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なぜろう学校で、手話が禁止されていたのか―松﨑丈さんインタビュー【前編】

自分の思いを伝え、人とつながるために、誰もにとって必要な「言葉」。シリーズ「言葉を奪われないために」では、言葉や言語を使う権利が生きることそのものにどう関わっているのかを考えていきます。

今回取り上げるテーマは「なぜろう学校で手話が禁止されていたのか」。

昨年東京で聞こえない・聞こえにくい人のための国際スポーツ大会「デフリンピック」が開催されたことなどをきっかけに、日本でも手話への関心が高まっています。主に手話を自分の言語として使い生活している方々のことを「ろう者」と言いますが、かつて日本のろう学校では手話の使用が制限されていた歴史がありました。なぜそのような歴史があったのか、今回はその背景について宮城教育大学教育学部教授の松﨑丈さんと考えます。

宮城教育大学の研究室で立つ松﨑丈さんの写真
松﨑丈さん(佐々木想撮影)

松﨑丈(まつざき じょう)さん

宮城教育大学教育学部教授。専門は教育心理学、特別支援教育、障害学生支援。1977年広島県生まれ。ろう者で、先天性風疹症候群による重度の感音性難聴。宮城教育大学大学院教育学研究科修士課程修了後、東北大学大学院教育学研究科博士後期課程修了(博士:教育学)。2005年より宮城教育大学で特別支援学校教員養成に取り組む。

※本編は動画でもご視聴いただけます。松﨑さんの手話によるお話をぜひご覧ください。

日本手話は日本語とは違う言語?

――手話への関心が高まっている一方で、「手話が独自の言語である」という認識はまだあまり一般的ではないように思います。日本で手話を使って生活しているろう者の多くが使用している「日本手話」は、日本語とは違う独立した言語なのでしょうか?

そうですね。簡単に言うと、日本語は「母音と子音を組み合わせて作る」言語です。

たとえば、
「 雨 」(あめ)[ /ame/ ] の 「め」の母音を、[ e ] から [ i ] に変えると、
「 網 」(あみ)[ /ami/ ] になりますよね。

このように母音と子音の一部を変えると、別の意味を持つ言葉に変わるのが日本語の特徴です。

そういった特徴は手話にもあります。
手話の場合、①手の形、②手の動き、③手の位置を組み合わせて言葉を作るので、この3つのどれかが変わると別の意味を持つ言葉に変わります。

たとえば、『嘘』という単語があります。
これは①手の形は人差し指を立て、②動きは接触、③位置が頬です。

手話の「嘘」を表す動作の解説画像。松﨑丈さんが右手の人差し指を立てて頬に触れている写真と、その横に「①人差し指を立てる」「②接触」「③頬」という構成要素テキスト、および「嘘」の文字が添えられている。

この①手の形を「指2本」に変えると、私の名前にもある『松』に変わります。

手話の「松」を表す動作の解説画像。松﨑丈さんが右手の指2本を立てて頬に触れている写真と、その横に「①指2本を立てる」「②接触」「③頬」という構成要素テキスト、および「松」の文字が添えられている。

また、③人差し指の位置を頬ではなく「頭」に変えると、『思う』という意味になり、その位置で②動きを「ねじる」に変えると『考える』に変わります。

このように組み合わせを変えると違う意味の言葉になるという、そういった単語の作り方が手話にはあります。

もう一つ、文法も違っています。日本語の場合は、助詞などを使って単語を組み合わせて言葉を作りますが、日本手話では顔を使った文法表現があります。

たとえば疑問形には、YesかNoで答えが欲しい疑問文(「Yes/No疑問文」)と、説明を求める疑問文(「WH疑問文」)がありますよね。この2つでは顔の動かし方が違います。

手話で「佐藤」を表す動作をする松﨑丈さんの写真

例として、「佐藤さん」に関する疑問文を示してみます。まず、「佐藤」の手話はこのように表します。

    

(編集注:「佐藤」が「砂糖」と同じ読みであることから、「甘い」という手話と同じ表現で「佐藤」を表します。)

「佐藤さんですか?」と「Yes/No疑問文」で尋ねる場合、眉が上がったりうなずきがあったりします。

手話の「Yes/No疑問文」の表現を説明する図。左側には眉を上げて目を見開き、顎を引きながら手話をする松﨑丈さんの写真があり、右側には「Yes/No疑問文」「佐藤さんですか?」「眉の動き / 目の見開き / あご引き」という解説テキストが添えられている。

