蔑ろにされたのはフィリピンの市民の命―マニラ市街戦から
日本から約5時間、飛行機はフィリピンの首都マニラにあるニノイ・アキノ国際空港に近づいた。高層ビルが立ち並び、建設中のものも見える。その周りには、平屋など低層の家々の屋根が所狭しと並ぶ。経済発展を続けるフィリピン。その人口約1億900万人のうち、約1300万人がここマニラに暮らす。
今から80年ほど前の太平洋戦争の間、フィリピンは2度、戦場となった。
1度目は、下記の記事でも詳しく伝えた太平洋戦争初期。日本軍は1941年12月8日の真珠湾への攻撃後、フィリピンに上陸。1942年1月にはマニラを無血占領した。
2度目は太平洋戦争末期。フィリピン奪回を目指すアメリカ軍がマニラに攻め込み、日本軍は抵抗した。これが1945年2月3日から1ヵ月間行われた、マニラ市街戦である。日本軍は建物に立てこもるなどして抗戦。結果、マニラ市民が暮らしていた街を破壊し、おびただしい数の命を奪った。
太平洋戦争終盤、再び戦場となったフィリピン
フィリピン奪還を目指すアメリカ軍は、1944年10月、レイテ沖海戦で日本軍に勝利。1945年1月には、ルソン島北部のリンガエン湾に上陸した。そして翌2月、日本軍の予想よりはるかに早く、アメリカ軍はマニラに入った。圧倒的な兵力のアメリカ軍に対し、日本軍は防衛戦を展開した。
「マニラ市街戦の中で一番最初に米軍が入ってきた場所がこれから行くサント・トーマス大学です。捕虜収容所でした。やはり米軍は捕虜を大事にするので、捕虜の奪還・解放後に戦闘を開始したんですね」
現地で戦跡ツアーのガイドを長年務めるSuenaga Hidekoさんにご案内いただき、マニラにあるサント・トーマス大学を訪れた。1611年創立で400年以上の歴史を持ち、現存する中ではアジア最古の大学という。
創立時のスペイン統治時代を思わせる重厚な3階建ての建物の中に入る。
1942年にフィリピンを占領して軍政を敷いた日本軍は、この大学を収容所とし、現地で暮らしていたアメリカ人やイギリス人を「敵国人」という理由でここに入れたという。1945年2月にアメリカ軍がマニラに進軍してくるまでの約3年間、収容された人々は自由を奪われた生活を送った。
建物の中では人がひしめき合い、誰も彼もが栄養失調で痩せ細っていた。敷地内で畑を作って野菜を自給するなど、工夫しながら食べ物を賄っていたという。
建物入り口に設置されている碑文には、このように書かれていた。
1942年1月4日から、ダグラス・マッカーサー将軍率いるアメリカ軍によって1945年2月3日に解放されるまで、彼らは肉体的な困窮と国民的な屈辱に苦しんだ。
アメリカ軍と日本軍の交渉の末、収容所にいた約3500人の人々は無事に解放された。
水牢として使われた地下空間
市民の憩いの場、リサール公園を歩く。芝生の上にシートを敷いたり、ベンチに座ったりと、家族連れや集まった人々がのんびりとした時間を過ごしている。
この公園のすぐ北に位置するのが、旧城塞都市イントラムロスである。16世紀のスペイン統治時代に造られた都市で、実際に城壁に囲まれている。「イントラムロス」はスペイン語で壁の内側の意味という。
イントラムロスの北西端の一角にある「サンチャゴ要塞」へ向かう。マニラ湾につながるパシッグ川に面するこの要塞は、日本軍政下、憲兵隊本部が置かれていた、とHidekoさんが教えてくれた。
「フィリピンのお年寄りの人は『憲兵隊』という言葉を、英語に訳さなくても知っています。『憲兵隊に捕まったら生きて帰ることはできない』と、それだけ恐れられていたということですね」
市街戦によってできた砲弾や銃撃の跡が生々しく残る建物。その脇を通り、要塞の中を進んでいく。すると、苔と小さな草で覆われた石造りの地下空間があった。
「この建物は、反日活動していたフィリピン人のゲリラの取り調べ所で、日本軍がここで拷問したり虐殺したりしていたんです。水牢だったんですよ」
もともと、スペイン占領時代に弾薬倉庫として使われていたこの空間は、いつからか刑務所のような場として使われるようになったという。川の満潮時、この地下牢には天井までいっぱいに水が入ってくる。ここに閉じ込められていた人々は溺死するほかない。拷問され、衰弱し、餓死した人も多くいると言われている。
この場所で殺された人数、約600人――。Hidekoさんが口にした数字に、おもわず耳を疑った。
そのほとんどがフィリピン人で、中にはアメリカ人もいたという。彼らの遺骨は現在、水牢のすぐ近くに設置された十字架の下で眠っている。そこに記された碑文には、「日本軍の残虐行為によって」人々が殺されたと英語ではっきりと記されている。
「この場所には、約600人のフィリピン人の遺骨が眠っている。彼らの遺体は、1945年2月末の数日間、日本軍の残虐行為によって監禁された近くの地下牢の中から発見された。日本人の残虐行為による彼ら犠牲者の記憶は、フィリピンの人々の中で永遠に生き続けるだろう」
