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「あなたたちと同じ人間」―戦時下を生きる少数民族ロマの人々の声(前編)

ウクライナ西部の街、リビウから寝台列車に揺られること4時間。緑豊かな山々を抜ける列車の車窓から、ときおり透き通った小川が見え隠れする。国立自然公園を横切りたどり着いたのは、石造りの家々が歴史を感じさせるザカルパッチャ州、ムカチェボ駅だ。

ムカチェボの小高い丘にあるパラノック城からの風景。

「カルパッチャ山脈の向こう」という意味のザカルパッチャ州は、チェコスロバキア領だった時代を除けば、中世から20世紀半ばまでハンガリーの領土に組み込まれていたため、ハンガリー系の住民たちも多く暮らしている。

ロシアの軍事侵攻によって、ウクライナ国内の避難民が700万人を超える中(2022年6月現在)、多くの人が、比較的安全な地域だと認識されているザカルパッチャ州を目指した。元々の人口約130万人の州に、侵攻開始後2週間ほどで50万人を超す人々が他の地域から避難してきたことが報じられている。ポーランド、スロバキア、ハンガリー、ルーマニアの4ヵ国の国境に接し、常に人々の往来が続いているため、避難者の人数は流動的ではあるものの、人口集中による家賃の高騰が深刻化している。戦闘が続く東部から逃れてきた女性は、「避難所から抜け出そうにも、どの部屋も高すぎて手が出ない」とため息をつく。とりわけそのしわ寄せを受けているのは、マイノリティの人々だ。

少数民族ロマは、数百年という歴史の中で、ヨーロッパ各地を移動する生活を続け、その土地土地で差別や迫害の対象となってきた。1933年から始まったナチス・ドイツによる「絶滅政策」では、数十万人のロマが犠牲になったといわれている。

ムカチェボの中心地に近いロマの人々のコミュニティ。とりわけ厳しい状況にある家族は、小さな部屋に、子どもたち含め大人数が身を寄せ合って暮らす。

近年、混血や定住化、生活の多様化も進んでおり、ウクライナ国内には40万人ほどのロマの人々が暮らしているという。2010年ごろから、国際人道支援団体などが法的支援に力を入れ、身分証の取得も進んできたが、推計で3万人ほどがパスポートなど身分を証明できる書類を持ち合わせていないことが指摘されている。また、現在もロマへの差別が解消されたわけではない。

とりわけ2018年には、ウクライナ国内で、ロマの集住地区への放火や襲撃など、犠牲者を伴う残忍なヘイトクライムが相次いだが、警察の捜査が十分尽くされたとは言い難い。

国際NGO、ADRAは、侵攻開始以前からウクライナ社会の中で脆弱な立場に置かれている人々の支援を続けてきた。現在はムカチェボのオフィスに、マリウポリなど東部で活動していたスタッフたちが退避し合流している。つまり、避難者でもあり支援者でもある人々が、コミュニティを支えていることになる。

ロマの人々が暮らすムカチェボのコミュニティ。

「教育こそが、状況改善の鍵」

ADRAでは昨年の9月から、ムカチェボの中心地に近接する、ロマの人々の集住地区などの支援を行ってきた。地域差もあるが、とりわけ状況の厳しい地区では、舗装道路や上下水道なども未整備のままだ。バラックや小さな木の小屋に大人数が身を寄せ合い、辛うじてトイレ清掃などの仕事を続けてきた人々も、ザカルパッチャ州への避難者の増加に伴い、職を失ってしまったと訴える。

数家族が共同で生活用水のために使っている井戸。

「長期的に見て必要なのは、やはり教育だと思うんです」

そう語るのは、ADRAが避難者支援などで連携する「REYN Ukraine」国内コーディネーターのエレオノラ・クルチャーさんだ。現在は、戦禍から逃れてくる人々のシェルターを運営する一方、数年前からロマの子どもたちに対する「就学前教育支援」に力を入れている。エレオノラさん自身もロマであり、「子どもの頃は学校に通うと、“ロマ、ロマ!”って囃し立てられて、髪を引っ張られたり、蹴られたり。毎日泣きながら通っていたこともありましたよ」と経験を語る。