一方、「佐藤さんはどこですか?」などと「WH疑問文」で尋ねる場合には、首振りだったり、表情、眉、顎の動かし方が違います。

手話の「WH疑問文」の表現を説明する図。左側には首をかしげるように傾け、手話をする松﨑丈さんの写真があり、右側には「WH疑問文」「『誰』『何』『どこ』『いつ』など説明を求める」「『佐藤さんはどこですか?』」「眉の動き / 目の見開き / 首振リ」という解説テキストが添えられている。

このように、手話では顔を使って文法や情報の様々な表現ができます。日本語とは、言葉の作り方や文法が全く異なっています。

ろう教育で手話が禁止されていた歴史

――手話を使う人々の権利を守ることは、現在では国連の障害者権利条約にも定められています。しかし、かつて日本のろう学校では、手話の使用が禁止されていた歴史がありました。これはどのような経緯で禁止されることになったのでしょうか?

まず、(手話が禁止された)当時の文部大臣だった鳩山一郎大臣が1933年(昭和8年)に行った訓示を読んでもらいたいと思います。

「聾児に在りましては、日本人たる以上、我が国語を出来るだけ完全に語り、他人の言語を理解し、言語によっての国民生活を営ましむることが必要でありまして、聾児の言語教育に依る国語力の養成は、国民思想を涵養する所以でありまして、国民教育の根本方針に合致するものと言わなければなりません。全国各聾唖学校に於ては、聾児の口話教育に奮励努力し研鑽工夫を重ね、其の実績を挙ぐるに一層努力せられんことを望みます」

鳩山一郎文部大臣の訓示(1933年、昭和8年)

この中に「国語力の養成」という言葉がありますね。「日本語」ではなく「国語力」という言い方です。

この背景を説明すると、明治時代に入る前、江戸時代には全国に藩が60くらいあり、それぞれに話し言葉も書き言葉もバラバラでした。

明治時代になり、近代国家を樹立するためにこうした藩を統一し、中央集権国家を目指す政治が進められました。そのためには、話し言葉や書き言葉も統一する必要がありましたが、それまでは統一されていなかったので、言葉を新しく作る必要がありました。

ローマ字に統一する、漢字を捨ててカナに統一するなど、色々な議論があったようです。

その議論の中で「国語力」という言葉が新しく作られました。まず、聞こえる人たちに対して、地域によって異なる言葉を統一するために学ぶ必要があるということから始まり、その後、聞こえない人たちも同じように国語力を養成しなければならないという考え方につながっていきました。

そして次に、「聞こえない子ども」も同じく国語力を身につけなければいけないということになり、その方法をどうするかという問題になりました。

明治時代以降、聞こえない子どもたちに対し色々な教育方法が試されていました。最初は手話と「文を書く」という2つの方法から試そうと教育が始まったのです。

その後、口話法 * や声を出してみる練習をする教育が始まりました。しかし、先生たちの間には「(聞こえない)子どもたちが声を使うのは無理ではないか」「発声を習得するのは難しいのではないか」といった懸念から、手話と文を書く方法を使って教えたほうがいいという考え方がまだありました。

* 口話法…聴覚障害者に、相手の口の動きや表情を見て言葉を読み取る読話と、自身の声で話す発語を訓練し、意思疎通を図る教育・コミュニケーション方法

一方で、「絶対に口話法の方がよい」と考える人たちもいました。その人たちは一生懸命に口話教育に取り組み、結果として成功した例もありました。そうした成功例について、ろう学校の先生たちに対してだけではなく、文部省に対しても、口話法を推し進める活動がなされました。

その中で、手話は「身振り」であり、先ほど説明したような単語や文法は作れないといったことや、抽象的な考えは難しいといったことが主張されました。音声(日本語)のほうが抽象的なことを思考でき、文法を持つので細かい思考も可能である、といった説明の仕方で口話法が推進されたのです。

文部省がそれを聞いて認める形になり、(先に見た鳩山文部大臣の訓示のように、)聞こえない子どもも口話法を使って日本語力を養成すればいいという指示が広められていきました。

宮城教育大学の研究室で手話の表現をする松﨑丈さんの写真
松﨑丈さん。宮城教育大学の研究室にて。(佐々木想撮影)

1990年代にはじめて認められた手話

――こうした手話を禁止するような流れというのは、その後はどう変わっていったのでしょうか?