階段を降り、暗い地下牢に続く道を進む。鉄の扉がついた入り口は、大人が屈んでやっと入れるほどの大きさだ。入り口をくぐると、湿っぽく重たい空気が広がっていた。足元には、川の水が染み出てところどころで水たまりができている。中には部屋が6つほど。監視役の日本兵や、怪我を負い衰弱した様子の市民を模した人形が部屋に置かれ、水牢として使われていた当時の様子を再現していた。
日本軍がマニラで行った虐殺について、GHQ(連合国軍総司令部)がまとめた記録がある。そこには、地下牢で発見された遺体についてこのように記述されている。
入口近くには三十以上の屍体が数えられた。これらの屍体は折り重なっており、その位置から判断して、本能的な努力で、唯一の出口に向かってひしめきあったまま死んで行ったものと推定される。その出口は開かれなかったのだ。部屋の中には、二百五十ないし三百の屍体が転がっていた。一つの屍体は閉ざされた扉の前にあり、もう一つは半ば坐りかけた姿勢のままで、その他は互いにもつれあって死んでいた。部屋のずっと奥にも、さらにいくつかの屍体が見られた。扉の近くにある屍体の一つは婦人であった。
(「特別付録 マニラの悲劇」連合軍総司令部諜報課、『日本の原爆記録第二巻 長崎の鐘』、永井隆他著)
出口を求め、そのまま息絶えた人々の無念さは、どれほどのものだっただろうか。
市民の大量虐殺、なぜ
なぜ、600人もの命を奪う必要があったのか――。
1942年にフィリピンを占領した日本軍は、軍票を乱発し米や食糧を買い占め、住民からは食糧を略奪していった。フィリピンの人々は反日感情を増幅させ、抗日ゲリラが生まれた。アメリカ軍は彼らに武器を与え、ゲリラ兵は次々に日本兵を襲った。
日本軍では「ゲリラ粛清」の命令が出された。武器を隠し持つゲリラは、一般人との区別がほとんどつかない。ゲリラでなくとも、疑いをかけられれば殺されていったという。
Hidekoさんは当時の日本兵の心情をこう推察する。
「市民を殺すことを悪と思わず、それも戦争の一部と思っていたのでしょう。抗日ゲリラの一部かもしれない、やらなかったらやられる。戦争というのは生きるか死ぬかのどちらか。人影が見えたらそれが一般市民だろうが、兵隊だろうが、先に攻撃しないと撃たれるという恐怖があったのではないでしょうか」
戦争というものが、いかに人間の思考を奪い、狂気へと追いやっていくかを示す事例ではないだろうか。
マニラ市街戦での最大の犠牲
マニラ市街戦による市民の犠牲者数は10万人とされている。戦闘に巻き込まれた人もいれば、日本兵による残虐行為で命を落とした人も多くいる。近年の研究では、この10万人のうち約4割は、アメリカ軍の砲爆撃による犠牲者であると分かってきた。
マニラ市街戦でアメリカ軍は当初、砲撃を規制するなど無差別攻撃に慎重だった。しかし、兵士たちの被害を抑えようとした結果、2月12日ごろ、砲撃規制を解いた。マニラ市民の命よりも、自国軍兵士の命を優先したと言える。
市街戦を戦った日本軍の「マニラ海軍防衛隊」は陸軍、海軍を合わせて2万3000人ほどと推定される。海軍の部隊は、言ってしまえば寄せ集めの兵士で構成され、現地で召集された人は軍事訓練をほとんど受けていない状態だったという。
1945年2月3日に開始された市街戦。同月17日、日本軍では劣勢が続く中、ついにマニラからの撤退命令が出された。しかし、アメリカ軍に包囲された市内からの脱出は、もはや不可能だった。
同月26日、マニラ海軍防衛隊司令官の岩淵三次少将が立てこもっていたビルで自決。そうして、市街戦開始から1ヵ月後の3月3日、戦いは終わった。
マニラ市街戦における日本軍の死者は1万数千人で、「ほぼ壊滅」とも言われる。アメリカ軍の死者は1000人ほど。対して、マニラ市民は10万人が亡くなった。その数字からも分かるように、日本とアメリカの戦いによって、蔑ろにされたのは、フィリピンの人々の命だった。否応なく他国の争いに巻き込まれた挙句、戦場に晒され、亡くなっていったのだ。
国際法では、戦争は兵士たちが行うものとされ、戦闘員でない民間人への攻撃は認められていない。にもかかわらず、市民は攻撃され、命を奪われた。そしてそれは、今も世界各地で起きる戦争で繰り返されている。
各地で起きた日本軍による残虐行為
マニラ市内の戦跡を巡る道中、Hidekoさんが「ここでも」「あそこでも」と、日本軍による残虐行為が起きた場所を次々に教えてくれた。数えきれないほど、実に多くの場所で罪のない、武器を持たない市民が殺されていたのだと改めて実感する。次回の記事で触れる予定だが、日本兵による性加害も実に深刻だった。
イントラムロス内の広場。あるひとつの群像を前に、Hidekoさんがこう説明する。
