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取材レポート

2024.3.7

あの日、請戸小学校(福島県浪江町)の子どもたちは山へ向かった――“犠牲者ゼロ”は阪神淡路大震災の教訓から

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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佐藤 慧 Kei Sato

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田中 えり Eri Tanaka

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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佐藤 慧 Kei Sato

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田中 えり Eri Tanaka

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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田中 えり Eri Tanaka

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田中 えり Eri Tanaka

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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佐藤 慧 Kei Sato

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田中 えり Eri Tanaka

田中 えりEri Tanaka

2024.3.7

取材レポート #田中えり #福島 #子ども・教育 #災害・防災 #東北

福島県浪江町の海沿い、請戸うけど地区。今から13年前の2011年3月11日、この地域を大津波が襲った。その後、海のすぐ近くに植えられた防災林の苗木は、穏やかな波の音を聴きながら少しずつ背を伸ばしている。

防災林のすぐそば、海岸から約300メートルほどの場所に、薄い水色の校舎がある。浪江町立請戸小学校。15メートルを超える津波で周辺の家屋がほとんど流され、変化した請戸の景色の中で、この2階建ての校舎は元あった場所に今も建っている。

震災当時、学校にいた請戸小学校の2年生以上の児童82名は、10数名の教職員と一緒に近くの大平山おおひらやま(標高40メートルほど)に避難し、助かった。すでに下校していた1年生11名も全員が無事だった。

“奇跡”とも言われる請戸小学校の避難は、どのように行われたのだろうか。

「震災遺構・浪江町立請戸小学校」の外観。津波到達点を示す表示もある。(田中えり撮影)

 

震災以前からあの日まで

2023年10月上旬、さわやかな気持ちのいい秋晴れの日。

震災当時、請戸小学校教頭だった森山道弘さんが、津波の爪痕が残る校舎を案内してくれた。校舎は現在、「震災遺構」として整備、一般公開され、震災や津波の脅威、教訓を人々に伝えている。

校舎内を案内する森山道弘さん。震災当時、請戸小学校の教頭だった。(田中えり撮影)

順路に従って校舎の中を進む。安全のため、通路の床はきれいに片付けられているが、壁や天井などは当時のままだ。「1階には教室が3つ。こちらから3年生、2年生、1年生の教室でした」と森山さん。職員室や校長室、ランチルームも1階にあった。

「この1階がすべて津波でやられています。みんな倒されて……。2階は一番東側に波がちょっと打ち寄せた程度でした」。2階には、4、5、6年生の教室や、音楽室、理科室などがあった。

1階の天井は剥がれ、鉄筋が崩れ落ちている。廊下にある蛇口はぐにゃりと曲がっている。津波の威力がどれほどのものだったのか、それら全てが静かに語りかけている。

東日本大震災の地震、津波によって、浪江町では当時の人口約21,000人のうち182人の命が失われた。請戸地区では、自宅にいた人や避難誘導にあたっていた警察官、消防団員などが津波の犠牲となったという。

強い海風に吹かれながら、森山さんが震災前の請戸の様子を語る。

「この北には請戸の街並みがありました。漁港があって、栄えていてね。雪は降らない、夏は涼しい。生活するには最高の場所でした」

校舎に掲げられている請戸の地図。(田中えり撮影)

 

すべてが一変したあの日

2011年3月11日。日中、3月にしては暖かく春のような陽気だった、と森山さんは振り返る。

その日の昼ごろ。森山さんは、教務主任の先生とたまたまこんな話をしていた。

「今年の避難訓練どうしようか。津波の避難訓練しないとね」「避難場所は大平山でしたよね」

毎年5月、学校では火事の避難訓練を行っていたが、「目の前が海」という請戸小学校の場所柄、今年は津波の避難訓練を行おうと考えていたという。

その時、ちょうど校長室からPTA会長が出てきて、避難経路の話になった。

「大平山は、あのあぜ道をまっすぐ行けばいいよね」「そうそう」

そして数時間後、午後2時46分、大地震が発生。津波からの避難が現実のものとなった。

請戸小学校の校舎内。(田中えり撮影)

 

震度6強の地震、「とにかく避難を」

「私が感じたのは揺れがいつまでも続いているという感覚です。揺れが強くて、上下に揺さぶられるような。校舎も崩壊しそうな感じでした」

その時、職員室にいた森山さんは、校内放送で校庭への避難を呼びかけた。5、6年生は卒業式の準備、2、3、4年生は5時間目が終わって帰る準備をしていた。

「とにかく避難。子どもたちを安全に避難させなきゃならない」。森山さんはその一心だった。

「テレビでは3メートルくらいの津波と言っていたんですが、なんだかそれではきかない感じがしました。感覚だけですけど」

実際にはその後、大津波警報での津波の予想の高さは3メートルから6メートル、10メートルへと修正されていった。

震災遺構浪江町立請戸小学校の説明パネルの情報を基に作成。

午後2時54分、2年生以上の児童82名全員がいることを確認し、大平山へと避難を開始した。山は学校から直線で約1・5キロの距離にある。

「学校からは、職員の通用門を通って山に向かいました。大きい道を横切って、田んぼのあぜ道を走って逃げたんです」

避難の列に遅れる子も出てくる。そんな時、自然と上級生が下級生の手を取った。車椅子を利用している子もいたが、担任の教員がその子をおんぶして逃げたという。

一方、森山さんは校舎に残っていた。「ここが地域の避難所になっていたので、ここに人が避難してきた場合に備えて私がいないといけませんでした。それから、保護者が児童を迎えに来た時、大平山へ避難したと伝えました。子どもたちは逃げているので後を追いかけてください、という話もしました」。