文部省から口話法のほうがよいという指示が出たことで、徐々に手話の禁止が広がりましたが、2か所だけ手話も大切だという考えを持ち続けた、ろう学校がありました。

1つ目は大阪ろう学校(当時:大阪市立聾唖学校)、2つ目は北海道の函館ろう学校(当時:函館盲唖院)です。その2校は手話も取り入れて教育を続けましたが、なかなか浸透はしませんでした。

その後、1960年頃、栃木のろう学校で「今までずっと口話法だけで教育してきたけれども、口話法だけでは厳しいのではないか」という考えから、手を使った教育を取り入れることが検討され、指文字や手話を含めて日本語を教えてみるといった新しい方法が始められました。

しかし、先ほど説明したように日本手話と日本語は別の言葉なのですが、聞こえる先生方が考案して作った手話を使うという方法で教え始めました。その方法だけでは限界があり、普及もしませんでした。

その後、1990年頃に大きな変化がありました。まず文部省が聴覚障害教育の方向性や考えを表明した際、以前は手話は禁止されていましたが、(ろう学校)高等部の場合は卒業後にろう者同士の交流が必要なので手話を使ってもいいとされ、また、親が聞こえない人の場合は手話を使ってもいい、あるいは聴覚障害以外の障害も重複してある場合には手話を使ってもいい、など、色々な条件付きで手話を使ってもいいと表明されました。

ろう学校で手話を使ってもいいとされたのはこれが初めてでした。それがきっかけで少しずつ、ろう学校で手話を導入するところが増えていきました。

宮城教育大学の研究室で手話の表現をする松﨑丈さんの写真
松﨑丈さん。宮城教育大学の研究室にて。(佐々木想撮影)

その後、別の流れとして「手話言語発達」と呼ばれる「手話言語は自然に身につけることができる言語だ」ということが様々な研究により発見されました。

その結果を受けて、ろう学校の中でも高等部だけではなく、もっと幼い乳幼児の頃から手話を使ったほうが良いのではないかという考え方が持たれました。手話を積極的に取り入れることが徐々に広がり、その流れで、文部省も手話を幼い頃から使ってもいいと容認する雰囲気に変わってきたのです。

――手話が認められるようになったのは、ごく最近のことだったのだなと感じます。

そうですね、本当に最近の話なんです。でも、赤ちゃんのときに手話を導入した結果、聞こえる子と同じように自然に言語を習得することができ、さらに日本語の力も全体的にアップするなど、(現在では)色々な効果が見てわかるようになりました。

手話禁止の背景にあったもの

――ろう教育の現場で手話が排除されてしまった背景には、どのような考えや社会的な問題があったと考えられるでしょうか?

色々な背景があるかと思います。1つ目は、「手話は言語だ」ということの認識がまだされていなかったので、「手話は身振りと同じ」というような見方が広まりやすかったのだと思います。

2つ目に、先ほど説明したように「国語力=日本語」であり、日本語の方が手話より進んでいると考えられ、(音声)日本語を教える方法の研究や教えることに集中してしまいました。この2点が大きかったと思います。

実は、先ほど言及した大阪ろう学校は、口話法での教育の指示があった後も「手話も必要だ」という考え方を持ち続けたのです。でもそれは「口話法は不要」ということではなく「口話法も必要、手話も必要」という考え方でした。つまり他では手話を排除して口話法だけで進めるということでしたが、大阪と函館では手話も必要だという考え方が続けられました。

大阪ろう学校では、聞こえる先生の中に「手話は言語みたいだ」という見方をした方がいました。古い資料に「(手話には)文法があるのではないか」という説明が載っています。(松永端「手語の創造ー或はその形成に就いてー」1929年、聾唖教育研究叢書)

たとえば、語順です。日本語の場合は「とても悲しい」と言うときに「とても」が先で次に「悲しい」が来ますが、手話の場合は語順が逆になり「悲しい」「とても」となります。「(文法として)“とても”が後になるらしい」というような発見だとか、「だから」「でも」のように文を接続する文法的な表現もある、そういう発見がいくつもありました。

しかし、そういった情報もなかなか広まりませんでした。やはり「手話は身振り」という考え、「言語ではない」という考えが根強くあったと思います。

――ありがとうございます。今回は、ろう教育で手話が禁止されてきた歴史と、その背景にあったものについて、松﨑丈さんのお話を伺ってきました。続く後編では、ろう者が自分らしく生きるとは何かを問い直し、自分のアイデンティティを見つめ直す「デフフッド」という概念について伺っていきたいと思います。(近日公開予定)

紺色の長袖シャツと丸フレームの眼鏡を身につけ、正面を向いて穏やかな表情で佇む松﨑丈さんのバストアップ写真。背景は屋外の緑や光が柔らかくボケている。
松﨑丈さん。(佐々木想撮影)

※本編は動画でもご視聴いただけます。松﨑さんの手話によるお話をぜひご覧ください。

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(2026.9.23 / 取材・執筆 伏見和子、 取材・手話翻訳 庭野登紀子、撮影 佐々木想)

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