「慰霊碑は兵士のために建てられたものが多いですが、こちらは民間人の犠牲者のために作られました」
大人、子ども合計8人がもたれ合うようにしているこの群像は、マニラ市街戦で犠牲になった罪なき市民を表現している。終戦から50年後の1995年、記憶を次世代に伝えようと、市街戦で家族を失った遺族有志らによる団体「メモラーレ・マニラ1945」が建立した。
中心の女性は涙を流し、動かなくなった子どもをじっと見つめている。子どもは”失われた希望”を表しているという。その右側に配置されている女性はレイプ被害者なのだろう、衣服がはだけている。正面には、戦闘に巻き込まれた年配の男性が横たわっている。
「サンチャゴ要塞」「サントドミンゴ教会」「デ・ラサール大学」……。
群像の右側には、日本軍による住民虐殺が行われた場所のうちの一部、36ヵ所がリストになって刻まれている。教会や病院、大学、そして一般の個人宅と思われる場所もある。
リストの中には、日本の同盟国だったドイツのクラブや中立国だったスペインの領事館もある。「味方」のドイツ、誰の「敵」でもなかったスペインまでも日本軍が攻撃の対象としていたことが分かる。「もうめちゃくちゃですよ」とHidekoさんは声を落とす。
スペイン領事館での日本軍の加害ついては、前述のGHQによる記録の中に具体的に記されている。あまりに残忍な方法で日本軍が命を奪っていたことが分かる。
コロラド街六二二番地にあるスペイン領事館は、スペイン国旗が歴然と掲げられていたにもかかわらず破壊された。領事館に避難していたスペイン人若干を含む五十名以上の人々は、生きながら焼かれ、または庭園で刺し殺された。(略)屍体のうち身許の明らかになったものは、わずか十五にすぎなかった。
(「特別付録 マニラの悲劇」連合軍総司令部諜報課、『日本の原爆記録第二巻 長崎の鐘』、永井隆他著)
求められる記憶の継承
終戦の翌年1946年7月、フィリピンは正式にアメリカから独立。500年近く続いた他国の支配からようやく解放された。
日本との間では賠償交渉が難航しながらも進み、1956年に国交が回復した。フィリピンへの賠償額は交渉の末、総額8億ドルで決着した。戦後賠償を起点として始まったODA(政府開発援助)は現在まで続き、日本のODAで造られたという道路や橋がフィリピンにはいくつもある。もちろん国レベルだけでなく、民間や市民レベルでもさまざまな尽力があり、現在ではフィリピンは「親日国」として知られるようになった。
ひとりの大統領による、ある決断も今日の日本とフィリピンの友好の礎になったと言われている。
マニラ市街戦当時、上院議員だったエルピディオ・キリノ氏は、妻と3人の子どもを日本軍に虐殺された。自宅から避難先に逃げようとした際に通りで殺されたという。
キリノ氏はその後、1948年に前任者の急逝に伴い大統領に就任。元日本兵、BC級戦犯の処遇問題への対応に迫られた。そして1953年、自らの痛みと向き合いながら出した結論は、戦犯105人全員を釈放する「恩赦」だった。
「日本人へ憎悪の念を残さないために」。恩赦を発表した声明の中で、キリノ氏はこう述べている。背景には日本との賠償交渉の進展など政治的思惑も指摘されるが、フィリピン国内の激しい対日感情の中で、一国のリーダーとして将来の友好のために決断したのだろう。その数ヵ月後、再選を目指した大統領選でキリノ氏は敗れた。
「バタアンの死の行進も、マニラでの虐殺も、フィリピンの人々の心の葛藤がどれだけのものであるか、私たち日本人は理解する必要があると思います。多くの方の努力と犠牲と忍耐があって、長い時間をかけてフィリピンと日本の今の良い状態ができたんですから」
マニラの戦跡を一日かけて巡った帰りの道中、Hidekoさんはこう話した。
日本との「和解」や友好関係が進む一方、フィリピンでは1990年代ごろから太平洋戦争の記憶の風化が叫ばれるようになった。
イントラムロスの広場にある市民団体「メモラーレ・マニラ1945」による群像碑も、悲劇が忘れ去られてしまうことへの危機感を背景に建てられた。次世代への記憶継承のため活動する同団体は毎年2月、この広場で慰霊祭を行っている。
一方、フィリピンでの日本軍の戦争加害の歴史について、日本国内ではどれだけ継承されているだろうか。
日本とフィリピンはすでに「和解」済みとされ、南京事件や「慰安婦」問題など、日中、日韓の歴史問題と比べてニュースで取り上げられることはほとんどなくなっている。だからこそ、関心を持ち続け、知ろうとする姿勢が求められるはずだ。戦争が、日本が残した「痛み」を想像しながら、これからも向き合っていきたい。
(2023.12.21 / 田中えり)
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