自身の経験を語るエレオノラさん。戦争避難者が暮らすシェルターの中庭で。

ロマの子どもたちを学校から遠ざけているのは差別やいじめばかりではない。そもそも親の世代が教育の機会を逸している場合、子どもたちの家庭内教育も不十分なまま、学校に通いはじめても授業についていけず、落ち着いて座っていることもままならないことがある。生活習慣の違いからも軋轢が生じ、学校をやめてしまうことも少なくない。

「こうした問題もあり、ロマの子どもたちは幼稚園や学校への入学自体が断られてしまうこともあります」

ロマの子どもたち向けの公立学校も存在はするが、質が担保されているとは言い難いとエレオノラさんは指摘する。読み書きが十分にできないことで、ロシアによる軍事侵攻後、避難や支援の情報からとりこぼされがちな人たちもいるという。

REYNが運営する子どもたちの就学前教育支援教室。

2003年から2014年にかけて、エレオノラさんはロマのコミュニティ向けに食糧支援などを続けてきた。しかし中々生活の改善に結びつかず、教育に力を入れる必要性を感じ、支援の形を変えてきたのだという。そこで始めたのが「就学前教育支援」だった。

「コミュニティと長く対話を続け、私たちの教室に子どもたちを通わせてくれるよう促してきました。『子どもに教育を受けさせる意義が分からない』という親たちに、『試しに少し、子どもたちを預けてみて』と、徐々に活動を広げていきました。数を数えたり、文字を読めるようになり、楽し気に通う子どもたちを見て、少しずつ親たちの意識も変化しつつあります」

就学前教育支援教室に通う子どもたち。

ザカルパッチャ州都、ウジホロドの住宅街の一角にある小さな教室をのぞくと、子どもたち10人ほどが机を並べ、アルファベットの読み方を習っているところだった。「Aで始まる単語は何?」と先生が呼びかけると、一斉に手が上がり、大きな声で誇らしげに思いつく言葉を口にしていく。ここを卒業していく子どもたちの多くが、ウクライナの公立学校に進んでいくという。

「ロマだから」と追い出される

順当に見える教育支援だが、軍事侵攻後、一時この校舎はロマの人々の避難所となり、最大50人がすし詰め状態でしのいでいた。その間、学校での活動は中断せざるを得なかったほか、新たに避難してきたロマの人々の間には、こうした教育に対する意識が根付いていない場合もある。どのようにこれからコミュニティの中で受け入れが進むのか、エレオノラさんは新たな課題に直面している。

勉強の合間、中庭でのレクリエーションの時間には、ひと際にぎやかな声が響く。

エレオノラさんは、REYNが中心となって運営する避難者シェルターの責任者でもある。元々ロマが経営するレストランだった施設で、長らく空き家となっていた建物を借り切り、70人前後が生活を続けている。避難者たちが交代で食事を作り、「ロマのボルシチはいかが? 僕たちのボルシチはいろんな種類の肉を混ぜて作るんだ」と、当番の男性がキッチンから陽気に声をかけてくる。

シェルターでボルシチ作りの下ごしらえをする避難者たち。

数日前に東部から避難してきたというスウェタさんは、息子のアレクセイさん、そして2人の孫たちと共にこのシェルターに身を寄せていた。元々ドネツクに暮らしていた一家は、2014年から続く戦闘で家を焼け出され、各地を転々とした後、今度は今年(2022年)2月24日にはじまったロシアによる軍事侵攻で、西部への避難を余儀なくされたという。

「アレクセイの妻、つまり孫たちの母親は、爆撃で怪我を負った後、心臓の疾患で死んでしまいました。今は私が、孫たちの世話をしています」と、スウェタさんは肩を落とす。

「子どもたちはまだ、すべてを理解するには幼すぎます。それでも、大きな音が鳴るたびに怯えるんです。近くの教会の鐘の音ですら怖がります」と、アレクセイさんも深くため息をつく。

左奥から、アレクセイさん、スウェタさん、孫のローラさん。

シェルターで暮らす人々の中には、「同じ避難者同士、出自など関係なく助け合ってここまで来た」と語る人もいれば、その道中でさえロマとして差別的な扱いを受けたと語る人もいる。

「駅に避難しているときに暖を取ろうとヒーターのある部屋に行ったら、『ロマの人たちは受け入れられない』と追い払われたんです。別の施設では中に入れてもらえたけれど、私たちが入った後に、ヒーターのスイッチを切られてしまいました。私たちに、早く出て行ってほしかったのでしょう。幼い子どもたちを連れているのに……」と、スウェタさんも自身の経験を語る。