子どもたちはこのあぜ道を通って奥に見える大平山へと避難した。(田中えり撮影)

午後3時15分。児童たちは大平山のふもとに到着。この山は、普段子どもたちが遊ぶ場所というわけではなく、先生もどこから山を登って行けばいいか分からなかった。

「ある児童、男の子が入り口を知っていて、その子が教えてくれて山に入ることができたそうです」

一緒に山へ向かって逃げていた地域住民も、山へのルートを教えてくれたという。

その後、町教育委員会の職員が車で学校に避難を呼びかけに来た。午後3時25分、保護者への説明を終え、校内に人が残っていないことを確認した森山さんは、車で大平山へと避難を開始した。

午後3時33分、津波の第一波が沿岸部に到達。森山さんが大平山のふもとに着いた時、すでに津波は押し寄せていた。
 
「子どもたちは本当にここに逃げてくれたかなと不安でした。道を登りながら大きな声で『請戸小学校ー!』と叫んだら『教頭先生、こっちにいるよ』と言われたので、ああよかった、これで助かったと思いました」

午後4時、児童や教職員は大平山の頂上に到着。点呼をして児童全員の無事を確認した。この時すでに沿岸部は海との境界が分からないほど津波で浸水していたという。

午後4時5分、さらなる避難のため山を下り、国道6号線を目指した。3月の冬の日、子どもたちは寒さとも闘いながら歩いた。

余震が続き、目の前で地割れが発生することもあった。通行止めも発生し、道路は渋滞していたという。そのような道路状況の中、先へ進めず停車している2台のトラックがあった。

午後4時40分、この運送業者のトラックが、全員を荷台に乗せて町役場まで連れて行ってくれることになった。森山さんは、トラックの運転手に子どもたちと教職員を託した後、校舎の様子を確認するために請戸小学校の近くまで戻った。

そこで目にした景色はこれまでとは一変していた。「とにかく家が一軒もなくなって、流されていました」。

午後5時、児童や教職員は浪江町役場近くの体育館に到着。保護者が迎えに来ていた児童は、無事保護者の元に帰った。迎えがなかった児童数人は体育館で一夜を過ごした。

児童や教職員が実際に避難した経路。(田中えり撮影)

請戸小学校の様子を確認し終えた森山さんは、別の避難所へと移動し、子どもたちが役場近くの体育館にいることを伝えた。その後は町役場から各避難所へと電話し、「子どもたちはここの体育館にいますので」と連絡した。連絡がようやくひと段落したのは翌3月12日の午前2時ごろだったという。地震発生当時すでに下校していた1年生11名全員の無事もその後確認できた。児童全員の無事が確認できるまでは心配で電話から離れられなかった、と振り返る。

そうして安心したのも束の間、別の災害が迫りつつあった。

森山さんが見せてくれた震災直後の校舎内を写した一枚。ランドセルなどが残り、子どもたちがここで学校生活を送っていたことが伝わってくる。(田中えり撮影)

 

地震、津波、そして原発事故が

福島県初の震災遺構として2021年10月に一般公開を開始した請戸小学校には、2023年3月末までに約74,000人もの人々が訪れたという。

森山さんの案内で校舎内の階段を上り、2階へと進む。

2階の教室の窓からは、原子力発電所の排気筒が見えた。請戸小学校から南に約6キロの場所に、東京電力福島第一原発がある。

震災翌日、3月12日の明け方、避難所にいた森山さんは、小学校の保護者からこんな話を聞いた。「原発から白い煙が出ている」「爆発するかもしれない」――。

夜が明け、森山さんの目に映ったのは防護服を着た警察官の姿だった。

午前5時44分、政府は福島第一原発の半径10km圏内に避難指示を発令。森山さんや児童らがいた体育館は原発から8キロほどの場所だった。新たな「避難」の始まりだった。

 

「奇跡」は日々の積み重ねの先に

児童全員が助かった請戸小学校の避難は、“奇跡”と言われることがある。だが、森山さんはこう話す。

「奇跡ではないと思いますよ。やはり、車椅子を利用している子を先生が背負って行ったり、2年生の手を6年生が引いたり、そういうみんなの協力意識があって、パニックにもならないで、避難できたんだと思います」

