少しずつネットが一般家庭にも普及していた時だった。すでに掲示板には一部、日本に暮らす韓国籍や朝鮮籍の人々に向けられた差別的な書き込みが並んでいた。父のルーツが日本以外の国にあることだけでも戸惑い、驚いていた私にとって、そんな誹謗中傷の言葉を目にするのは耐え難かった。そして「自分の父親の家族も朝鮮半島の出身らしい」と周囲に中々言えなくなっていた。自分のバックグラウンドの一部に、なぜ後ろめたさを感じなければならないのか。それ自体にも違和感をぬぐえなかった。

ある時、国籍法について調べていてふと、気がついた。私が生まれたのは1987年、そして国籍法が改正されたのはその2年前、1985年だ。改正国籍法の下では、父と母、どちらかの国籍を22歳までに選ぶことになっている。つまりそれまでは、父と母、どちらの国籍も持つことが法的には可能だ。私自身も出生後、母の国籍である日本国籍を持った。

ところがこの国籍法が改正される以前は、子どもは父親の国籍となることが定められていた。もしも父が結婚して兄が生まれた場合、兄は父の国籍である韓国籍となる。当時の兄が日本国籍を持つためには、父が結婚も、出生前の認知もしない、という選択をするしかないのだ。

すでに亡くなった人間に、詳しくを尋ねることはもうできない。けれども父が家族や周囲の人々に遺した僅かな言葉をたどっていくと、違った「過去」の姿が浮かび上がってきた。

父と海水浴に行った日

朝鮮籍や韓国籍の人々のたどってきた道のりはもちろん一様ではなく、価値観も様々だ。ただ父はその中でも、「在日」という自身のバックグラウンドによって辛い経験、悲しい思いを積み重ねてきたらしかった。親族たちとの縁を殆ど絶ち、“在日らしい”生活のあり方も日常の中に残さないように努めていたという。

ただそれでも、ルーツの全てを消し去ることは難しい。父が兄に敬語を使わせていたのは決して冷遇していたのではなく、上下関係や礼儀を重んじる朝鮮の文化の名残だったようだ。

そして父が兄を認知していなかった理由もそこにあった。

韓国籍の子どもとして生まれるのか、それとも結婚していない夫婦の間の「非嫡出子」として生を受けてでも、母親の国籍と同じ日本国籍を持つ方がよいのか。当時、非嫡出子は戸籍に「長男」ではなく「男」と表記されることを含め、今より更に就職差別などにつながりかねない仕組みが指摘されていた。

それでも、韓国籍の子どもとして生れる方が、直面する困難が大きいと父は思ったようだった。

少し難しい話になるが、もしも兄が出生後、つまり兄が戸籍上は「シングルマザー」となる兄の母の元に生まれ、日本国籍を持った後、父が兄の母と結婚し認知すれば、兄は日本国籍のまま嫡出子となれたかもしれない。けれどもその前に父は、自分自身も日本国籍を取得しようと試みたようだ。その手続きが完了する前に、兄の母は他界してしまった。様々な想いと、そしてかみ合わなかったタイミングゆえに、その後も兄は「非嫡出子」となってしまった。

つまり父は、兄を切り捨てるような選択をしていたのではなく、愛情があるゆえに苦悩し、兄の将来を思いやるがゆえに決断を下したのだった。

これをもってして一概に「日本で外国籍として生まれた子は皆不幸だ」「認知されない方が幸せなのだ」と伝えたいのではない。飽くまでも父の経験に基づき、父なりの優しさを兄に向けたとき、これが彼のたどり着いた答えだった、ということだ。私にとって大切だったのはその選択に、兄に対する愛情を見出すことができたということだ。

それを示してくれた戸籍が、まるで父の意志が宿る「遺書」のように思えた。

それに気づいてから、私の中での「過去」の見え方は全く変わっていった。それまでは「もしもう一度父に会えたら」と想像したとき、「なぜ?」と何度も問うてしまうだろう自分がいた。「なぜ兄にあんな態度をとってきたのか」「なぜ彼だけが戸籍から外れていたのか」。そこには怒りにも似た感情があったように思う。けれど今、もし父に会えるとすれば、一言「ありがとう」と素直に感謝を伝えたいと思えるようになった。

私たちが何かを学び続ける理由は、そこにもあるのかもしれない。過去に起きてしまった事実は変わらないかもしれない。それをどう振り返るかのよってその「過去」は、全く違った色彩を帯びて見えることがある。今、どうしようもなく苦しく、深い悲しみに見舞われていたとしても、時を経る中で、学び、気づかされたことによって、違った視野が開けてくるかもしれないのだ。

だからこそこれからも、学び続けたいと思う。今すぐに、真正面から振り返ることができなくてもいい。乗り越えられない自分を責める必要もない。焦らず、ゆっくりと、自分のリズムを刻みながら、足元の気づきを少しずつ拾い集めてみる。いつしか振り返ったとき、そこには全く違って見える風景が広がっているかもしれないからだ。

ちなみに2018年の「Pen」11月1日号「手書きの味わい」という特集の中で、兄への手紙をこんな風に綴ってみた。


(2020.3.12/写真・文 安田菜津紀)
※本記事はCOMEMOの記事を一部加筆修正し、転載したものです。


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