同じシェルターで暮らす20代の男性も、「駅舎で寝ていたら、私たちロマだけが追い出されたこともありました。女性たちや子どもたちも一緒にね」と目を伏せた。

こうして表に出てくるケースは、ごく一部ではないかとエレオノラさんは懸念する。「そもそもロマ自身が、自分たちにどんな権利があるのかを知らなかったり、差別されることに慣れてしまって、強く抗議をしないこともあるからです」。

シェルターでの、情報共有のためのミーティング

実はこのシェルターは、ロマ以外の人々も一緒に暮らす、「国内では珍しいシェルター」なのだとエレオノラさんは語る。例えばハンガリー側の国境付近で取材したシェルターでも、「分けた方がロマの人たちも安心だろう」と、部屋を別々にしていた。ただ一部地域では、ロマのシェルターがより劣悪な環境に置かれていることも指摘されている。

「こうして共に生きるシェルターを運営することは、挑戦的なことでもありました。避難してきた人たちに声をかけても、『ロマの人たちがいる場所はちょっと……』という人もいれば、『まずは施設を見てみます』『私たちは全く問題ありません』と、反応は様々でした」

これまであまり交わることがなかった人々同士が生活を共にすることは、決して簡単なことではない。けれどもこの間、“ポジティブな変化”も見受けられたという。

「ロマの人たちに、『よかったら子どもたちの面倒を見ていますよ』と最初に声をかけられたとき、ロマではない人々の何人かは、ぎょっとしたような反応を示していました。ロマが皆、犯罪者であるかのようなイメージを持つ人々も、残念ながらいるのです。ところが、日々接するうちに、今では『ちょっとうちの子、見てて』と、彼らからロマに声をかけるようになったんです」

「あなたたちと同じ人間」

一方、隣国ポーランド側での支援はどのような状況なのだろうか。ウクライナから国外へと避難した人々は通算で600万人を超え、そのうち半数以上をポーランドが受け入れてきた。

ワルシャワ西駅でバスを降りたすぐ目の前に、ウクライナの人向けの食事支援スペースがある。

5月23日にポーランド側へと避難してきたザリーナ・フェドロービッチさんは、キーウよりもさらに北側のチェルニヒウ州の村の出身で、避難前は小さな売店で働いていたという。現在はワルシャワ市が運営する避難者シェルターで生活している。

チェルニヒウ州は一時ロシア軍に占拠され、解放された今も脅威が消え去ったわけではない。5月17日、近くの集落にロシア軍のミサイル4発が撃ち込まれ、瓦礫の下から87人の遺体が発見された。こうした止まない攻撃が、避難を決意するきっかけとなった。

「父はすでに亡くなり、母や3人のきょうだいと暮らしていましたが、皆、暮らし慣れた村や家を離れたがりませんでした。でも私は怖くてたまらず、ひとりでポーランドを目指しました。今でも飛行機が上空を通る度、びくびくしながら過ごしています」

ワルシャワにたどり着いたとき、暮らしていた村とはあまりに違う大都会の様子に、心細く涙が止まらなかったという。

ワルシャワ中央駅近くで、体験を語ってくれたザリーナさん。

そんなザリーナさんも、避難の道中ではたびたび差別を受けてきた。移動する列車の車内や、一時滞在シェルターでは、「入ってくるな!」「ここはロマの場所ではない」「物を盗むなよ」などといった声を浴びせられたという。

「その度に言い返しました。私は泥棒なんかじゃない。あなたたちと同じ人間だって」

同じシェルターに暮らしている、4人の子どもを連れた男性はこう語る。「ロマの中にも、いい振る舞いをする人もいれば、そうではない人もいる。あなたたちと同じようにね」。

支援者のポーランド人男性もこう続けた。「まだまだ課題があるとはいえ、侵攻から4ヵ月が経ち、少しずつマイノリティに対する支援状況もましにはなってきました。ただ、侵攻直後のロマの人たちが置かれた状況は、ポーランド側でも惨憺たるものがありました」。

ポーランドの状況についての詳細は、【戦時下を生きる少数民族ロマの人々の声(後編)】で、識者の声と共にお伝えする。

(2022.6.28/写真・文 安田菜津紀)


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