各学年1クラスずつの請戸小学校は、クラスメイトが皆幼なじみのような距離の近い関係性だった。1階にはランチルームがあり、そこで毎日全校児童が一緒に給食を食べていた。

「請戸小の子どもたちは、連帯感がものすごくある印象でしたね。みんなで協力し合うことが得意でした」

森山さんがそう語るように、日頃から自然と子どもたちが助け合い、連携する風土があった。それが、ひとりの犠牲者も生まずに避難できた要因のひとつと言えるだろう。

「奇跡と言えることがあるなら」と森山さんは続ける。「あの日、お昼のときにちょうど来ていたPTA会長が、避難訓練の話をしているときに校長室から出てきて、『まっすぐあのあぜ道を行けば大丈夫だよね、山に行けるよね』と話して確認できたこと。それはものすごく不思議な感覚です」

 

阪神淡路大震災の教訓が生かされた

もうひとつ、避難がうまくいった大きな要因は、森山さんたち学校側が児童の保護者への引き渡しよりも避難を優先したことだ。

地震が起きてから津波が来るまでの間に、学校で、そして山へ避難する途中で、先生たちは保護者から児童の引き渡しを求められても、「まず避難を」と山へ逃げることを優先した。

森山さんによると、それは1995年の阪神淡路大震災の教訓が元になっているという。

東日本大震災の前年、2010年4月に請戸小学校に赴任した森山さんは、同校の津波の避難計画作りを進めた。

「阪神淡路大震災を元にした国の避難計画の指針には、通学路の安全が確保できないうちは保護者へ児童を引き渡さない、ということが書かれていました。津波が来るというあの状態では、安全は確認できないですからね。まず山へ行ってその後体育館へ行って、そこからは安全ですから、迎えに来た保護者に児童を引き渡しました」

同じ津波災害ではなくとも、過去の震災の教訓が生かされていたのだ。

また、請戸小学校の3階にあたる屋上や、学校近くの別の高台も地域の避難場所になっていたという。だが、森山さんたちは「屋上も別のところもトイレがなくて困るだろう」と、事前に話していた通り、国道6号線に通じる道がある大平山への避難を選んだ。その結果、子どもたちは無事に避難所となった体育館まで避難できた。別の高台では、孤立状態になり翌朝まで身動きが取れなかったところもあったという。

児童全員の命が助かったのは、子どもたちが互いに助け合って生活してきた日々の積み重ねであり、そして、過去の災害から学び、平時から備えていた結果だった。

一方で、反省点もあるという。「避難訓練ができていなかったので、保護者に具体的な避難経路を伝えようがなかったんです。子どもたちは山を越えるルートで逃げたと伝えたのですが、1回でも訓練をしていれば、避難経路について文書にして保護者に共有できていたと思います」

「請戸大好き」「がんばろー!」。請戸小学校の校舎2階の教室にある黒板には、震災後、多くの人がメッセージを書き込んだ。(田中えり撮影)

 

何を学び取れるか

13年前に福島で起きた地震、津波、そして原発事故という複合災害。

当時、浪江町の隣、双葉町で暮らしていた森山さんは、娘が暮らしていた北海道へ最初に避難し、その後は福島県郡山市で生活している。

「人生そのものが、私だけじゃなくてみんな変わってしまった。この13年の間に私の家も、動物が入ったり、ガラスが割られたりして、取り壊しをしてしまいました。自分の生まれた家がなくなってしまいましたし、大熊(町)にある妻の実家も最近取り壊しになりました。思い出の家とか、いろいろなものがなくなったなぁと。私だけじゃなくて、向こうに住んでいた方みんなそうですからね」

原発事故後、浪江町は全域に避難指示が出され、町民全員が避難を余儀なくされた。請戸小学校の児童たちも、校舎に戻ることはなく、県内外の避難先に散り散りとなった。

請戸地区を含む町の一部で避難指示が解除され、浪江町内に再び人が住めるようになったのは震災発生から約6年後、2017年3月末のことだった。その後も避難指示解除は進められているが、現在も原則立ち入り禁止の地域は残っている。

請戸地区では、津波で浸水したエリアのほとんどが「災害危険区域」に指定され、住宅の再建はできなくなった。ここに人々が暮らし、生活が営まれていたことを伝えるかけがえのない存在が、この請戸小学校である。

「あれほどの大きな津波がくるということは、想定はしていたけど予想はしていなかったですね」

森山さんは率直な思いをこう打ち明ける。事前に避難計画を考えてはいたが、実際に津波が“本当に来る”と想像はできていなかったという。

次の災害へと備えなければならないのは、今を生きる私たち一人ひとりである。起きてしまった災害、その被害や経験した人の言葉から何を学び取ることができるか、問いかけ、考え続けたい。

震災後、大平山には慰霊碑が建てられ、霊園も整備された。(田中えり撮影)

浪江町「なみえ復興レポート令和6年1月号版」などを基に作成 https://www.town.namie.fukushima.jp/uploaded/attachment/20066.pdf

 

(2024.3.7 / 田中えり)

 


 
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